法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
天に底があるのだろうか。
ここまでとは違う雲の幕を掻き分けて進む。女神様の戦馬車の端にしがみつき、背中を支えてもらいながらふと思った。
いつも空に浮かんでいた雲。
考えたこともない。それがひんやりした水の粒の集まりだなんて。
天孔雀の背中でも薄っすら感じたけれど、その時は落ちないように夢中だった。
それらの雲の粒とは異なる、どこか熱を持ってかすかに光る粒がいっぱい。
神様の世界と地上を隔てるカーテンなのだろう。
隠れ里で捲られたのもこういった種類の何かだったのだと思う。
目に映るものの全てが初めて。
きれいで、どこか怖くなるほど広く深くて、言葉にならない。
落ち着いて見ていられるのは背中を支えてくれる手があるから。
クルサドが危なくないように、父や母のように添えられる手。
優しく、安心できる。
彼の優しさは甘い毒のよう。
慣れてしまえば、これが当たり前だと思ってしまうと、失くした時に苦しい気持ちになるだろう。
クルサドだけではない。カヨウや、きっとこれまで助けたという人たちにも、この手を差し伸べてきたはず。
姉リグラーダも、この手の感触を知っていたのか。
命がけで彼を助けたと聞いた。
気持ちはわかる。クルサドにも理解できる。
本当に貴い聖人という人が実在するのなら、その助けになるのなら命を投げ出してもいいと。
この手が失われるのは悲しい。
恐ろしく美しい世界が失われるのを悲しむように、この無思慮に優しい手がなくなるのを寂しく感じる。
「抜けるぞ」
「はい」
雲の天幕の先が明るくなってきた。
彼の声を受けて、戦馬車の端をもっと強く握った。
「この先に――」
彼の言葉が詰まる。
何かを感じたのか、背中に当てられた手にも力がこもり、ぎゅっと肉が硬くなる。
「かなり荒れてるわ、アユミチ」
「ああ、っ!」
二頭の神馬が雲を掻き分け天幕を突き抜ける。
抜けた先は、大嵐。
見境なく乱れ舞う光の濁流。
氾濫する大河のように荒れた流れが地の果てまでうねり、そこから渦を巻いて世界を取り囲む。
「これは……」
世界を飲み込む大蛇のごとく。
あるいは神話の時代から聳える大樹のように。
滂沱として溢れる奔流が取り囲む世界の中心にひとつの島。
まるで桶の底に空いた穴。
天に底があるのならまさにここか。
「スカーアのせいで端っこの横穴が塞がったのよ。空気抜きみたいな別の神域。たくさんの魂が集中して流れてきてるからこんなことになってるの」
「そうか……急ごう」
黒蝶様の言うことはクルサドには半分もわからない。
彼はわかったらしく、大渦の中心を見つめて頷いた。
「クルサド、大変かもしれないけど頼むな」
「はい、アユミチさん」
背中の手の感触に負けないよう、お腹に熱を込めて答えた。
女神様の為とか世界を救うとか、そういうのはクルサドにはわからない。
けれどこの優しさの貴さに、価値に応えられるのなら。
クルサドの小さな身など惜しむつもりはない。
全てでもって応えたいと、下っ腹にぐっと力を入れてもう一度頷いた。
「はいっ!」
◆ ◇ ◆
天に底があるのか。
神域の端の浜に戦馬車を止め、レーマ様の住む建物に入ってみて思う。
体育館にしては小さな、けれど部屋にしてはだだっ広い空間。
大きさの違う団子をいくつか重ねたような丸い建物。うんこに例えたこともあったかもしれない。
天井は屋根と一体で、その屋根そのものは建物から浮いていた。
前も見た。横の壁と浮いた天井の隙間から空が見える。
丸い建物の内側から上を見上げると、丸い形状のせいか浮いている屋根県天井が球体のようにも見える。
まるでラムネ瓶の内側から、上のビー玉を見上げたような気分。
以前よりさらに天井が浮いているせいでそんな風にみえるのかもしれない。
なんとなく栓が抜けたような風にも感じる。
天に底があるのかと疑問に思った。
「レーマ様……?」
外は荒れている。
中は、誰もいない。
だだっ広い部屋の中でも圧力的な存在感を放つレーマ様の姿がない。
不在は今までなかったことだが、アユミチとてレーマ様が普段どうしているのかなど知らない。
この異変だ。
何かしら神様っぽい仕事の為にどこかに出ているのか、それとも――
「あっち、かな?」
「……」
元からあった建物とは別の、イサヤを始めとして届けた男児たちの為に作られた塔のような建造物。
まあ不思議はない。特に用事がなければお気に入りの男児と過ごしていて当然と言えば当然。
「待っていたらいいんじゃない。どこに行けるはずもないんだから」
「そう……」
レーマ様の戦馬車はアユミチたちが乗ってきた。
どこか遠出できるわけもなく、待てばいいと。
しかし、いつ戻るかもわからない。こうしている間にも事態が悪化していくかもしれない。
地上に残してきた仲間たち、ファニア、カヨウのことも心配だ。
それに……
「……」
喉に触れる。
自分の喉。
細くたおやかなゼラの首とは違う。
ファニアとの逢瀬を経て、あらためて思い出す。
最初に愛した妻。最愛の一人。失い、ようやく取り戻すところまで辿り着いたゼラのことを。
ファニアを助けたい。
ムンジィとの約束を果たさなければならない。
カヨウを黙っておいてきてしまった。他にも待っている人たちがいる。
アユミチだけではとても無理だ。レーマ様に頼むことは頼む、頼るけれど。
無条件に、今抱えているあれこれを言えるわけではない。
言ってもいい相手。
頼り、縋り、泣きついてもいい人。
ゼラに話したい。
迷っていること悩んでいることをすべて打ち明け、許してほしい。助けてほしい。
この状況になってそう思う。
寄りかかれる何かがほしい。アユミチはただの小さな人間に過ぎないのだ。
「どこに……」
見回す。
部屋の隅に置かれた
その向こうに
「あっちか」
「入るなって言われたでしょ」
そちらに体を向けたアユミチにノクサが声をかけた。
新しい建物には入るなと、確かにそう言っていた。
「やめときなさい」
「声をかけてみるだけだって。入らないよ」
施錠されているわけではない。
大きな声で呼びかければ、向こうにいれば聞こえるだろう。
レーマ様がいなくてもイサヤや誰かがいるはず。どこに行ったか知っているかもしれない。
「アユミチさん……?」
「待っててくれ、クルサド」
「……」
置いてあるつづらと衝立の間を通り、奥に向かって声をかけようと――
――かつっ……
何かを蹴っ飛ばした。
つづらの裏あたりに落ちていた何か。
小さなもの。
木製の、指くらいの大きさの棒……?
「これ……あぁ」
壁の隅に転がったそれを拾い上げて思い出す。
レーマ様の私物かと思ったが違う。
アユミチが作ったものだ。
「イサヤにやったやつ、だな」
木製の剣。みたいなキーホルダー。
手持無沙汰になんとなく削ってなめして、端っこに紐を通した簡素な飾り。
イサヤが欲しがったのであげたはず。
小学生が旅行先で買うドラゴンのキーホルダーみたいだと思ったものだ。
「……?」
拾い上げる時、剣の先が指す。
入ってはいけない、衝立の向こう側の出入り口。
いや、別に指し示したわけではない。ただ転がってそっちを向いただけのこと。
「……うん」
「アユミチ」
この辺から声をかけよう。
そう思っていたはず。だけれど足が勝手に向かう。
誘われるように。
「やめておきなさい」
ノクサの声が遠い。
少し離れた。
クルサドと一緒に待っているノクサから、アユミチの足が離れる。
「アユミチ、レーマの言いつけを守りなさい。よくない」
「あ……あぁ、そう……」
そうだ。レーマ様が入るなと言っていた。
わかっている。
少し見るだけ。
覗き見るだけだから。
「やめなさいアユミチ」
「っ……」
ふらふらと近づいていくアユミチに、ノクサがかなり厳しい声を刺した。
はっと足を止める。
そこにイサヤがいるような気がして、つい近づきすぎた。
我に返り、止まって。
「ごめん、ノクサ。お前の言うとお――」
ふい、と。
振り返ろうとしたアユミチの目の端に、手。
子供の手。
衝立に隠れていた通路の奥で、手が揺れた。
「――」
振り向きかけた顔が止まる。
ぎゅっと、拾った木の剣を握り込んだ。手の平に食い込み痛い。
「イサヤか、俺は――」
「やめてって言ってるアユミチ!」
再び通路側に進もうとしたアユミチの頬を飛んできたノクサが叩いた。
「余計なことはしない! 願うことだけ願って他のことは考えない! それだけでいいでしょ!」
「ノクサ……」
今にも泣きそうな顔でアユミチを叩いた。
慌てて追ってきたクルサドが、アユミチとノクサを交互に見上げて困ったように。
「神に願い事をするならちゃんとしなさい。相手はスカーアとおんなじ、アユミチの気持ちなんていちいち考えてくれないんだから」
「……ごめん、悪かった……」
ノクサの言うことはわかる。
だけど。
お前だって神様っぽい何かのくせに、そうやってこっちの心情をいちいち考えてくれているじゃないか。
レーマ様も、お前が言うほど非情なわけじゃ――
「あの……え、と……これは……?」
クルサドの声。
ノクサとアユミチのやり取りに困惑しつつ、何か別のものを見つけて。
「……う?」
光る。
アユミチの胸が光る。青く。
ぼんやり輝いている。
「これは……」
胸の奥。しまっておいたもの。
宝石だ。
そう、忘れかけていたけれど、ここで受け取った。
王弟ニーモから預かったトローメ王家の秘宝。青い宝石。千海の中子、だったか。
はっと見れば、先ほど通路側から伸びた少年の手。
呼び合うように青い秘宝が光る。
ということは、そこにいるのはニーモに違いない。
「あぁ、よかった。レーマ様を呼んでもらえたら……」
中に入らなくても頼めばいい。
王弟……王様になるのか。そんな相手に頼んでいいのかと思わなくもないが、そんなことを言っている場合でもない。
青い宝石の首飾りを取り出して、求めるようなその手に渡そうと――
「……アユミチ」
「?」
イサヤに木剣の飾りを渡した時のように手の平に乗せて。
その小さな手から、青い秘宝はするりとすり抜けた。
「あ……?」
がしゃん、と。
きれいな音を立てて、秘宝千海の中子は床に落ちた。
◆ ◇ ◆
「僕はあなたとほとんど関係がなかったから。だと思います」
もうノクサは何も言わなかった。
「他の子たちと違って僕はあなたにそれほど強い恩を感じていなかった。失礼ながら、薬師アユミチ」
アユミチが渡そうとした宝石を受け取る体はなかった。幻ではないが、受け取れる手はなかった。
その意味を聞くこともできない。
宝石はすり抜けたけれど。
青い光は、千海の中子から漏れた光は、少年の手に吸い込まれた。
そして話す。
「女神様にはお応えしました。あなたの為に全てを捧げる覚悟があるかと聞かれて」
「……」
「僕より先の子たちは迷わず答えたのだと思います。僕とは違い、心の底から」
僕は悪い子ですね、と。
違う。
そうじゃない。
お前は悪くない。
「なんだってする。命だってかける。あなたの為にならどんな苦しみも厭わない」
「違う……」
「僕にはそこまで思えなかった。だからでしょう」
「……」
「半端に、僕だけ残った。こうして」
苦しい。
吐きそうだ。
ノクサは何も言わない。
クルサドはアユミチの裾を強く握ってついてくる。
吐きそうだ。吐きそうだ。
見たくない。見なければならない。見ていられない。
目が回る。
けれど足は止められない。今進まなければ。アユミチが進まなければならない通路。一方通行。逃げ道はなく戻ることも許されない。間違っているとわかっているのに、夢の中のように抗うこともできず先を進むニーモの足元から目線を逸らせず、ただ進む。
「王家に伝わる秘宝。神の遺物。こうしてあなたと話す時間をくれました」
「ニーモ……」
「薬師アユミチ」
足が止まる。
ニーモの足が止まる。目的地。終着点。
きっとそれほど長い距離ではなかったはず。
死刑囚のように、今までここに送り出した子供たちを思い出しながら一歩ずつ歩いた。
「誤解のないように。僕も、他の子たちも、後悔はしていません」
「そんなはず……」
「本当です」
「だとしても!」
お前たちが悔やんでいないとかそんなの関係ない。
俺が嫌なのだ、と。
俺が許せないのだと。
他に何も言えない。
けれど、ここまで来たのは。
もしかしたら何かの間違いなんじゃないかって。
そんな悪いことがあるはずがない。最悪の想像なんてただの勘違い。あるいはアユミチを試すだけに仕掛けられた神様の試練。
そうだ、願いを叶えるには親も捨てられるかとかそんな昔話があった。そういう試しなのかもしれないと。
「……そんな、ことを……」
甘い。
甘い。
世界は、神は、人を甘やかしたりしてくれない。
知っていたはず。
わかっていたはずなのに。
「……」
「せめて願いを叶えて下さい。あなたの願いを」
「……」
「みんなそう願っています。そう伝えたかった」
「……」
「あなたのその姿が皆の救いです。だから僕も、これで悔いはありません」
膝を着き、左右の瞳からぼろぼろと涙を流すしかできない。
渦巻き状に、あるいは時計のように。
床に刻まれた魔法陣のような円の中、十一の光る何かが浮かんでいる。
「僕たちの命の意味を……どうか……」
脳から脊椎までを浮かべたような光の筋。
あるいはぜんまい、わらび、こごみの若芽にも似た魂。
ニーモの姿が消え、十二番目の小さな柱が立った。
「イサヤ、ナーリヒ、カハロ……」
呼ぶ。
「ミハル、オトマル、ビイト、ヤン、ルバル、イーバン」
呼びかける。
「ポロ、ノザク、ニーモ……」
もう答えない若芽の光に、ただ呼びかける。
意味なんてない。
もう意味などない。全てアユミチが失わせた。
自分の為に。自分だけの為に利用して
死を選ばせた。
アユミチが殺した子供たちの前で。
詫びる言葉もない。
「俺は……そんな……」
「……」
私利私欲の為に子供を食い物にした。
何も知らない子を犠牲にして、自分だけ望みをかなえようと。
「だから……」
ノクサが声を絞り出す。
「入るなって言ったはずだ。言ったよな」
涙と鼻水でどろどろの顔で、膝を着いたまま。
顔だけ振り向いて、偉大なる女神にアユミチの素顔を曝け出した。
◆ ◇ ◆
「違う……違うんですよね……レーマ様、これは……」
「わかるように言えよ」
「こんな……この子たちを殺したりしてない……してない、違うんだ……違いますよね……」
「いんや」
「……」
「もう生きてない。そいつらは」
「……」
「死んだ」
「生き返るんでしょう? レーマ様が復活したら、この子たちだって……」
「無理だ」
「嘘だ」
「あたしの復活にはこいつらの命が必要だった。食ったものを生き返らせるなんてできねえ」
「そんなはずない! 違うんだ!」
「……」
「違う……こんなの、嘘だ……こんなはずが……だって、殺さないって……」
「言ってねえ」
「言った!」
「言ってねえんだよ」
「だって、俺は……あなたの……レーマ様の為に、この子たちを……」
「何を犠牲にしても、どんだけ苦しくても願いを叶える為にやるのか。あたしはお前に聞いた」
「この子たちは! 関係ない! 違う、だって命はいらないって……」
「小娘の命なんていらねえ。それは言ったな」
「この子たちだって、死にたくなかった。生きてまた……」
「お前の為になら命も捧げる。皆そう言ってたぜ、アユミチ」
「違う、そんな馬鹿なこと……誰も、願ってなんか……」
「お前は違った。でもお前はそいつらじゃねえよ。だから入るなって言っただろうが」
「イサヤは……みんな、楽しそうに……この塔にいたんだ。見たんだ」
「あっち側は見たいもんばっかりが見える。言ったはずだぜ」
「俺は……」
「話はあとだ。泣き言も恨み言も全部あとで聞いてやる。だからもうお前、出ていけよ」
「……」
「嫌だろ。見てられねえだろうが。お前は」
「なにを……」
「最後のその子供を置いて、出ていけよ……」
「どう……する、つもり……」
「言わせんなよ……聞くな、バカが……」
「……アユミチさん、僕は……僕なら……」
「ノクサ」
「あ? のく、さ……?」
「なに?」
「なんとか……なんとか、して……助けてくれ……」
「誰を?」
「……頼む、お願いだから……ノクサ」
黒いものが溢れ出す。
「俺の、全部やるから、ノクサ……全部だ」
静かな塔の部屋を、黒いものが埋め尽くした。
◆ ◇ ◆