法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
「イーペンさん」
いろいろ持ち上げられることもあるが、アユミチはまだ若造だ。
評価の方が過剰で、それに応じた振る舞いを求められる。
そんな中、頼れる年上の知人の存在はありがたかった。
「すごいよ、ほんと」
治療薬を作ってくれた。
完全ではないと言うが、長く世界を苦しめてきた死病への対抗策を見つけ、さらにそれを広く公表したという。
すごい人だ。
病気を克服した体と経験があるとしても、アユミチにはできないことをやってくれた。
頭が下がる。
「吾輩、荒事ではとんとお役に立ちませんが」
きれいに手入れし直したひげを撫で、整えた身なりに納得したように頷く。
「できることをしたまでですぞ」
「……ありがとうございます」
荒事、戦場では役に立たない。
だとしても、おそらく世界で最も多くの人を救う偉業を成した男だ。
そして――
「荷馬車まで用立ててもらえるなんて」
「ははっ、安いものですな。一度は吾輩の手を離れた財ですので」
鬼巫の隠れ里に向かうと決めたアユミチに、寄り道になるが旅支度のあてがあると申し出た。
イーペンの家。王都の中にもあったそうだが、手広く商売をやっていると言っていた。
そのうちのひとつで王都近郊に、荷物などを保管する為に頑丈な倉庫。
王都ほどは荒れていない。
また、使用人たちが逃げ込み、拠点として守っていた。
イーペン追放後に家督を継いだ弟はここにいない。どこかで生きているか死んだのか。
――死病を治す薬がある。
戦乱と疫病の恐怖に怯えていた使用人たちは、イーペンが死病で追放されたことは知っている。
それが元気な姿で戻ってきた。
死病を治して、治す薬があると言って。
本来の主だとかなんだとか、本心はともかくとして歓待された。
留守中、倉庫の備蓄を食いつぶしていたことももちろん罪に問わない。
レーマ様の美酒を振る舞い、一晩だけだが久しぶりにまともな寝床を得られた。ありがたい。
「コニー殿とプレヴラはここで吾輩が預かりましょう」
「頼む」
「使徒様」
出発の準備を終えたアユミチをプレヴラが呼ぶ。
アユミチの不注意で折れない棒に触れ、ポスフォスに魅入られ、あやうく死なせるところだった。
勘のいい子だと思うことはあったが、あれもポスフォスの影響だったか。
「よくないものが、まだのこってる」
「わかった」
まだよくないものがある。よくないことが起きる。
なんとなくそう感じるらしい。ポスフォスの力がまだ少し残っているのかもしれない。
「アユミチ様、娘は……私が森で助かったのも娘の勘に助けられたからです。だから」
「大丈夫。わかるよ」
プレヴラの言葉が子供のたわごとではないと案じるコニーに、信じていないわけではないと頷いた。
「だから、ファニアを迎えに行く」
「……どうぞお気をつけて」
「ファニアさま、待ってる」
「ああ」
進むと決めたことは間違いではない。
プレヴラの言葉が背中を押してくれる。
「危険と思えばいつでも戻るのですぞ。他の皆さまも」
イーペンが特に見ているのは、アユミチと同行するカヨウとクルサドだ。
置いていくべきか、どうか。
カヨウはアユミチから離れるつもりがなく、ここに置いていくのが安全とも限らない。
離れてお互い心配するくらいなら、一緒にいて一緒に死ぬ。カヨウからそう言われた。
最悪でも、満月近くになればレーマ様のところに連れて逃げることはできるだろう。
クルサドも一緒に行くと言う。カヨウはよくてクルサドはダメというのもどうか。
リグラーダの弟。やはりアユミチが守るべき相手。
そして、次の満月にはレーマ様に預けることになる。鬼巫の隠れ里がどんな場所かわからないが、戻れる確信がなかった。
「そんな怖い顔しなくても、私がここに残るのが証明にならないかしら?」
「この先は見えないんじゃないのか?」
「自分の足元くらいはなんとなく見えるの」
アスパーサはここに残る。
北も南も、この先はどこに向かっても暗くて見えないか眩しくて見えないか。そんな感じらしい。
神の領分は見えない。レーマ様が復活するからか、あるいはスカーアのせいか。
運命はもう彼女の可視領域を超えてしまったのだと思う。
「別に喧嘩に行くわけじゃない」
エクピキ打倒の為に王都を目指した時とは違う。
鬼巫の隠れ里に向かい、ファニアを連れて帰るだけ。
カヨウの幻術は、そういう点では有用なこともあるだろう。
「ファニアを連れて戻るだけだ。戻ったら……」
「全部話すわ」
アスパーサは予知の力と引き替えに嘘をつけないのだという。
この先のことは見えない。
過去のことは、根掘り葉掘り聞きだすような時間がない。
今問い質しても仕方がない。少なくとも、ここが安全ならそれでよしとする。
「もし何か危険が迫るようなら」
「ええ、彼らに伝えて逃げるようにするわ。私に見えれば、だけれど」
「……他に隠し事は?」
「これでも一応女よ。ないわけがないでしょう」
ねえ、と。
微笑むアスパーサから離れる用カヨウかに引っ張られた。
ノクサも脳内のパテシーイも時間の無駄だと。
「センセイ」
諦めて出発しようとしたアユミチを呼ぶ。
「感謝しているわ。本当に、心から」
「何も、大したことは……」
「初めてなの」
初めて、いつもとは違う素の、人らしい微笑を見た。
いつも嫣然と笑うアスパーサが、まるで少女のように。
「先が何もわからない。そんな未来に身を委ねるのは初めて」
「そう、なんだ」
「今、生きていると思える。だから」
パンドラの箱に残ったのは未来予知だったとか。
先のことが見えてしまうのは、ただ便利というだけではないのかもしれない。
ありがとうという彼女の笑顔に立ち止まるアユミチを、カヨウは急かさなかった。
◆ ◇ ◆