法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて   作:大洲やとこ

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7-24.世界の記憶

 

 ノクサの知覚をアユミチに同調(シンクロ)させたとしたら、きっとパニックに陥っていただろう。

 なんなら発狂していたかもしれない。

 世界が違うというのはそれくらい生き物の精神に負担になるはず。

 

 知っている世界とルールが違う。

 風土が違えば、慣習が異なれば、頭でそれを知っていたとしても心と体が拒否をする。

 

 例えるなら。

 無垢な人を殺せば殺すだけ賞賛を受ける、とか。

 良質な食料用に自分の血を引いた赤ちゃんを産ませる、とか。

 あるいはもっと陰惨な、異様な、言葉にできないくらいおかしな空気の肌ざわり。

 そういう常識の国に突然放り込まれたような、それくらいの違和感を覚えるのだ。ここは。

 あらゆるものがノクサの肌を、羽根を、逆さに撫でていく。

 

 ノクサにとって初めての感覚だ。

 まるで別世界。異世界。

 感覚が狂う。

 狂気を孕んだ隠れ里の人間が迫ってきたのを感じ取れなかった。目視で確認しただけ。

 長く封じられて鈍っていた感覚を、この一年でかなり取り戻したつもりだったのに。

 

 双子のどちらかが使った小細工のような魔法が思いのほかよく弾む。

 それもおかしいのだけれど、この場所はとにかくおかしいのだ。あべこべで乱れた世界。

 

 

「ノクサ! 追っ手は?」

『わかんないっ! 見えない、けどっ!』

 

 異様な場所で自分の感覚が信用できない。

 逆に、相手にとっては住み慣れた場所のはず。

 シュキを先頭に問答無用で襲ってくる連中が諦めてくれるものかどうか。

 

「うぉっと!? 軽くて助かっちゃいるけどよっ!」

「ムンジィ、クルサドは!」

「こっち、へいきっだっ」

 

 走るというより弾んで跳んで、バランスを崩して手を地面について、また()ねる。

 地面が弾力のある波のように皆を運ぶおかげで、山の中を兎のように軽やかに駆けていた。

 最初は驚きと戸惑いで必死だったが、慣れてくれば逃走にはうってつけの魔法。

 いたずら妖精の逃げ足の魔法。邪魔な木々が避けていくのも魔法の効果か。ああ、まったく。

 

 魔法は世界の記憶の波形。

 過去の伝承や災害、神の奇跡などを世界が覚えていて、それになぞらえた呪文や道具で似た現象を引っ張り出して引き起こす。

 スカーアの影響下にあるここで、どうしてこんな魔法が色濃く効果を発揮したのか。

 考えるとやっぱりあべこべで頭がこんがらがる。

 とにかく今はどこかで落ち着きたい。背後に集中してみても追ってくる気配は感じないけれど。

 

 シュキがファニアと同格なら、思い切り走れば同じくらいの速さだっただろう。

 しかし山中。樹木が邪魔をして高低差もあれば、平地を走る半分の速度も出ない。

 かなり距離は稼いだと考えてもよさそうだ。

 

「いつまで、続くっですかっ」

「そろそろ切れる、感じか弟?」

「日暮れにゃ終わると願っちゃいるよっ」

 

 カヨウもクルサドも魔法の逃走に慣れてきてはいる。

 魔法の効果がいつまでなのか、双子の希望的観測ならそろそろ切れるのか。

 

 日暮れ。

 意図せず隠れ里に地響きを立てて侵入してしまったのは午前だった。

 正午頃にシュキと遭遇し、今はもう日暮れ。

 へんてこな魔法のおかげで体力の消耗はそこまでではない。それも相まって時間の感覚も狂う。

 

 

『追っ手はいないと思う』

「わかった、ありがとっ」

 

 アユミチが跳ねながら返す礼に、なんだか申し訳ない。

 後から考えれば、隠れ里の入り口はノクサに反応して異変を起こしたのだ。

 おそらくアユミチたちだけだったら山々に響くような天変地異は起きなかった。シュキが殺気立って向かってくることもなかったかもしれない。

 

 スカーアはノクサを警戒していたのか。

 神域近くに封じて、それでもいつかここに来ると考えていて。

 ノクサではなくエクピキや他の誰かだったとしても、同じようになっていたのかもしれないけれど。

 

 

『アユミチ、ごめ――』

 

 後ろを警戒していた。

 なかなか集中できない感覚をどうにか集めて、全神経で背後からの危険を感じとろうとして。

 

 前は、見ていなかった。

 

 

「地に在りては大雲の――」

 

 大木を数十まとめて引き裂く激烈な暴風の魔法。

 その目の前に飛び出してしまうなんて。

 

 

  ◆   ◇   ◆

 

 

 耳鳴りがする。

 視界は、よく見えない。

 殴られたせいで腫れているのか。どこか神経が壊れてしまったのか片目から涙が止まらない。

 鼻血が詰まって息が苦しい。

 苦しくて、痛くて、苦しくて。

 咳き込むだけで胸と腹に痛みが走り、体を縮めると足の間がひどくこすれてじんじん痛んだ。

 

「ば、ふ……っ」

 

 かろうじて継いだ息が、胸の中に胸糞のような味を運ぶ。

 血の鉄臭さと、醜悪な蛙が垂らす体液の臭い。

 

「ぶ……ぇ……」

 

 嘔吐する体力もなく、よだれで床に流し出す。

 忌まわしい、汚らしい記憶と糞のような何かを。

 

 

 耳鳴りがする。

 目は、よく見えない。

 腹の奥の鈍痛と、ぐぉんごぉと回る頭。

 立ち上がれない。

 

「――っ」

 

 耳鳴りを押して何かが聞こえる。

 分厚い壁の向こうのように、けれどそんな遠くじゃない。

 クヌーイの涙と血が零れる床。

 床が揺れる。軋む。

 その振動と重なって、カンナの嗚咽が頭に響く。

 

「かん、な……」

 

 二人で、二人だけで過ごしたこの場所での時間。

 温かくて柔らかくて、どこまでも心地よかった。

 同じ場所。

 今は、肥溜めよりも汚い場所になってしまった。

 

 

「はっはぁっ! へっへへぇ」

「よく、なってんじゃねえか、なぁっ」

 

 糞に湧く蛆虫が何か言ってる。

 クヌーイの足の間で、もう痛みもわからないくらいにすり切れたクヌーイの肌を削りながら、ぐちゃぐちゃと肥を掻きまわすような声で喋っている。

 この生き物の体内には腐った糞尿が流れている。

 スカーアはこの腐臭からクヌーイたちを守って下さっていたのだ。

 

「くぬ……いっ……」

「敵が来てるってよ、お仲間だろぉ」

「安心しな、一緒に可愛がってやるからな」

 

 蛆虫の数が減っている。

 少し前に何か騒いで出て行った。

 ここにいるのは、まだ順番がどうとか言って入ってきた蛆虫。

 

 安心?

 何を安心するというのか、この蛆虫の言葉はわからない。

 

 安心なんてない。

 ゲロより臭い体液の流れるこの蛆虫が世界から消えない限り、どこにも安心なんてない。

 

「もっと肉付きのいい女もいるんだよなぁ?」

「へへ、お前らの姉ちゃんがいりゃあ、男の楽しませ方を教えてもらおうぜ、よぉ!」

「いっ!?」

 

 カンナの悲鳴で、クヌーイの視界が瞬間はっきりと定まる。

 届かない。

 指が届かない先で、カンナの流した血と涙が床を伝う。

 蛆虫どもが揺れるにつれ、床の傾きでカンナとクヌーイの間を這うようにゆっくりと流れる。

 届かない。

 月の傾く時を追うかのように、見ていても全然進まない。

 クヌーイから流れた雫がそこに届くまで。カンナと繋がるまで。

 

 無限に、無間に。

 祈り続けた。

 

 死にますように。

 絶えますように。

 世界から、世界の全てから。

 男が死に絶えますように。

 世界に必要ない。

 私の世界から。私たちの世界から。私たちだけの世界に。

 全て、永劫に、塵も残さず。

 指の先からぐちゃぐちゃに磨り潰され、声を上げることもできぬよう灼けた油で喉を埋めて、目玉の隙間に茨を抉り込み。

 二度と生まれてくることがないよう、生まれてきたいと願わぬように。

 それが、私たちの世界。

 女神スカーア。どうか世界をお救い下さい。

 

 

  ◆   ◇   ◆

 

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