法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
叉波王の乗員はみな知っている。
クムス王の死後、ずっと叉波王が眠っていた時を。
二か月前に新王ニーモがこの甲板に立った日を知っている。
しかし、国を割る内乱の末に叉波王が再び力を失ったのを感じた。
彼らは再び王を失ったのだと。
永遠に。
海の上であれば、どのような敵があろうとも守ったのに。
世界の終わり。
悪しき神まで現れ、もう何もかも終わりかと彼らの意志も尽きかけた。
せめて託された最後の英雄の妻と子は守ろう。海の上で何もできなかった自分たちの最後の仕事として。
東港アナトーリが崩壊する。
魔獣の襲撃を受けて、それを見ながら何もできない。
叉波王は巨大な戦艦だ。しかし帆は最小限。この巨体をオールで動かすとしたら、数百人の漕ぎ手が必要になる。
動かす力は大海魔カルマリィの心臓だ。そして、鍵となる千海の中子はトローメ王家の正統な者が手にしなければ輝かない。
永遠に失ったと、そう思った。
しかし、ここにきて叉波王が再び動き出す。
動き出して、時同じく空の果てからあふれ出した空の海に向かう。
溢れ出す空の海の先には、やはり青い輝き。天孔雀の背に。
最後の主と、最後の戦場を見つけた。
このために叉波王は存在したのだと知り、己の役目を取り戻した。
降り立った母娘。
片方は、女神スカーアと薬師アユミチの戦いの場にいた少女。
古くからトローメ王に仕えてきた者にはわかった。
王家の醜聞として目を背けた噂話は事実だったのだろうと。
胸で輝く秘宝と叉波王が認めている。トローメを導く王なのだと。
「御下知を、賜りたい」
我らに使命を。
叉波王が動く限り力を尽くす。
「この世界の果てで、我らに最後の槍働きをお命じ下さい」
出自がどうとか、もうそんな話をしている場合ではないのだ。
都の貴族であればそうしたかもしれないが。
叉波王の乗員は海の戦士。
海では家柄も身分も大して意味はなく、目の前の風と波を見て判断できなければ生きていけない。
そして、武人として主からの命に応えるのは何よりの誉れ。
麗しい姫君であればそれもよい。上々だ。
「なら、ムンジィさんが守ったものをお願いします」
姫君の言葉。
ムンジィ。世界に希望を残した魔獣退治の大英雄。男の中の男だ。
「御夫人と、世界の明日を守るために戦って下さい」
「はっ!」
是非もない。
それが王命であれば言うことはない。極上だ。
「御勅、拝命仕る」
「おおぉ!」
空の海に、男たちの声が雄々しく響き渡った。
◆ ◇ ◆
ディオーネたちを船室に下がらせ、兵士たちの憧憬めいた目に頷いて。
カヨウは決して偉大なわけではない。ただの小娘だけど。
期待と好意に満ちた彼らの気持ちを無為にしたくないと思う。
柄でもない。自分なんてそんな大したものじゃないのに。
アユミチもよくそんな風に言っていた。
こういう気持ちだったのか。
「お母さん」
「あなたの思う通りに。手伝うわ」
「はい」
一人じゃない。
カヨウは独りぼっちじゃない。
それがこんなに心強いなんて知らなかった。
「スカーアはファニア様にお任せしました。できる限りスカーアの思惑を削ぐために、あの魔獣を片付けます」
渇きの王蠍。
世界に放たれたスカーアの魔獣を討伐する。
スカーアは世界の人口と隠れ里の人口を逆転させて、自分を信奉する者を多勢にしたいと言っていた。
それが世界の波となる。おそらく、神域に流れていた霊魂の粒のようなものが、スカーアの思う方向に流れていくようになるのだろう。
スカーアの望む流れが自然となれば、レーマルジアもその方向に流れる。
世界の常識を自分の都合のいい方に向けようと、そういう計画。
「魔獣を退治してもレーマルジアが降臨したら終わりなのだけど」
「そちらはアユミチさんが……」
アユミチを遣わした女神の裏の顔みたいな存在らしい。
存在すればその光で男は滅びる。男が死に絶えれば結局世界が成り立たない。
スカーアの民以外は残らない。
「……ちょっと頼りない、ですけど」
「そうねぇ」
「きっと大丈夫です」
考えてみて、やっぱりアユミチはアユミチでしかない。
悪い子だったカヨウの視点でなくとも、アユミチが急に強く頼もしい英雄に豹変するわけもなく。
どこか頼りない弱さが脳裏を掠めて、ふふっと笑う。
なんでも頼れるお兄ちゃんというわけではないのがなんだか嬉しい。
「私は、私のできることをします」
アユミチが守りたかったものを、代わりに。
伴侶として。
船首の方で、前を飛ぶ天孔雀を見ていた天馬を呼んだ。
「私にしかできないことを」
「なら、手伝うだけよ」
二人で天馬にまたがった。
翼は前足に近い方にあるからまたがるのに不便はない。
後ろから抱かれる。柔らかな感触。
「ごめんなさい、いい子になれなくて……我がままで、ごめんなさい」
世界を塗り替えてまで思ってくれたのに。
そんな思いをふいにしてしまう。やはりカヨウはいい子にはなれない。
「それを言うなら、いいお母さんじゃなくてごめんなさい、かしら」
「そんなこと……」
「あなたが自分で選んだなら、それでいいの」
「……はい」
安心する。
やっぱり一人じゃないんだって。
無条件に甘えていい人がいる。
許してくれる。
「……お母さん」
「なぁに」
天馬が軽く蹄を鳴らして飛び立つ気配を見せた。
逆さまに広がる空の海から、その先に。
「私を……私、生まれてきてよかった……です……」
「……そう」
「ありがとう……カヨウに、今をくれて……ありがとうございます」
「ばかねぇ……」
ぎゅうっと、手綱と一緒に強く。
力を込めて。
愛を込めて。
「それも、お母さんのセリフでしょう……ありがとう、カヨウ……」
「うん……」
一緒に、空へと駆け上った。
◆ ◇ ◆
「ツキがねえ」
メムナーンのぼやき。
気持ちはわかる。ノアカッセもそう言いたい。
いくつかわかったことがある。
渇きの王蠍は左右どちらにでも跳ねることはできるが、連続では跳ねられない。
あれだけの巨体と速度、飛び跳ねた側にどれだけの負荷がかかるか。
脅威になりうる攻撃に対しては反射的に回避する。
鋼よりも硬い甲殻だが、無敵というわけではない。
攻城弓や投石器の直撃を受ければひしゃげる。あるいはヒビが入り割れる。
過去の討伐隊が壊滅したというのは、王蠍の土俵で戦ったからというのも理由だろう。
防衛拠点で準備を整えて待てば、まったく太刀打ちできないというわけではない。
そうは言っても勝てるとは思わないが。
月の光に弱い。
薬師アユミチの言葉は本当だった。
月明かりの下では王蠍の甲殻が明らかに軟弱に変わる。
過去の記録に夜に遭遇した例がなかったのはこれが弱点だったから。
そうとわかれば対処できる。それで一匹は仕留めたわけだが。
空が飲み込まれた。
映像で見た、スカーアの里の空と同じ色。黒い太陽の照らす空。
黒霧のカーテンのようなものが通り過ぎて、西港ディサイ周辺を飲み込んだ。
スカーアの世界が広がっていく。おそらく世界中に。
そして、もう月は昇らなかった。
「なんだってんだ、この空は」
「女神スカーア。陰を住まいとし鎮魂を歌う。失せもの、探し物はスカーアの領分にあると言われ、いつでもどこにでもいるとか」
ほとんど伝承のない神。
あいまいで漠然とした、実態の知れない女神。
暗い夜にも、灯りの影にでも。スカーアはそこにいる。死と眠りの女神とも言われるらしい。
いつでもお前のすぐ傍に。
「月が飲まれるのは想定していませんでしたね」
守り切る算段をしたつもりだったが。
曇りでも雨でもないのに月を隠された。
残りの矢や揃えた石の不足以上に、心をすり減らす。
もうだめだ。
おしまいだ。
口にはしなくとも、ディサイを守る兵たちの胸を押し潰す状況。
「どうするよ、ノア?」
メムナーンが問う。
どう対処する、という意味ではない。
ノアカッセたちはホスバルドル海軍だ。占領した港町ディサイで玉砕する義理はない。
海に逃げれば魔獣も追ってはこれまい。
「そうですね」
母船
選択肢のひとつで、部下たちも望んでいるかもしれない。
「港に伝令を」
元からの部下は、船で待機している者と防衛線に参加している者といる。
ノアカッセの意地で死地に送るわけにはいかない。
「判断は任せる。避難を望む者を乗せて沖に出るように」
「望まない奴は?」
「死に場所を選ぶ自由くらいしか与えてやれないな」
海に逃げて一時的に生き延びても、その先がない。
魔獣に敗れ、スカーアに支配された世界で死を待つ。
どちらがマシか選ぶだけ。
海で行き場を失った船は地獄だ。水と食料が尽きて次々に身を投げる者など。
先に死んだ仲間の肉に食らいつくことさえあり得る。
「逃げたっていいんだぜ、あんたらは」
「ん」
ノアカッセたちとは違う、元よりここが故郷のアルゴ・ノーツが見回りながら歩いてきた。
頭二つほど小さい少女と一緒に。
「ホスバルドルがどうなってんのか知らねえが」
「魔獣は世界中に放たれたのです。向こうでの死病の流行も聞いています。状況が良いとは思いませんね」
「つっても、義理もねえここで死ぬこともないだろ」
次に王蠍が襲ってきたら、防ぎきれないだろう。
多少の被弾を承知で突っ込んできて城壁を踏み越え、後はどうしようもない。蹂躙。
「案外、ここが一番勝ち目があるかと踏んでいるんですよ」
「期待されてるぞ、お嬢」
「ん、頑張る」
敵対していた奴隷海将ジナミナと共闘できるのは、今ここだけ。
今さらこれ以上の戦力を整えることはできない。
勝てる公算は低くとも、ここで逃げて死を待つよりは。
「分の悪ぃ賭けだな」
「ツイてねえ勝負に出るのは阿呆だぜ、ノア」
「あの英雄殿に感化されてしまいました。私も武人らしい死に場所を選びます」
「ま、つき合うさ」
この町出身で、世界に鮮烈な生き様を示した英雄。
羨ましい。
多少でも武に生きる者なら同じ想いだろう。皮肉気に笑うメムナーンとてその内では。
「っとに、罪な野郎だなぁ。あの英雄サマは」
アルゴ・ノーツがからから笑った。
彼も、ディサイを守る兵士たちも皆わかっている。
絶望的な状況でも、故郷を守って命を張ると覚悟を据わらせたのは英雄ムンジィのせいだ。
英雄的な死に向かう。
これは熱病だ。流行り病。
彼の命の置き土産。
「んじゃ、いっちょやるかぁ」
黒い太陽が照らす大地に、鈍い銀色の巨体が姿を現す。
前回の戦闘で割った甲殻は元通りに。
月から姿を隠す程度の知能はあるのだ。破損した部位が回復するのを待つのも不思議はない。
女神の意思に従い、人間を殺戮する為に。
「出し惜しみは無用! 今日であれを仕留める!」
ノアカッセの張り上げた声に喚声が応える。
出し惜しみも何も、これ以上の継戦は不可能なだけだが。
ディサイは内陸の防衛拠点ではない。陸地側から攻められ、何十日も耐えられる備えはなかった。
「我らの手で魔獣を打倒し、ディサイの明日を守れ!」
「「「おおぉぉっ!」」」
叙事詩の英雄のごとき号令と共に剣を掲げ、笑う。
酔っている自分が心地好くて、皆と共に笑った。
◆ ◇ ◆