法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
暗い空の下、どこへ向かえばいいのか。
なんとなくわかるような予感があった。
だって、迎えにきてくれるって言ったのだもの。お母さんが。
「あれは……」
暗い太陽が照らす空。
どこまでも続くその彼方から、波しぶきを上げて迫ってくる。
海が。
碧色の海が、黒い太陽に照らされた空を飲み込んで広がっていく。
見覚えのある色。
女神様のところで拾った青いペンダントの宝玉と同じ深い青。そういえばいつの間にかなくなっていた。
あの時、なぜあれを拾ったのか。
大人びた装いをしたかった気持ちと、アユミチが預かっていた物だったから彼からもらったような気持ちと。
あと、何となく引き合ったような。
千海の中子。トローメ王家に伝わる秘宝。
この異常な空を飲み込むあの海は自分と縁のある何か。
「……お母さん」
見つけた。
押し寄せる波の先を、真っ直ぐにこちらに向かってきてくれるお母さん。
約束通り、迎えに来てくれた。
羽ばたく天孔雀よりも色鮮やかに。
「……うん」
天馬の手綱を軽く引くと、意を汲んで向きを変えてくれる。
天孔雀の後ろに続く大きな船の方へ。
不思議な船。大きいけれど帆が少ない。その甲板に近づくと、上下がゆるりと反転していく。
空に広がる海に浮いている船だから、上下が逆さま。
「知らないものを見たい、そう言っていましたね」
天孔雀はフォティゾの分け身で、そんな性質があるとか。
まさに、こんな光景は他のどこでも見たことがなかっただろう。この先も。
「……見せてあげたい。そうですね」
明日を。
未来を。
色鮮やかな世界を、誰かに。
きっとお母さんも同じ気持ちだったのだと、また胸が温かく。
◆ ◇ ◆
「無理すんじゃねえ、休んでろ」
「心配しすぎよ」
立派な船室。立派過ぎて居場所がないと思うくらい。
船室なのに狭苦しさなどどこにもなく、しっかりと固定されたソファは信じられないほど柔らかく。
手すりが多い。船が揺れた時に掴まるために。
貴族の船の、貴族の船室。
こんなところに案内されて気兼ねなく使えと言われるなんて、少し前まで想像もしなかった。
「お前だけの体じゃねえんだぞ、ディオーネ」
「兄さんに言われなくてもわかってる」
「お前になんかあったら、俺は……」
「妹のことより自分の奥さん心配しなさいよ、ほんっと」
兄フィリオとその妻も一緒だ。
魔獣の襲撃に備え、王船
こんな状況でどこにいれば安全ということもないだろうけれど。
「港町で生まれ育ってるんだから。こんな大層な船じゃ揺れてるとも思わないわよ」
「俺ぁ、ムンジィの奴に……」
「それこそ、言われるまでもないの。私の旦那なんだから」
見ていた。
目を逸らせなかった。
彼の生き様を。
彼の死に様を。
フォティゾが世界中に見せたあの光景は、他の誰よりもディオーネに意味があった。
複雑な気持ちがないとは言わない。
夫は、夫の大好きな友のために命を張った。
帰ってきてほしい。ただ無事に帰ってきてほしいと、ディオーネが願っていることは承知していただろうに。
薬師アユミチと仲間たちを生かすために命を散らした。
それだけだったのなら、悲しみと苦しみで張り裂けていただろう。
心が潰れていたと思う。
それだけじゃなかったから。
ディオーネのために。
ディオーネと、生まれてくる子供のために、明日を託して。
彼のその言葉を聞いたから。
愛を知った。
本当に愛されていたのだと知ることができた。
絶望が世界を覆っても、どれだけ悲しくてもつらくても、この子と共に生きられるだけ生きてみせようと固く誓う。
彼を好きでよかった。
ムンジィが、ディオーネの夫でよかった。
魔獣討伐の英雄なんて関係ない。
私の夫は最高の男だと胸を張って言える。
あなたの父は最高の男だって子供に伝えたい。
だから。
――天馬だ!
――前方、天馬! 攻撃するな!
しばらく静かだった外が急に慌ただしくなる。
天馬というと、薬師アユミチが扱うと噂のものか。
あれからどうなっているのか、世界がどうなってしまうのか。
ムンジィのことも聞きたい。聞かなければならない。
「ああ……くそ、あぁ……」
ディオーネにおとなしくしていろと言っていたフィリオも気持ちは同じ。
船室の扉を向き、ディオーネを振り返り、何を言おうかと悩んだ後で。
「転ぶなよ、俺に掴まってろ」
「その方が危なっかしいでしょ」
少し膨らみがはっきりとしつつあるお腹を擦りながら立ち上がった。
身重の女に対して、男の方がおろおろとする様子はよく聞く。
こんな時は、案外女の方が肝が据わるものなのかもしれない。
フィリオのこんな有り様をムンジィに聞かせてあげたかったな。一緒に笑いたかった。
◆ ◇ ◆
「……なんです?」
天馬で甲板に降り立ったカヨウと、ふわっと飛び降りてきたアスパーサに対して、叉波王の乗員たちが敬礼の姿勢。
実際操船している水兵もいるから全員ではないが、とにかく手が空いている者たちが次々に。
ディサイの港町で見た兵士たちとはずいぶんと毛色が違う。
「我ら叉波王の乗員はみな王の臣であります」
特に上等そうな服装の、隊長らしき男が深く頭を下げて静止した。
年齢は初老より上。おそらく貴族の係累だと思うけれど、身元も不確かなカヨウに対して感極まったように声を詰まらせて。
礼の姿勢のまま静止できず、小刻みに震えた。
「トローメの……世界の、この惨状の中、よくぞお戻りくださいました……」
「戻ったつもりは……」
エクピキの太光師ザイドロスに言われた。
カヨウは、トローメの貴い血筋を引くようなことを。
お姫様だとか。
「どうして、そんなの……」
「言葉は不要です。千海の中子、その輝きと叉波王が答えであります」
他の乗員たちも同様に、カヨウとアスパーサを迎えて疑う様子はない。
「お母さん……」
「どこまで知っているのかしら? 正直に話してほしいのだけれど」
「先のクムス陛下がお生まれになるより前。噂だけはお聞きしておりました。さらに先々代の王兄殿下が、禁じられた子を授かったと。王統に近い御方々が続いて亡くなられ、エクピキ教と貴族院黄帯派が力を増す中、噂はございました」
禁じられた王家の子。
ザイドロスの言っていたそれがアスパーサで、その子供がカヨウ。
叉波王は王船で、千海の中子は叉波王の鍵であり王家の証になるのか。
世界が正常なら彼らも決して安易に認めはしなかっただろう。今は未曽有の緊急事態で、その苦難の中に現れたから。
「どうぞお命じ下さい。我ら王の臣。女王陛下より、下知を賜りたく」
「……」
急に命令をくれと立派な兵隊たちに言われても、どうしたらいいものか。
見上げるアスパーサは微笑んでゆっくりと頷く。
カヨウの思う通りにしなさいと。
「テュズ……」
叉波王の広い甲板に、中央の船室に繋がる扉が開いた。
出てきたのは見覚えのある男と女。
女の方に呼ばれた。
偽っていた時の名前を。
アユミチと兄妹を演じていた時の名前。今思うとなんだかこそばゆい。
「ディオーネさん」
ムンジィの妻ディオーネと、彼女の兄フィリオ。
西港ディサイで反乱計画を立てていた。時同じく反コスタスで動いていたアユミチ達と接触したのは偶然ばかりでもなかったのか。
「ムンジィさんのこと……」
「あなたに謝られる筋合いじゃないわ」
ムンジィの最期に居合わせた。
助けてもらった。命を代償に。
思えばムンジィには何度となく助けてもらった。
ディオーネになんと言えばいいのかカヨウにはわからない。
「勝手な人だったでしょ。思い込んだら止まらない」
「……優しかったです。口下手でしたけど」
「雑なのよ。あなたのお兄さんと違ってうちのは、どっちも」
「それはうちのお兄ちゃんも負けてません」
どっちも、とムンジィと一緒に評されたフィリオが渋い顔をした。
アユミチも決して口がうまいとは言えない。
もっとうまく狡猾にカヨウを篭絡してくれていたら、悪い子にならなかったかも。そうでもないか。
「素敵な人でしたよ。たぶん、アユミチさんの次に」
「ええ、あなたのお兄さんも素敵ね。ムンジィの次くらいに」
二人で顔を合わせ、ふふっと。
謝罪も礼も、大して意味はない。
けれど知っている。知っていてくれる人がいる。自分の大切な人のことを。
そして、それを伝えたい。残したい。
世界に。
未来に、繋げたい。
「お
「えぇ」
優しくお腹を擦り、少し寂しそうに微笑む。
命がある。新しい命。
明日に繋がる大切なもの。
「……はい」
カヨウがお腹にいる時、母はどんな気持ちだったのだろう。
いや、宿す前からずっと悩んでいた。
苦しみと悲しみ、失望と絶望。楽ではない、産んだらつらい人生を歩むことになるのはカヨウだけではなく、母も同じく。
それでも、選んだ。
母の選んだ道が正解だったとは言えない。だとしても、選んでくれなければカヨウはここにいない。
「……ありがとう」
「……」
カヨウは幼かった。
母はただ強く優しく頼もしい存在だと、理想だけを描いて。
アユミチを追い詰めるようなことをした。
そんなの、カヨウが空想の中の母でさえないのに、正しいと思い込んで。
「私が望んだの。それだけよ」
ディオーネの言葉が、まるで別の誰かの言葉のように響いて。
泣かないつもりだったのに、こみ上げた気持ちがぽろっと零れた。
◆ ◇ ◆