法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
「私だけでいい」
たとえば、人の気配などどこにもない
光が木々を
たとえば、静かに密やかに降り積もった一面の雪原。
遠く暗く見えなくなるほど先まで少しの乱れもない完璧な姿が、ずっとそのままであってほしいと願う。
美しさ。
自分も含め、何物もそこに触れてほしくない。
そうした美しさがレフカースにはある。
「女神に背くのは私だけでいい」
里中から集められた白い符。山のよう。
それを背に、黒い淀みに満つる泉に向き合うレフカース。
「私は元よりスカーアの下にない」
「その自覚のなさは嫌いでした」
「手厳しいな」
白装束で泉と向き合い、次々と白符を折っては投げ、泉の周囲に堰を作り上げていく。
折っているのは六角の花の形。
六角錐のようになった先端が突き刺さり、無数のそれらが重ね合わさって次々に。
ハチの巣にも似ているか。
六角の花の折り紙を何百、何千と連ねて環を作り泉を囲む。
「神に触れたことのない哀れな者。里に迎える前にその心根を正そうと厳しいことを言ったと思います」
遠目に見れば白詰草の花冠にも似ている。
女神スカーアの黒髪を飾る美しい結界。
姿はあの黒蝶と瓜二つだった。白い花冠はきっと似合うだろう。
「ですが、あなたが正しかった。ファニア」
「ただ知らなかっただけだ。私はいつもレフカースの正しさに言い返せなくて拗ねていたよ」
「怖かっただけです。自分が正しくないと見透かされるのが怖かった」
喋りながらもレフカースの手は止まらない。
泉を囲み、ゆっくりとくるくる回る大きな花冠の中、黒に転じる花が出てくる。
欠けたそこに次の花折り紙を放ち、埋めていく。
凄まじい手際。
なんでもないようにやっているが、淀みなく精密に結界を維持し続けているレフカースは、疑いようのない世界最高峰の魔法使い。
「大丈夫なのか?」
「世界が広がった」
ただスカーアを封じる為にやっているのかと思ったが違う。
そもそも神の力を封じるなどできない。
尖った先端が泉の黒い影に刺さり、外側に向けては白い花が咲く。
その花からわずかに、花粉が風に舞うように何かが放出されている。
「本来、里にだけ満たされていた巫気です。巫気のない土地は私たちにとっては毒」
「……」
「女神スカーアの加護ですが、女神の力とも言えます。急激に広がった世界なら」
なるほど。
今まで里に満ちていた巫気が薄まっている。
不足した分を女神から搾り取って放出させているのか。
「世界は広いと知りました」
「あぁ」
「一度ですが海も見ました」
「驚いただろう」
「圧倒されました。あのコッキノでさえ唖然としてしばらく静かでしたね」
花札が揃っていた頃だったのだろう。
そこにはコッキノやキュアナもいて、クロロテッサもいて、ファニアはいなかった。
「海に砂糖を撒くようなもの。女神の力とはいえ世界に溢れるまでには足りない」
巫気として女神の力を世界中に拡散させる。
今までの隠れ里の中だけなら満ち溢れていたものでも、規模が変わればどうなるのか。
女神の復活が避けられないとしても力を削ぐことは可能。
「よく考えついたな、レフカース」
「里を守るのが鬼巫の花札です。その為の方策ならどんな時でも」
世界の広さを知ったからこそ。
隠れ里の鬼才レフカースだからこそ、知ったことを活かす術を見出せる。
女神が目覚めたら力ずくでどうにかすることばかり考えていたファニアとはまるで違う。
「……尊敬するよ」
初めて会った時から、レフカースはファニアよりずっと格上だった。
正しくて強くて賢くて、白く眩しいレフカース。
「妹には、何もしてあげられなかった」
「……」
「会ってもどんな言葉をかければいいのかわからなくて。あの子が母の言いつけを素直に聞かなかったのは私のせいです」
レフカースも人の子。
苦手なことやできないこともある。
妹との距離、関係をうまく作れなくて、結果として妹は家から離れがちに。
その末に悲惨な目に遭い、心を喪失して女神の器となった。
「次に女神が目覚める時、カンナが依り代になるとは限りませんが」
女神スカーアが必要とするのは己を失った肉体。
どうしようもないことだが、この里に候補は無数にある。今も。
「あぁ」
ファニアの弁舌、守女リードゥの説得があっても、誰もが同じ結論とはならない。
たとえ女神が里の女に慈愛を抱いていないとしても、ずっと女神の加護の下で生まれ育ってきたのだ。
今さら自分たちが女神に背くなど許されない。女神の思し召しの通りに進むべき。
そう考える者も少なくない。
いや、人数で言えば多い。半分より多いと思える。
その中で、それでも迷って家に閉じこもっている者が大半だけれど。
――近づくな! 下がれ!
――私の身を女神に捧げます!
――やめろと言っている!
――お目覚めをお待ちしておりました、母よ!
塀の外、遠くから聞こえてくる喧騒。
一人や二人ではない。おそらく百を超えるほど。
パラーサやシュキ、守女たちが押しとどめている。相手は無力な女たちが多く塀を乗り越えてまでではないが。
里の女として、スカーアの民として当たり前の訴え。
彼女らは女神によろこんで身を差し出すだろう。近づけるわけにはいかない。
「女神が再び目覚めれば、カンナはきっと影響を受けます。自分を取り戻せない」
誰が依り代になるとしても、女神の存在はカンナにとってよくない結果になると。
狂信者のように女神に従い、ただ他者や世界を憎み恨み続けるだけになってしまうかもしれない。
カンナの救いになり得るクヌーイだが、それこそ今は二人を合わせるのが危険。再びスカーアの器として繋がってしまう可能性がある。
「女神の目覚めが避けられないとしても、少しでも」
「そうだな」
女神の力を削いでおく。
その方法として、巫気という形で世界へ放出する手段。
「本来は、巫気を持ち出すための術でしたが」
「そうだったのか」
「いっぱいに膨らんだ紙風船に横穴を開ける。悪戯好きな誰かがやっていたのを思い出して」
ふ、と。
レフカースの美麗な口元が柔らかく。
優しい記憶だったのだろう。
「それは」
マベラのことか。
尋ねようか迷った、一瞬後――
「レフカースっ!」
レフカースの頬に、カビにも似た黒い影が浮かび上がった。
「っ!」
斬。
指に挟んだ白符を一閃し、自らの髪の先をいくらか切り捨てる。
ばっと髪が舞い散り、頬に浮かんだ呪いのごとき染みも消える。
「大丈夫か⁉」
「神に背くのです。この程度」
泉を囲んでいた白い花冠に次々に黒い染みが浮かびあがり、レフカースの折り紙も速度を上げる。
次に左目を覆った黒い呪いも、間髪おかず髪と共に切り払い。
「あなたも覚悟を」
「わかった」
神に背く。
我が身に呪いが降り掛からないはずがない。
だからレフカースは他の者が手伝うのを拒んだ。白符を運ばせるだけで。
ファニアは最初からスカーアの信徒ではない。背くも何もない。
「私にできることは?」
「今は、私が下手を打たぬよう見ているだけで」
形のないスカーアに対してファニアができることはない。
飛び込んで行っても何もできない。ただレフカースを見守るだけ。
見ている限り、黒い呪いを受けた瞬間レフカースの顔が歪む。
苦痛、不快、怖気。そういったものに襲われているのだとは思うが、魔法使いでもないファニアには対処法がない。
「ファニア様」
立ち入るなと言っているのに。
恐れを知らない娘は、フローシュは、構わず入ってくる。
突き放そうとも考えるが、何の理由もないわけでもない。
「周里より急告です。逃げ去った蛙魔人を先頭とした男どもが再び里を襲い、こちらに向かっていると」
「こんな時に……」
「かなりの数とのことです。里を滅ぼせと叫んでいるとか」
馬鹿なことを、と思う一方で納得もある。
あのスカーアの復活が世界中に伝わっているのなら、外の人間が里を襲う理由もわかる。
スカーアは外の世界、特に男を死滅させると言っていた。
そうなる前にスカーアを倒せというのは不思議でもない。短絡的だが。
アユミチのように協力して別の道を探そうという方が難しいこと。危険を排除するという判断は安直だが自然でもある。
「行ってください、ファニア」
「……大丈夫か?」
レフカースが復活前のスカーアを削りながら押しとどめる。
いざ目覚めたらファニアが立ち向かう。
それでもスカーアが勝てば、背いた二人が死ぬだけで残された里の者はスカーアの下で生きる。アハラマ達に後を託そうと。
できる限りの対応としてそうしていたが。
「誰に聞いているのですか?」
凛として。
再びレフカースが髪を切り払った。
長く美しい彼女の髪が、また少し短く。
「アハラマ様の花札、白のレフカース。後れを取るとでも?」
「……いや」
「里の外敵は、あなたに任せます。ファニア」
「あぁ」
借りた里の名刀の柄を確かめ、頷いた。
少し嬉しい。
かつて憧れたレフカースに仕事を任された。里を守る使命を。
「今度こそ、あなたにいただいた務めを果たそう。レフカース」
死病をもらった頃はうらめしく思ったこともあったけれど。
あの頃も今も、レフカースはファニアと同じ方向を見る仲間で、味方だった。
背中を向けても心は背かない。
たぶん、友になりたかった人。
「頼みます、ファニア」
「信じている、レフカース」
互いの務めを果たす。
そうすればきっと、肩を並べる友と胸を張って言えるから。
◆ ◇ ◆
「素敵ですね、花札のお二人」
「下がっていなさい」
「レフカース様には及びませんが」
白符を一枚抜き取り、レフカースと同じ華を折り抜けた花冠を埋める。
レフカースの速度と比べれば半分程度。
「私も、少しはお手伝いできるかと」
「……つらくなったら下がりなさい」
「はい」
さすが、史上最高の花札。
憧れた人。
数刻前、この麗人が牢で泣きせがんでいたのかと思うと嬉しくなる。
愛しいファニアを曇らせ、ともすれば死なせていたかもしれない咎人のくせに。
「レフカース様も、ご無理をなさいませんよう」
生かしてあげたい。
この咎人には生きて、ファニアにもあの惨めで淫らな顔を晒してほしい。
澄ました顔などではなく、情けなく涙ながらに許しを乞う姿を。
「今のお姿もお可愛らしいと思いますよ、レフカース様」
「……」
お互いの肌の感触も体温も知り合った間柄。
彼女の欠けを補うよう、傍で一緒に指を動かした。
◆ ◇ ◆
「ラハちゃん……」
薄暗い牢の中。
思い出すのは彼女のことだけ。
「なんにも……私は、何も……」
温もりもない。
笑顔もない。
労りも信頼も、愛も。
「わたしには、なんにも……ない……」
――あなたには、何もなかったですね。
レフカースにはあったのに。
レフカースには
お前には何もないって。
なんにもないって。
――思い出したくもない。そんなご様子でしたよ。
どうして。
どうして。
わたしは、ラハちゃんのことしか想ってないのに。
ラハちゃんんがなんにもくれない。
それじゃあ、わたし、からっぽの……
◆ ◇ ◆