法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
絹のように美しいとよく言われた。
生来、血色は薄い。しかし今は赤く汚れて。
紙を折る自分の指先から血が滲み、白符も赤く色づく。
「は、ぁ……」
痛みなどもう忘れた。
感覚だけは異様なまでに研ぎ澄まされ、触れる空気の粒のひとつひとつまで感じ取れる。
フローシュはもう下がらせた。
いよいよ溢れだす黒い霧のごとき
「探しに、出る……」
カンナとクヌーイを器にしたように。
もう一度、肉の体を得る為にそこから出てくる。
肉体を失い、おそらく一定時間の眠りが必要だったのだろう。
三日三晩。それに相当する程度の時間をおく必要があったのだと思う。
「どこまでできたでしょう、ね」
最初から勝てると思ってはいなかった。
目覚めるとしても、少しでも力を削いでおこうと。
直接見た時は、とても人の身では何もできないと理解させられた。巨山のような存在感。
あれに向かって拳をぶつけていった薬師アユミチ。信じられない、頭がおかしい。あるいは何も見えていない子供か。
途方もない巨山に等しい。
どう動くかもわからない。
そんなものが目覚めて里を支配する。
なら、せめて目覚める前に、少しでも削ってその頂の高さを下げてやろうと。
空気を抜くように女神の力を抜いて世界に放出させた。
レフカースは死ぬ。
けれど、少しでも低くなっていれば、無軌道な横暴に対して抗うことも可能になるかもしれない。
アハラマたちは残り里の者を守ってくれる。無駄死にではない。
「……来ましたか」
黒い何かが、どろりとぬるりと折り紙を連ねた花冠から溢れる。
風呂の中から何かが出てくる。
『……そう』
姿は、写し取ったのだったか。
指が縁にかかった。
美しい。
血が滲み荒れたレフカースの指とは比べ物にならない。とても美しくたおやかで、ぞっとするほど美しい指。見るだけで、その指で喉を、背を、全身を撫でてほしいと思わされる恐ろしさ。
『おまえ』
全身に霜が降りたように。
「……」
目が、合った。
縁を掴む指と、その後ろの霧の中から光る眼。
『しろい、おまえ』
「っ……」
息が詰まる。
神を直視して、思い知る。
レフカースはまだ見誤っていた。見くびっていた。理解が及んでいなかった。
神の存在。
先に見た時は、ただそこにあるだけだった。
それだけでも十分に恐ろしいと感じたのに。
『見つけた』
凶神の足元をただこそこそと歩いていただけのアリだった。
けれど今は、そのアリの群れの中にある自分という個体を見て、目を合わせて。
気が遠くなるほどの存在感に飲み込まれる。
『おまえ、レフカース』
実体を持たぬままでも。
その声に名を呼ばれ、黒い光の圧力でレフカースの意識は塩でも吹き払うようにばらばらに――
◆ ◇ ◆
「何ごとか……」
牢から出てよいとは言われていない。
何者かが放った紙鬼に呼ばれ牢を出て、ざわつく里の気配を感じつつ背天の泉を目指した。
アハラマがすべきことがあるならそこだと。
裏手にある牢から泉に向かう間。魔獣に壊された跡はまだあちこち残ったまま。
途中、裏門前の広場がひどく騒がしい。
かなりの数が集まっている。
背天の泉は決して秘匿されているわけではない。里で生まれた子はみな一度は訪れるのだから。
常ならば通れる門が閉ざされ、祭りの日でもないのに多くの者が集まり声を上げている。
女神スカーアの目覚めを願い。
外の者の滅びを願い。
口々に声を上げている。
フローシュから聞いていた話では、もっと理性的な方向だったのではなかったのか。
少女の見立てが甘かったのか、何か状況が変わったか。
「いけません、リードゥ様は里の要」
そのフローシュが声高に言って首を振るのが見えた。
裏門正面に立ち、集まった女たちに何か言っていたのだろうリードゥに対して。
「リードゥ様は残り、皆の導きを」
「私は十分に生きました。後は鬼巫アハラマに託します」
「あんな、肝心な時に何もできない方に!」
ぐ、と。
腹を思いさま殴られたように突き刺さる。
返す言葉もない。
「そのような――」
「私たちにはリードゥ様が必要です!」
「そうです! 里にはリードゥ様しかいない!」
「何を頼ればいいんですか! あんな未熟な……」
リードゥの言葉を人々の声が押し流す。
後事をアハラマに任せようと言うリードゥだけれど、アハラマの頼りなさは皆が知っている。
おそらくリードゥは自らが依り代になると言ったのだろう。しかし、フローシュの反論は里の者たちの総意。
「……」
頼りないアハラマなど残されても困る。
リードゥは守女として長く里を見てきた。皆の信頼も厚い。
「私は他の誰も女神の依り代には選びません。聞き分けなさい」
「リードゥ様がそう仰るのだ。そのお気持ちがわからぬか!」
パラーサがリードゥの隣で声を上げた。
力づくでも話を通す迫力。
しん、と。場が静まり返る。
「……」
アハラマに何も言う資格はない。
ただ唇を噛んで俯くだけ。
それなら、自分が……
「他に、います」
静かに。
静寂の中、フローシュの鈴のような声が透き通る。
真なる答えを示す。
「あ……」
一斉に。
皆の目が、向いた。
こちらを。
「あ……」
牢から出てきたアハラマの方に、全員の視線が。
集まり、刺さり、突き抜ける。
「あ、あ……」
突き抜けて、アハラマの後ろに届いた。
「わた……わた、し……」
「……クロロテッサ」
やはり牢を出てきたのだろう。
アハラマの背に声をかけることもなく、けれど縋りつくように追ってきたのだろう。
アハラマより頭半分大きな体を小さく縮こまらせて、何も言えぬまま。
「あそこに」
「フローシュ、おやめ――」
「あそこに、責を負うべき者がいます」
リードゥの声はかき消された。
声にもならない声が人々の腹からあふれて、掻き消される。
人々の総意。
「わたしは、あぁ……」
皆、アハラマの情けなさを知っているのと同時に、クロロテッサの所業も知っている。
この里が世界から厭われ疎まれ、引き返せなくなっている原因のひとつ。わかりやすい明らかな罪人。
誰も知らないままならよかった。けれど皆が知っている。
どんな目的であっても、死病を世界中に蔓延させた張本人。
そんなやり方は誰も認めていないと、怒りと糾弾の声が沸き上がった。
「クロロ――」
「わたし、ただ……っ」
逃げ出すクロロテッサ。
里に恨まれるためにやったわけではない。
女神の求めに応じてやった。手段を選ばず。
そんな彼女をファニアは許すと言ってくれたけれど、誰もが許せるわけがない。
外の世界からはもちろん、里の女たちだって苦く感じて。
「……」
目が合った。
背を向けるクロロテッサを追おうとする女たち。
その後ろで、冷めた瞳でアハラマを眺める少女。
「フローシュ、おぬし……」
誘導した。
クロロテッサに憎しみが集まるよう。
リードゥさえ利用されたに過ぎない。リードゥが言わなければ別の形でクロロテッサを追い詰めただけ。
優秀な娘だとは聞いていた。確かに。
「ええいっ!」
フローシュを責めている時間はない。
クロロテッサの様子はおかしい。追い詰められて何をするか――
「っ!?」
――カッッッ‼
光った。
光が貫いた。
裏門の奥、背天の方角。
稲妻か。
いや、あれは
「ファニア……」
クロロテッサと、ファニア。
比べたつもりはない。秤にかけたつもりなどなかった。
しかし、逃げ出そうとしていたクロロテッサの耳に届いてしまった。
アハラマが呼んだ名前。
「わたし、は……?」
何の問いかけだったのか。
震える声でそれだけ。
「待て! ろろね――」
「っ!」
跳び越えた。
花札の身体能力なら壁など容易い。
背天に向かう壁を跳び越え、涙の粒を落としながら。
「よくも!」
「さあ?」
もう一度振り返りフローシュを睨むけれど、少女はどこまでも澄んだ微笑みで。
よくも我が花札を手折ってくれたなと。
「お急ぎになられた方がよろしいかと」
力でなら、間違いなく格下の少女。
しかしまんまと扱われた。
何のためにか、問い質すこともできず。
「おのれ……っ」
己のふがいなさを思い知る。
小娘にまんまといいように踊らされる。
こんなアハラマでは里の誰もついてきてくれるはずもないかと、その自覚が口惜しく。
◆ ◇ ◆