法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
「一緒に帰りましょう、アユミチさん」
手を差し伸べる。
救いの手を。
「大丈夫。女神様は許して下さいます」
「カヨウ……」
一頭だけの戦馬車に乗ってきた。
地上には降りず、浮いたまま。空を見上げる形で、母に声をかけられているようにも感じる。
優しい声で助け舟を届けてくれた。
「……嘘だ」
レーマ様が許すはずがない。
許してくれるわけがないのだ。気まぐれで生かした虫けらが、寝室で糞尿を巻き散らし噛みついて逃げていったようなもの。
見つけたら殺す。
それ以外にない。
「嘘じゃありません」
「……」
「女神様は嘘など言われません。ご存じでしょう?」
空から降って湧いてきた宝物の雨も収まってくる。
屋敷にいた他の者も集まり、固唾を呑んで見守る。
「ただで許すわけじゃないんでしょ」
カヨウに手を伸ばすのも拒むのも迷うアユミチの横からノクサが。
「条件は?」
「何も。私は連れてくるよう言い付かっただけです」
ノクサを一瞥して冷たく。
「アユミチさんに謝ってもらいたいそうです。女神様の御慈悲です」
謝るだけで許してくれるのか。
あのレーマ様がアユミチの謝罪を聞き入れると。
「私がこうしてここに来たことでわかっていただけるかと」
アユミチが壊していった戦馬車を繋ぎ直し、それを駆ってきた。
レーマ様の許しなしでできるとは思えない。
「条件出さなかった説明にはなってないわよ」
「……悩んでいる時間はありませんが」
ノクサの問い詰めに嘆息し、駄々っ子はしょうがないという表情を浮かべた。
カヨウの浮かぶ空の後ろがだんだんと暗く、影が迫ってくる。
スカーアの空が近づいてきている。
「私は女神様に誓いました。アユミチさんを連れて戻ると」
影の領域に入ったからと言って死ぬわけではない。
だが好ましい状況にはならないだろう。
悩んでいる時間はない。
結局、他に道がないのなら。
「誓いを果たせない時は私が死ぬだけです」
「……カヨウ」
「どちらにしても世界が終わってしまうのなら同じことです」
「世界なんて気にするの? あなたが」
挑発的なノクサの言葉を受け、まばたきを、二度。
それから初めてノクサを正面から瞳に映して笑う。微笑む。
「スカーアに、嫌われるわけですね、ノクサリージュ様」
「あなたが嫌ってるんでしょ。他の誰かの気持ちを盾にしてんじゃないわよ」
「ええほんとう。ノクサリージュ様は正しい」
ゆっくりと首を振って視線をアユミチに戻した。
「アユミチさんを助けたい、それだけです。世界なんてどうでもいい」
「……」
「このままではアユミチさんが死んでしまいます。女神様がそう仰いました」
「……ノクサ」
自分が死んでしまう。
それはもうわかっていたこと。
寿命の全てを使ってレーマ様に逆らった。
レーマ様もそれをわかっていたのだろうか? ノクサのことはわかっていないように思ったが。
「俺の命は……」
「ノクサは一巡りずつしかもらわない、残りはわからない。明日死ぬかもしれないし、半年後かも」
「……わかった」
寿命全てを捧げたのに生きているのは、一年に満たない端数分の残り。
レーマ様にもらった寿命だったからレーマ様には伝わっているのかもしれない。
本来ならなかった、レーマ様が与えてくれた時間。
「俺は……みんなを助けたいんだ」
「はい」
「レーマ様しか……」
「女神様を頼るしかありません。一緒に行きましょう、アユミチさん」
「……」
選択肢がない。
いや、レーマ様が許してくれるのなら。
最初からそれで、他に選べる道など……
「クルサドは……?」
その道は、つまり。
伸ばしかけた手が止まる。
「……わかりました、アユミチさん」
アユミチの不安を拭う優しい声。
「恩人の弟。アユミチさんが気に病むのはわかります。大丈夫」
「カヨウ」
ありがとう、と。
顔を上げるアユミチに曇りなく微笑んで。
「他の子にしましょう」
一点の陰りなく、アユミチだけを慈しむ灯火。
「別にその子でなくとも大丈夫ですから。安心して下さい」
「……」
「さあアユミチさん、私と一緒に女神様の下へ」
他の子にしましょう。
その子がいやなら他の子を用意しましょう。
ペット扱いどころか使い捨ての道具程度。気に入らないなら別のにしましょうと。
カヨウは優しい。
いつも、どこまでもアユミチに優しかった。
なんでも、どんな時でも許してくれた。
アユミチにだけ。
アユミチにだけ優しくて。
アユミチの視点から見えるのは、そのカヨウの姿だけだった。優しいカヨウの顔だけだった。
「なんで……」
人を、虫けらのように。
スカーアが隠れ里の人を利用したのと同じく。
「……なんで、カヨウ……お前は、どうして……」
「言ったでしょう」
手が届かない場所に浮かぶカヨウの戦馬車が少しだけ下がった。
子供に顔を近づけるみたいにアユミチに顔を寄せて。
「私は、あなたのママですから。アユミチ」
意味のわからない真理でアユミチの視界を覆う。
「ママが一緒だから。大丈夫ですよ、ね」
「カヨウ……まま……?」
「はい、アユミチ」
視界の端でノクサが口を開きかけ、閉じた。
アユミチの目にはもう戦馬車から微笑みかけるカヨウの姿だけ。
「なんにも心配いらない。アユミチの為にならなんだってできる」
「……」
「みんなを助けたいならそうしましょう。ママと一緒に――」
「母として」
誰かが声を上げた。
女の声。
「母として、言わせて下さい」
甘く微笑むカヨウの声を払う声。
影が差した。
太陽が雲に隠れたのか。
通り雨の分厚い雲がかかったように、けれど雨はない。
スカーアの領域が伸びてきた。世界が覆われていく。
「……」
「子を愛するなら、子供の声を聞いてあげて下さい。カヨウさん」
「……」
「そんなに、泣いているじゃないですか。その子は、いま」
泣いていない。
アユミチは泣いてなどいない。
もう他に進む道がないから、わかっているのに怖くて、今度は誰かを生け贄にするとわかっていて進むのが怖くて、震えていただけ。動けなかっただけ。
「何もできない人が……」
「そうです。ですが、私はあなたより母親です」
ぎぃっと。
カヨウの瞳が一瞬赤く燃えて睨みつけた。
幼いプレヴラを抱きながら凛と立つ母コニーを。
「母だと言うのならカヨウさん。泣いている子供の言葉を聞いてあげて下さい。怖い顔で迫って黙らせるのは見ていられません」
「誰が……」
母親。
プレヴラの母コニー。
捨て森で出会った頃から彼女は母だった。
鬼巫に攫われたプレヴラを探して、戦火の中王都にも向かった。
特別な力などまるでない。ただ、母として。
「私は、アユミチさんと話しているんです。話している、黙らせてなんかいません」
「そうは見えません」
「何もできないくせに! なんにも! できないくせに!」
語気を荒くしたカヨウを見て、ひっとプレヴラがコニーにしがみつく。
「他にどうしようもない! アユミチさんを助けるのに他に何ができるって言うんですか! クルサドでも誰でも女神様に捧げてレーマ・ルジアに願うより他にないの! 知らないくせに、なんにも知らないくせに!」
「知りません。女神様が何をお求めか、どうすれば世界が救われるか。知りません、けれど」
プレヴラを抱いたまま、心配ないと言うようにそっと首を振って。
「あなたがどれだけアユミチ様を好いているか。それは見てきました」
「っ……だから、それなら!」
「アユミチ様を助けたいあなたがアユミチ様を苦しめる。そんな姿は見ていられません」
「私は……」
「力のない私ですけど」
プレヴラを抱く手とは反対の手をカヨウに差し出した。
「あなたの助けにはなれませんか?」
母として。
同じ母として。
手を差し伸べる。
カヨウの支離滅裂な気持ちを否定するのではなく、そっと。
「……できない」
「カヨウさん」
「できない! 私は女神様に誓った、約束した!」
コニーから目を逸らしてアユミチに向き直る。
「女神様しかアユミチさんを助けられない! 私しかいない!」
「カヨウ」
「だからっ!」
仮に何かの奇跡で世界が救われたとしても、アユミチは遠からず死ぬ。
覆せるとしたらレーマ様だけ。
「アユミチさんは今までずっと、皆を助けるために自分の命を削ってた! すごい力はそこの黒蝶に命を食べさせた代償! そうやってずっと!」
「……そうね」
「私がレーマ・ルジアになる! アユミチさんのママになって助ける! 私にならできる私しかできないっ‼」
レーマ・ルジアになる。
アユミチに命を与えてくれた女神。
母なのかもしれない。
「できないなら、私も死ぬ。女神様と約束した。約束しました」
「……」
「だから……ね、アユミチさん」
何度考えても選択の余地はない。
ただ迷いがあるだけ。
想いだけでは何も解決などしない。何も失わずに生きていくことはできない。
「僕なら構いません」
純粋で、幼い。
理想のための死を貴いものと考える。
J・D・サリンジャーが著書でそのようなことを書いていた。
「僕の命で世界が救われるなら……役に立つなら、僕は……」
「……」
言葉もない。
今のやり取りを聞いた皆が察しただろう。
クルサドの命を求められたアユミチが女神に逆らったのだと。
他に方法がないのなら。
本人が望んでくれるのなら。
それを皆が証人としてわかってくれるのなら、アユミチだって……そんな、卑怯な逃げ口上。
「僕は女神様に命を捧げて――」
「ふざけたこと言ってんじゃねえぞガキが!」
怒鳴り声が響いた。
「アユミチ様をナメんな! この人はなぁ! 神様相手だって戦う男なんだぞ!」
怖くて逃げ出したのに。
今も、何も言えなかったのに。
アユミチが言いたくても言えないことを。
「だけ……だって、他にどうしようも――」
「アユミチ様が嫌がってんだろうが! この人ぁなぁ!」
知っている男。
コニーと同じく、捨て森の頃から知っている。
「ヨソのガキが死んでぴいぴい泣くんだぞ! どんだけ泣くか知ってんのか!」
ステン。
捨て森で、ユィッヒ、マノウズと共に手伝ってくれた男。
捨て森が焼かれた際にはコニーたちと共に海まで流されていた。
「見てるこっちが泣いちまうくらいひでえ! そんなアユミチ様に僕を生け贄にしろだぁ? 死ぬまで泣き止まねえだろうがそれじゃあよぉ」
「……でも……」
「ガキ……クルサドっつったか」
わしゃわしゃっと頭を撫でる。
ずっと前に、アユミチがケントロやコーダ、メッソにそうしたように。
「生きたいだろうが。死にたくねえって」
「……」
「そう言っていいんだ、ガキなんだからよ」
「ぼく……」
「ガキが大人に甘えて何が悪い。アユミチ様が守りてえのはそういう世界だってわかれや」
「ステン……」
「だろ」
へへっと。
言いたいことを言ってやったと笑うステン。
コニーも、小さく頷いた。
「……だな」
そうだ。
子供を犠牲にして果たしたいことなど何もない。
言いたくても言えなかった。
世界を救うためならしょうがないとか、天秤にかければ当然だとか。
そんな言い訳ばかり。
「ありがとう、ステン。コニーさん」
「アユミチ様を真似ただけでさぁ」
「どうぞアユミチ様の思うように」
騙されていた。
袋小路に追い込まれ、一択を迫られて。
間違っているとわかっている道に進む理由をカヨウに用意してもらって、諦めて手を取ろうとしていた。
「カヨウ」
向き直る。
あらためて、ぎゅっと口を結ぶカヨウに向き直り、手を伸ばす。
少女に手を引かれるためではない。
少女の手を引くために。
「ありがとう、カヨウ。俺のために」
「……」
「戻ってきてくれ。そこじゃなくて、こっちに」
戦馬車が浮く。
アユミチが手を伸ばした分だけ遠のく。
「レーマ様のことは俺が何とかする。だから」
「……だめです」
「カヨウ」
「あなたを死なせない。死なせたくない」
「あぁ」
「わかってない! なんにも! なんにもわかってない!」
「ああ、わかってる」
涙の浮かんだ目を強く締めて、怒る。
カヨウの気持ちをわかっていてもわかってやれないアユミチを怒る。
手綱を引き、一方の手でかんざしを抜いた。
「わかってくれないから……アユミチさんが、ママの気持ちをわかってくれないから」
かんざしが光を集める。
スカーアの影のカーテンの中、薄暗くなった世界を押し返すように。
「あらまぁ……ここまでになると幻術も実体と変わんないわね」
空気が震える。
アユミチの襟に掴まったノクサの声音は呆れ半分。
「規模はともかく創造レベルよ」
「言うことを聞かないなら」
レーマ様の使徒。
アユミチのような無能でなければ、神の使徒とはこういう力を発揮するのだと思う。
ポスフォスに憑りつかれていた時のプレヴラや、エクピキの司祭と同じく。
かんざしから溢れる無数の光が、重低音に似た威圧感を響かせる。
「無理やりでも連れていけば、アユミチさん」
「……」
「カヨウのために、謝ってくれるでしょう。ね、私の坊や」
大人びたストールが風に揺れ、陰る空の下で首飾りが青く輝いた。
◆ ◇ ◆