法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
デフィロは知っている。
この光景を。
暮らしが破壊され、苦しみと悲しみと憎しみと絶望に打たれる人々を見てきた。
右から、左から、前から後ろから、上から。
どこに向かってもどうにもならない。
ただ生きていることさえ不思議で、目的も何もないまま歩を進める。
その道もどこかで途切れ、奈落に落ちるまで。
王蠍が走るだけで、兵士も住民も木々も大地も、何もかもまとめて粉砕される。
怒りをぶつける先を求めてデフィロたちに――ジルボン師に詰め寄っていた人々も、魔獣の目を見て蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
女神スカーアの命を受け、人々を滅ぼす為に放たれた大魔獣。禁域の大サソリ、渇きの王蠍。
何十と世界中に放たれた内の一匹。
一匹でも
何しろこれは、百年前に派遣された選りすぐりの討伐軍を事も無げに蹴散らした無敵の魔獣なのだ。
二度と誰も足を踏み入れない禁域。そこから出てくることなど考えたくもなかった。
倒した。
薬師アユミチの連れていた男が、己の命を雷に代えて。
世界中に映し出されたあの光景を見た時、誰もが希望を抱いただろう。
神でも、神の魔獣でも、決して抗えない敵ではないと。
希望が絶望に置き換わる。
いざ王蠍が町を襲い、自分たちの目で目の当たりにして。
愚かだった。
なぜこんなものを倒せるなどと考えてしまったのか。
戦えるわけがない。
馬よりもずっと速く走り、家よりも巨大で、鋼よりも硬い。
もし北府ヴォラスの準備が万端で、城壁から狙いをつけた投石器、攻城弓の一斉攻撃でもできていたなら、多少は食い止められていたかもしれない。
しかし直前の遠征に力を割いていたヴォラスの守りは十分ではなく、城壁を破られ、混乱と悲鳴に飲み込まれた。
アユミチさえいれば。
なぜヴォラスには英雄がいないのか。
言っても詮無い泣き言を耳にしながら、崩れる町を逃げ出したけれど。
月が昇らない。
黒い太陽の覆う空には月が昇らない。
絶望が人々を覆い尽くした。
それでも諦めない人がいる。
傷ついた兵士を癒し、気取らない言葉をかけて力を与える。
かつて薬師アユミチがそうしたのだと、そう言って。
おかしなもので、諦めた人間の中には同じ状況で諦めない者を許せないと責める者がいる。
難癖をつけて、どんな理由でも構わず責め立てる。非難する。
それにつられて集まった人々に、再び襲い掛かる厄災。
「いかん!」
英雄などいない。
どこにも英雄などいない。
容赦なく押し迫る魔獣に抗う力など誰にもあるはずがないのに。
「下がりおろう! 悪意の獣!」
左手を掲げて高らかに。
すり切れ薄汚れた法衣を翻して声を上げた。
「ここに
左手を輝かせ、魔獣の巨大な体を押しとどめる。
蹴散らされ逃げ惑う人々が腰を抜かす真ん中を、大サソリの振り上げる尾を睨み返して。
「司祭様……」
なぜ前に立つのか。
勇猛な人ではない。気が弱く自信のない、どこにでもいる当たり前の人なのに。
隅に隠れて丸くなっていれば生き延びられるかもしれないのに、甲高い声を張り上げて凶悪な魔獣に立ち向かう。
少しばたばたと駆けたのは、デフィロや怪我人から離れる為だったのだろう。
顔色は悪く、脂汗を流しながら必死に。
「アユミチとムンジィがいなくとも、麻呂が相手になろうぞ!」
薬師アユミチとも知り合いだった。雷の英雄ムンジィも知己だったと聞いた。
彼らがいなくても、いないのなら自分が相手になると、すっかり弱々しくなった左手の光だけを掲げて。
デフィロが知っている父エヴェニスの光よりも遥かに小さく、頼りない灯り。
格が低いからなのか、エクピキが滅びたからなのか。
支える武器も頼れる力もない貧相な男が、己の身ひとつで。
「これより先は生者の道!」
「「ヒシィィャァァッッ!」」
隙間から風が漏れるような音。
錆びた金バケツを擦り合わせるような音。
魔獣の体のどこからかそんな不安を誘う音が何重にも漏れだす。
「去ねませい!
押しとどめた。
司祭の放つ弱々しい火を畏れるのか、嫌うのか、魔獣の突進が止まる。
鈍い銀の甲殻を震わせて、司祭を正面に、人の倍ほどもある左右の鋏を振り上げながら。
じり、じりと。距離を詰め。
「哀れな獣よ、
じりり、と。
司祭もにじり寄る。
「かような姿に果ててまで使い潰されるなど、甚だ不本意じゃろうに」
女神が使わなかった器と言っていた。
作ったのだと。魔獣を作ってみたのだと。
元は人間。鬼巫の里の女。
「「スヒャァァァ」」
ぶるぶると震える。
もう一足で届く距離にまで近づいた魔獣の鋏が、振りかぶる尻尾が、ぶるぶると。
司祭の放つ光に照らされて、銀色の殻が激しく揺れ動く。
「帰るのじゃ。そなたの帰るべき場所へと」
動きが止まる。
それ以上は近づきも離れもしない。
「……」
ぼたり、ぼたりと。
尾っぽの先から毒液なのか、滴り落ちる。
「……」
司祭のたるんだ頬を伝う汗が、ぼたぼたと。
光が揺れる。
消える前のろうそくのように、強弱に波打ち。
「司祭様……」
「ジルボン師、ああ……」
だめだ。
どれだけにらみ合っているのかわからない。
しかし、魔獣が動かない以上司祭も身動きが取れない。
ここまでロクに休めもせず、その上で怪我人の手当てをしていて、体力はとっくに限界を超えている。
にらみ合いが続けば司祭の光は途絶え、そうなれば魔獣は容赦なくここにいる人間を殺し尽くすだろう。まず最初に司祭をその鋏で引き裂いてから。
「……いつまでも」
ふっと、司祭の表情が和らいだ。
「仏頂面をしておっては、誰も笑いかけてはくれんのでおじゃるよ」
優しく。
子供に説法でもするかのように柔和に。
「
緩んだ司祭の雰囲気に、魔獣が動き出した。
背中を押されて震える巨体で司祭を押し潰そうと、前に。
「ジルボン師!」
破裂するように湧いた銀色の霧が辺りを包み、デフィロの意識と視界を掻き消した。
◆ ◇ ◆
「大丈夫じゃ……もう、心配はいらぬ……」
呼びかけが聞こえる。
「しっかりするでおじゃる……もう大丈夫でごじゃるよ」
ゆっくりと、不安を忘れさせるように。
左手に灯る光を腹に――男の腹に当てて、落ち着いて呼吸をするよう丸い顔で頷きながら。
「……ジルボン師……?」
何がどうなったのか、魔獣王蠍の姿はもうない。
ついそこまで、あの巨体で人や木々を破壊してきた跡はあるのに、司祭の手前辺りで霧のように消えてしまったよう。
「なにを……」
司祭は怪我人を癒している。
集まっていた中の一人。
逃げ出そうとして運悪く魔獣に引っかかったのだろう。
服や地面の血溜まりを見れば、致命傷だったことはわかる。
「その男は……司祭様、その男は」
起き上がり、血の気の無い顔で男を癒す司祭に駆け寄る。
「そいつは、司祭様に石を投げた男です。そんな奴に……」
「……そうでごじゃったか」
「おやめください、ジルボン師。あなたは……」
光がどんどん弱まっていく。
最後の光。
「そんな奴の為に、やめて下さい。あなたは」
「デフィロ……覚えておいてほしいのでごじゃるよ……」
ふつりと、消える。
左手の光と、裂かれた服の下の男の傷、致命傷も消えて。
「司祭様!」
短躯で丸い司祭の体から力が抜け落ちた。
屈みこんでいた姿勢から横に、ぐらりと倒れる。
太っていると思っていたけれど、やけに軽い。デフィロでも支えられてしまうくらい枯れ果ててしまったよう。
「どうして! どうしてそんな奴に……そんな奴の為に、どうして師が……」
「デフィロ……」
手を伸ばす。
左手。
何もない。
いつからなのだろう、師の左手には何もなかった。
エクピキの【指】も、ほくろだと言っていた黒い染みも何もかも。すっかり抜け落ちていて。
温度も感じないのに、デフィロの右耳から後ろ頭を撫でる感触はただただ優しく。
「そんな奴、司祭様には何も……」
「己に得する相手に差し伸べる手に、どれほど意味があるのじゃろう……」
エクピキの力などとうに失われていたのだ。
司祭が絞り出していたのは、彼自身の力。心。
「麻呂は、驕っておった……傲慢で、私欲に囚われ……」
「そんなこと……」
「アユミチは、麻呂を助けなくともよかったのじゃ……性根のねじ曲がったエクピキの司祭なぞ……」
「違います、ジルボン師……あなたは……」
「ずっと思っておった……アユミチは、己に害やもしれん麻呂にさえ手を差し伸べてくれた……なぜかと……」
アユミチは女神の使いで、エクピキと敵対していた。
なのに、捨て森ではエクピキの下級司祭を救った。
状況だけ考えれば、助けなくてもよかった。助けるべきではなかった。
「考えても意味はない……ただ、困っていたからと……アユミチならそう言うのでおじゃる」
「……はい」
「当たり前、なのじゃろうて……人ならば……」
司祭の手を取る。
焦点が合っていない。どこか遠くを見る司祭の手を取り、額を擦りつけて答える。
「麻呂も……真似たかったのじゃ……当たり前に、とうとい……道を、歩み直せるならば……」
「ジルボン師……あなたは……あなたこそ……」
奇妙な明るさの空が、生気を失う司祭の丸顔を照らす。
柔らかく、静かに、青い月の光。
エクピキの光とは違う。
強い光を受け、優しく照らし返すような、司祭の灯した光と同じ。
「あなたこそが……僕の、道です……僕の歩むべき道です……ジルボン師……」
「ああ……」
司祭の瞳が、涙に濡れるデフィロの顔を映した。
丸く、笑って。
「嬉しいでごじゃるなぁ……デフィロ……」
「ジルボン師……」
「……」
それきり。
もう、二度と。
永遠に穏やかに。
青く光る月の明かりの下で。
皆が、膝を着いていた。
司祭と共に暮らしていた人たちも、兵士たちも、司祭に石や心無い言葉を投げた者たちも、皆。
輪を為し膝を着いて、誰よりも尊い司祭の言葉を噛みしめるようにずっと、静かに。
◆ ◇ ◆