法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
かあさんがきた。
うずくまるわたしのところに、一人だけ。
かかさんが一緒じゃなかったのは、あの人は決まりを重んじる人だから。
「……」
何もない。
昔好きだったおまんじゅうを置いて、何も言わず。何も言えず。
わたしが悪いことをしたと思っているのだろう。
違う。わたしが悪いんじゃない。
「……」
だって、言ったのはかかさんじゃない。
お前は鬼巫様に尽くしなさいって。
鬼巫様の痛みも苦しみもお前が受け止めなさいって、言われた通りにした。
嫌じゃなかった。ラハちゃんの為にならなんでも、少しも嫌じゃなかった。
わたしだけがラハちゃんの痛みを代わってあげられる。わたしだけ特別。
「……」
かあさんは、なんにも言わずに出ていって。
黙って残されたおまんじゅう。
手にして、口にしてみて。
子供の頃はすごく好きで、特別なものだと思ったのに。
そんなことない。
特別じゃない。
ただ、記憶のままの味で、すごく悔しくて涙が溢れてくる。
「わたし……特別じゃなかった……」
空虚。空っぽで
かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり、かり……
牢の木桟を掻く爪が削れて割れて、痛みだけが心に染みる。
他になんにも残っていない。
「……」
紙鬼がいた。
小さな紙鬼。牢の外に、わたしの傍に。
「……あ」
もしかして。
誰かが、わたしのところに送ったというのなら。
ラハちゃんかもしれない。
ラハちゃんに違いない。
他にだあれもわたしに何かをくれるはずがない。ラハちゃんから。
「……なにも……」
真っ白。
何を伝えるのでもない紙鬼。
「……」
言葉にならない想い。
なら間違いない。ラハちゃんがわたしを気遣って、けれど何を言えばいいのかわからないだけ。
小娘はわたしへの言葉はなかったと言っていた。それはそう、ラハちゃんとわたしが交わす言葉を、想いを、他の何某かが伝えられるわけがないのだもの。
「そう、でしょう……?」
他に理由なんてない。なくていい。
ずっと掻き続けていた牢の格子を開けて外に出た。
ラハちゃんがいた。
やっぱりわたしを呼んだのはラハちゃん。わたしの愛しい子。
何かを目指す小さな背に声をかけられず、ただ追う。
だって。もし、違ったら。
今度こそわたし、なんにもなくなっちゃう。
――あそこに、責を負うべき者がいます。
小娘が言った。
気持ち悪いほど静かな目でわたしを見て、なんにもないわたしに与える。
責めを。
その場にいた百をゆうに数える里の者たちの目も、わたしに
潰れてしまうほどの重さに奥歯が震えた。
――全部お前が悪い。なにもかも。
振り向いたラハちゃんの顔にも、理解はなく。
このどうしようもないゴミをどう扱えばいいのかと、そんな戸惑いの色。
「わたし、ただ……っ」
やっぱり、なんにもなかった。
あの紙鬼はラハちゃんがくれたものじゃなかった。
わたしにはもうどこにも居場所などないのだと、薄く形を作ってしまった期待は粉々に。
なんで、どうして、わたしが求められるなんて考えたのだろう。そんなことあるはずがないとわかっていたのに。誰にも求められない空っぽのわたしが。
「っ!?」
閃光。
こちらに向けられていた視線が一斉に逸れる。
逃げ出そうとしていたわたしも足を止めた。
「ファニア……」
ああ、そう。
あなたの心はそっぽを向く。
ずっと一緒にいたわたしじゃない。あなたを守り、愛し、髪を結い撫でつけて子守唄を謳い包んできたわたしじゃあなくて、外で摘んできた野草にばかり。
「わたし、は……?」
牢の中でも、レフカースのことは気にかけたのに。
ああ、そうか。さっきの紙鬼はレフカースだ。どこかそんな香りがした。
わたしは、野草や裏切り者にも及ばない、どうでもいいもの。
そう。
必要とされないのなら。
もういい。
全て、なにもかも、消えてほしい。
わたしはたったひとつだけ得られればよかったのに。
「女神……スカーア」
こんな世界、わたしの居場所のないこんな世界なら。
終わってしまえばいい。
終わってほしい。
終わらせてしまえば、この虚しさも恥辱もなにもかも消えてなくなる。
◆ ◇ ◆
「う、ぐ……っ」
痛い。
握った手から通じて目玉の裏側にまで痛みが走り抜けた。
右目から涙が零れる。
いや、血か。
「……ん、くっ」
「マベラ⁉」
左の鼓膜を叩く声が痺れる脳を揺らし、意識を引き戻した。
痛い。
でも嬉しい。
初めての夜を思い出す。お互いに手探りで、でもどうしようもない気持ちに衝き動かされて求め合った夜。
痛みも嬉しくて、痛みを刻みつけたかった。受け止めてほしかった。
「レフカは、死なない」
少女が置いていった戟槍
レフカースを飲み込もうとした濁流――陰のあれこれが入り混じった暴流を切り払い。
「どうして、あなたが!」
「レフカは死なない。いやだ」
「でも!」
「なんでも」
わかっている。
レフカースは自分だけが、あるいはファニアと自分だけが女神に逆らったことにしたかった。
二人とも似ている。頑固で真っ直ぐ。
歪んだ世界で首を垂れて生きることなんて選べない。
「レフカ、好き」
ただそれだけ。
「大好き」
それだけ伝わればいい。
「マベラ……」
初めての夜、妹の振りをしてごめんなさい。
嘘をついてでもほしかった。ほしいと思った。ごめんなさい。
綺麗で真っ直ぐなレフカースの顔が、苦痛と負い目と愛欲で歪むのを見たかった。他の誰より先に、独り占めしたかった。
『……ポスフォスの怒りに触れる気狂い』
ぞわわっ!
総毛立つ。
天敵に見つかった時の小動物はこういう感覚か。
逆に、痛みで麻痺しかけていた右腕に感覚が戻った。同時に全身から汗が吹きあがった。
『お前』
目玉。
濁り混じった泥濘のような陰の中に浮かぶ赤い瞳。
紅玉のように美しいそれに映され、飲み込まれそう。
大きすぎる。
存在があまりに大きすぎて圧倒される。
「……」
痛みのおかげ。
それと、先んじて抜け殻だけでも知っていたから。
つばを飲み込み足を踏みしめることができた。左腕にレフカースを抱きながら。
『半月の器。マベラ』
「……」
里の女はみな一度は必ずスカーアの下を訪れる。
知られていて当然。
いちいち個別に識別する必要がないだけで、スカーアの肌はマベラを覚えている。
『
「うぶっ!?」
重撃。
腹、へその下あたりに深々と、内臓を吐き出すほどの重い塊が撃ち込まれた。
「マベラ!」
「むぅぅふぁっ!」
ふらつきながら右腕の戟槍に力を籠め、腹を抉る重圧の塊を打ち払う。
光と共に圧が消えた。
「う、ぁっ……」
攻撃されたというわけでもない。
ただ思っただけ。煩わしいとスカーアが思っただけで、堪え切れないほどのダメージを負う。
実体のない状態でこれか。復活しつつある神の力。
「はぁ、ふぅ……っく」
『邪魔』
「は、ぎぁっ!?」
今度は鼻の奥に太い焼き串でも叩き込まれたような激痛。
両目から体液を溢れさせながらもう一度、
けれど。
「う、ぁ……」
視界がおかしい。
右目が見えない。
感覚が定かではないけれど、焼け爛れたようにどろりと。顔の半分が。
「やめて……マベラ、もう……」
『気に障る』
「ぃきゃんっ‼」
戟槍が気に障ったのか、右腕のいくつか内側に毛虫でも這いずるような不快感と激痛。
レフカースを放して両手で槍を握り直し、再度の光で体内に侵食した汚れた陰を打ち消した。
ずるりと、右腕の表面の皮がズレ落ちるのを感じた。
実際にマベラの体がどうなっているのかはわからない。
神の悪意を神の力で相殺して、人の身が保てる理屈もない。
「うぐ……レフカは……」
「女神スカーア……私が、間違っていました……どうかマベラをお救い下さい……どうか……」
マベラから離れたレフカースが膝を着きひれ伏す。
残っている左目の視界も血と涙でぼやけて、よく見えない。
結界の魔法でとうに限界を超えているレフカース。
ここまでやってきた自分の行いを否定してでもマベラの命を救いたいと懇願する。
生き方を反転させてしまえるほど、マベラはレフカースに想ってもらえていたのか。
アハラマよりも、妹よりも。
嬉しい。
嬉しい。
それが知れただけで十分。報われる。
「どうかご慈悲を……」
『嫌だわ』
ここまで自分に噛みついた虫が今さら命乞い。
許すはずもなく、スカーアの目がレフカースに向けられた。
「っ」
「レフカは」
届かぬ高みにあった。
女神は人など到底届かぬ高みにあり、雲の上に向けていくら石を投げたところで何の意味もなかっただろう。
「守る」
けれど。
マベラは女神の輪郭を知っている。半分だけでも知った。
そして、女神スカーアもまたマベラを知った。目を合わせて視線を揃えた。
同じ土俵に立った。
その意識すらなかったのだろう、同じ土俵にいるマベラから目を逸らして。
「大好き、レフカ」
神にも刺さる力を手にしている。
マベラが全てを失っても、レフカースは覚えていてくれる。
一方的で身勝手で不器用だったかもしれないけれど、マベラの気持ちを。
だから、いい。
「や」
『なん――』
一条の雷が、マベラの身を焼きながら赤い瞳を貫いた。
◆ ◇ ◆