法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
臆病。
だから勇猛に振る舞う。
そういう自分を作って弱い自分を隠す。
花のように美しい姫なら、多くの誰もがその愛を射止めようと求めるのだろう。
そうなりたい。
そうありたい。
けれど、自分にはできない。自分はそんな風にはなれない。届かない憧れ。
身の程を弁えない過ぎた望みを隠したくて、逆と信じる姿を目指した。
女だてらに武器を取り、他を寄せ付けぬほどの勇を示す。
自分はこれでいい。これが自分だ。ファニア・イア・イオルテはかくあるべし。
――妾と共にきてくれぬか。ファニア。
選ばれた。
求められた。
鬼巫アハラマがくれた言葉はファニアが欲していたものだった。
心の隙間を埋めてくれる言葉。
女として求められたわけではないけれど、嬉しかった。満たされた。
彼女の為に死のうと本気で思うほど。
ようやく得られた居場所。それを失う。
命を捧げると誓った鬼巫から離れ、捨て森で死ぬことだけが自分にできる最後のことなのだと。
空しく、口惜しく、なんの為に生まれてきたのかと泣いた。
絶望に沈む中で聞かされる。
怪しげな男の聞くに堪えない与太話。
だまれ。
だまれ。
だまれだまれだまれ……
頼む、お願いだから、これ以上惨めな思いをさせないで。
助かりたいだなんて、節操のない望みを持たせないで。
素性の知れぬ弱々し気な男が、なんの義理もないくせに何度も繰り返す。
罵倒しても無視しても、一口だけでいいから薬を飲んでくれと。
泣きたいのはこちらなのに、泣きそうな顔をして訴えるのだ。
ばかだ。
薬なんてありはしない。治るはずなどない。救いなどもうどこにもない。
美しい姫がいた。
黒い蝶。熱と疼痛に苛まれる中、男の周囲を舞う黒アゲハ。
動きが女だ。世界に美という基準があるのなら、この黒蝶こそがそれだと思う。
鬼巫アハラマにもどこか似た形。黒蝶なのにどうしてかそう感じる。
もう一人。
人の形の美姫。
黒蝶を天の華とするなら、こちらは地に咲く可憐な花。
こんなに美しいものを傍に置いておきながら、自分にも手を差し伸べてくれるのか。
どうして。
ただ助けたいから。
あなたに、死んでほしくないから。
そんな優しい言葉をかけられて、温さに殻が溶けてしまう。必死に守ろうとしていた自分の殻が。
男から何かを受け取るのには抵抗があった。
女の身を気遣ってか、少女の手を介して薬を与えられた。
甘い。
最上の果実からゆっくりと手間をかけて絞ったかのような飲み物。
鬼巫の花札に迎えられた時、アハラマからいただいた美酒にも並ぶほどの歓び。
神の飲み物か。これを飲んで死ぬのなら悪くない。
涙が零れた。
言っては悪いが、正直なところ信じてはいなかった。
薬などない。助かるはずなどないのだと、薬を嚥下しながらそう思った。
捨て森などという場所で得体のしれぬ者が配る飲み物が、最上級の美酒よりも優れたなにかであるわけがない。
死の間際、安らぎに似たものに触れ、錯覚しているだけだと。
死ぬのだと思ったらどこか安堵した。
もう苦しまなくていい。悩みも悔恨も忘れ眠りにつく。
目覚めた時、それまで苛まれていた苦痛が薄れ去っていくのを感じて、これが死なのかとぼんやり思う。
そうではなかった。
実際に救われてみて、なぜ自分が救われたのかただ不思議。
礼を述べ頭を下げると、彼は焦り困って弁明めいた言葉を並べた。
おかしな奴。
こちらが立場ある者だと知ったなら相応の対価を要求するものだろうに。
貸しとして恩に着せる様子もない。
恩を売って対価を求める。若い女であれば対価として……
そんな不安が湧いて、けれど彼はその不安を拭おうと言葉を尽くす。
ただ助かってよかった、また都のことを教えてくれと言って。
トローメでは女の地位は低い。
心情を思いやってくれる男はそう多くない。もっとぬけぬけとずけずけと勝手なことを言われるものだ。
まるで姫君のような扱い。
ちょっと嬉しかった。奇跡の薬を扱う神の使いが、自分を……
二度目に助けられた時、すっかり心は蕩けてしまった。
戦いを得意とする人ではないことは明らかなのに、絶望に落ちそうな時に戯劇の騎士のように颯爽と現れてほしい言葉をくれる。
もう大丈夫だ。
ああ、もう大丈夫なのだと。
あなたの姫になりたい。
だけど、知っている。私はどうしたってお姫様にはなれない。
美しく儚げな銀糸の美姫に届くことはない。なんという美しさか。
花咲く前の蕾、その少女にも敵わない。どこまでも深く吸い込まれそうな瞳の少女。
これだけの女を相手にしながら自制を失わない彼。
彼が仕える女神様というのはさらに眩しく美しいのだろう。
勝てない。お姫様争いじゃ勝てっこない。
違う形で役に立つから。
だから私のあなたよ。私をあなたの剣として傍に置いて下さい。
あなたがどんな女を娶ろうとも、私はあなたの剣でいる。
そこを居場所とさせてくれればいい。
あなたの為に花を咲く美姫になれなくても……
「……アユミチ」
「あぁ」
外は暗い。
夜という雰囲気でもない。分厚い雲に覆われた夕暮れに似た。
陰の中。隠れ里の内側。
「また、助けられた……」
「それを言うのはこっちだ。痛むところはないか?」
「……」
ううん、と。無言で首を振る。
少女のように甘えて。
「ならよかった」
引っかき傷が二本残る頬を緩ませて笑う。
優しい顔。
見返りや打算ではなく、ただ本当にファニアが無事でよかったと微笑んで。
「……小屋、か」
「休憩所みたいな……風呂もあったよ」
誰もいないが、わりと狭くはない山小屋。
いくつか並ぶ寝台のひとつに寝かせられていた。
「隠れ里ではあちこちに温泉があると言っていた。誰でも休みたい時に使えると」
「そりゃあ羨ましい」
「水浴び、好きだったものな。アユミチ」
「あったかい風呂の方が好きだよ。温泉なら最高だ」
少し珍しい。
何のてらいもなく素直に自分の好きなものだと嬉しそうな顔をする。
年下の男の子だったのだと感じられて嬉しい。
「入りたい」
「ああ、怪我がないなら――」
「一緒に入りたい」
言わないと踏み出せない。
そっちも、こっちも。
「……」
「アユミチ」
「わかった」
のんびりしていられる状況ではない。
はぐれてしまったあの子が心配だろう。すぐに合流したいはずだ。
わかっている。
だけどわかってくれた。
「うん」
遠慮がちに手を取られて、一緒に湯殿に向かった。
◆ ◇ ◆
「あまり見ないでほしい」
不安になる。
自信がない。
体格が無骨ということはないけれど、ゼラのように美麗なわけではない。
「綺麗だよ」
「嘘だ」
「嘘じゃない。本当だ」
「……」
彼がそう言ってくれるなら、それでいい。
湯で温まった体の内側が熱くなる。
流した汗がまた浮いてきて、首から胸に伝っていく。
彼の目がそれを追い、誤魔化すように体を寄せて。
「ファニア」
顎を肩に乗せて名を呼ぶ。
頭の後ろで囁く声と、濡れた背中に回される彼の指。
どくっどくんっ、と。
強い心音は自分が鳴らしているのか違うのか。わからない。
「アユミチ」
肌で感じる。
彼の存在を湯で火照った素肌で感じて、自分の熱も同じように伝える。
ぴたりと合わさって、お互いの頬をすり合わせてから目が合った。
「……愛している。君を、心から」
「……うん」
唇を重ねた。
重ねて、押し当てて、受け入れて。
心音が重なる。同じ音を並べて繋がる。
嘘じゃない。
愛された。
愛した。
ゼラと比べてとかそういう話ではなく、愛があった。
ファニアに対する強く深く切ない愛を確かに感じた。
同じく負けぬほどもっと狂おしいほどの愛を伝えた。
夜は明けない。
この夜は明けない。
だから、これで終わり。
衣服を身に着けて、夢のような時の終わりとした。
「ファニア」
「ありがとう、アユミチ」
他の何より優先してくれたのだ。
ファニアのこれきりの願いを、我がままを聞いてくれた。
世界の明日よりも先んじて愛を与えてくれた。
これほどの幸せを得られる人がどれほどいようか。
「為すべきことをしよう」
「……あぁ」
「アユミチ」
あなたが黒い
「この先、どんなことがあっても。私はあなたの妻だ」
「俺は君の夫だ。ファニア」
「なら」
見つめ合い、頷いた。
「友との約束を果たしてくれ。我が夫アユミチ」
「わかった」
「あなたは必ず世界の明日を守ってくれる。信じている」
「……やるよ」
少しだけ不安そうに眼を泳がせて、けれど強く頷き返す。
頼りなさそうで、頼もしくて、弱々しいのに強い人。
世界でただ一人、ファニアが愛した男。
「必ず戻る。だから、待っていてくれ」
「来なかったら私が行く」
「ああ……うん、そうだな」
頼るだけの性分ではない。
別にこのままおとなしくしてやるつもりもないのだ。
「いつも助けられてばっかりじゃカッコ悪いから、そうなる前に戻るよ」
「期待している。泣きついてもらっても私は構わないが」
「そう……だな。そうなる気がしてきた」
「遠慮しなくていい。私はあなたの妻なんだから」
「あんまり甘やかさないでくれ。寄りかかりたくなる」
次に会えるのなら、どんな形でも構わない。
この里に囚われたファニアには先がまるで見えないけれど、アユミチならやはり何か道を見つけてくれるのかもしれない。
それまで、ファニアはここで為すべきことをする。
「じゃあ、行ってくる」
「アユミチ」
黒い檻の外側を目指して歩き出すアユミチに声をかけた。
伴侶として。
「行ってらっしゃい。あなた」
「……行ってくるよ、ファニア」
◆ ◇ ◆