法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
「おいおい……月を作っちまったぜ」
「弟も見てんなら夢か、こいつは」
まぬけツラを浮かべて眺める弟を見て、自分も同じかと頬をつねる。
痛い。夢じゃあなさそうだ。
「すげえ……」
「あれが女神様ってんじゃねえのか」
空の海を航行している時点で夢みたいなものだが、白く美しい満月を間近に見てその幻想的な光景に震える。
あの少女こそが女神では。
薬師アユミチを慕う幻術が得意な少女。
母娘でトローメ王船叉波王を率い、スカーアが隠した月を生み出した。
「口達者の弟だって、お嬢に伝える自信がねえよ」
「これを伝える言葉を探しに、どこまで船出しゃいいんだよ」
お嬢への土産話にするにしても、なんと表現すればいいんだか。
でたらめだと副長あたりは決めつけそうだ。
双子だって、こうして見ていなければ作り話でも口にしない。
「手旗! 敵発見!」
「おっと仕事だ、野郎ども!」
叉波王からの手旗を受けて、はっと頭上に目を向ける。
空に広がる海を行くから、地上は真上。これも十分に奇天烈な話。
海が空に広がっていくのも不思議だが、千海の中子の青い輝きが海を呼んでいるようだ。
そのせいが、東港を出てから海岸線に沿って進んでいる。
東港アナトーリから出て、見えてきたのはトローメ南部の大都市、南港ノーテス。
平時であれば叉波王の母港になる。
「敵は上だ! ぬかるなよ!」
「あべこべにゃ慣れてんだよ、くそみそな双子のせいでなぁ!」
仲間からの賞賛を聞き長しながら、町を荒らす魔獣に狙いをつけた。
◆ ◇ ◆
空を波が走る。
トローメ王国を中心に、世界中を覆っていた黒い太陽が照らす空に、波が広がっていく。
紺碧の海が。
意味など誰にもわからない。
絶望に飲まれ押し潰されそうな中、ただその空の海を見上げて祈る。
どうか、その波の先に明日があるように。
特別なものでなくていい。
ただ当たり前の明日が来てくれればそれで。
奪うことも憎むこともつらい。苦しい。
穏やかに、いつもと変わらぬ時が流れてくれるのがどれほど尊いことか。
何に祈っているのか。
わからない。
けれどどうか、ただ何でもない明日が帰ってきてほしいと祈りを捧げた。
◆ ◇ ◆
「……あンのバカども」
アルゴ・ノーツは奴隷海将隊の副長だ。自分の船くらい見ればわかる。
三匹目の王蠍の登場に膝の力が抜け、空を見上げていたから。
「どこで遊んでやがると思ったら、これかよ……」
「すごい」
海岸線を沿って南の方から、かつて捨て森があった方から。
海が迫ってきた。空に。
死にかけて幻覚でも見ているのかと。
「すごい、見て」
「見てるさ、そりゃあな」
ジナミナは完全に目を奪われている。
まあジナミナに限った話でもない。その場の誰もが……いや、地域で生き残っている人間全員がそうだろう。
煌々と地上を照らす満月と共に、空を埋め尽くしていく海。
逆さまの海の波に帆を立てて意気揚々と進む
「こいつぁ敵わねえぜ、ノア」
「やる前から降参とは珍しいですね」
「博打にもなんねえよ」
メムナーンとノアカッセ。
かつて洋上で叉波王に海戦を仕掛けた彼らも、空の海を行く叉波王の雄姿に憧憬めいた目を向けて笑った。
まさに海の王者。
随伴艦が奴隷海将隊の旗を掲げているのは悪い冗談だ。
「魔獣が……」
崩れかけた見張り台の兵士が声を上げる。
こちらに迫ってきていた魔獣王蠍だが。
月の光は王蠍の弱点だと言っていた。ないはずの満月を掲げられ、背を向けようと。
「あのクソが……」
空の上でなんの奇跡が起きたのか、地上ではまるで見当もつかない。
しかし、あの魔獣がここで逃げ延びて良いことなどあるはずがない。
この月の下でぶっ潰す。
そうしたいのは山々だが、ディサイで使えるものはあらかた使い尽くした。
「誰か、手旗で上に――」
「からっぽだって」
アルゴの言葉にジナミナが首を振る。
「上も、からっぽ」
「ここまでに使い尽くしたようですね。仕方がありませんが」
「くそっ!」
上空の二隻が旗を振っていた。
備蓄なし。補給求むの合図だが。
空の上に補給を送ることなどできない。向こうもわかってはいるだろう。
すっからかんのからっけつだと伝えているだけ。
「今なら仕留められるってのに」
凶悪な魔獣が、あたふたと逃げるのを見送るしかできない。
月が沈めば、またどこかで大暴れをするのだろう。またこの町を襲う可能性もあるというのに。
「いえ、どうやら」
「腹ぁ決めたみてえだな」
ノアカッセとメムナーンが呻いた。
空の上で、叉波王が転舵する。
うねるような波に乗り、逃げを打つ王蠍に向かって。
すさまじい速度で王蠍を追った。
◆ ◇ ◆
巨大な
王都を踏みにじり廃墟にした魔獣を引き潰し、その船体も共に崩れていく。
反対に、随伴艦は港の方に降りていった。
共に行けるのはここまで。それぞれの役目を果たして。
「まだ……届かない……っ」
この国を襲っていた魔獣の多くは討ったと思う。
けれど、世界はこの国だけじゃない。
まだ全てに届けられていない。カヨウの力では足りなくて。
「アユミチさんの、思いを……」
「大丈夫よ」
後ろから優しい声。
その手に握った青い宝石、千海の中子にはびっしりと細かなヒビが入っていて。
大海魔カルマリィの心臓。
涙と海の源。ランプシーが自ら切り分けた天馬とは別に、無意識に残ったものがこれ。
「ずっと無茶な生き方をしてきたけれど、まだ少しは残っているでしょう。ノクサ」
「お母さん……?」
千海の中子が、ひび割れから粉々に砕け散った。
と同時に、ここまで引っ張ってきた空海の波が爆発的に広がっていくのを見た。
「わたしも繋がっているのなら。ノクサ、残る全てを捧げるわ」
砕けた結晶が光り輝いた。
「
誰もが胸に描くすばらしい場所。それは手に残らない遠くの景色。遠い時。
「葉に置く露は零れども。杉立つ山はふるさと香る」
すぐに零れ落ちてなかったように思える露のように儚い。
言の葉のようにつかまえておけない。
けれど、なかったのではない。霧も露も言葉も確かに存在していた。
「
いつも見ている、眩しくて見ていられないもの。
魔法にして映し出した。
世界中の人々に届くように。
カヨウが作った月を、波に乗せて、全世界に。
青く輝く月明かりが、空の海に揺れながらどこまでも。
「お母さん……」
顔色が白い。
月明かりのせいというだけではない。
ずっと、ずっと、ずっと前から。
カヨウが生まれるよりも前からずっと、悩んで、苦しんで、続けてきた。
世界に居場所のないカヨウに、安心できる場所を与えられるように。
「……ごめんなさい」
アスパーサのやったことは、決して善行などではない。
多くの人を犠牲にした。たくさんの争いを呼んだ。悲劇も恨みも数えきれない。
それでも、アスパーサはカヨウの明日だけを願って選んできた。
自分自身も犠牲にして、きっとその体はたくさんの苦しみを受けてきて、もう無茶などできなかったはずなのに。
「少しは、母親らしいところも、ね」
「少しなんかじゃ……」
これほど愛された子なんていない。
カヨウは特別だった。特別に、誰よりも愛された。世界で一番。
世界中の人に恨まれていたとしても、カヨウにとってアスパーサは誰よりも尊いお母さんだ。
「なのに、ごめんなさい。生きられなくて……」
アユミチのいない明日を生きられる自信がなかった。
ファニアに負けたくなかったのかもしれない。
力の足りないアユミチのやりたかったことを、少しでも叶えたかった。そうしてやっと本当に伴侶になれる気がして。
「おかしいわねぇ」
カヨウを抱きながら優しく笑った。
月の魔法が世界全部に届いていくのを肌で感じながら、自分の命が燃え尽きていくのもわかる。
でも、怖くない。温かい。
「この道を行けば、あなたは一番欲しかった人の腕で、満ち足りた最期を迎えられるって。フォティゾはそう言ったのだけれど」
後ろを飛ぶ天孔雀が輝いていた。
その身を光の粒に変えて散っていくよう。
「嘘だったのかしら」
「ううん……」
カヨウとアスパーサが乗る天馬も、二人と共に星の粒のようにきらきらと。
「本当です……私は、大切なものを全部もらいました……」
「そう」
他の道を進んでいたなら得られなかった。
満ち足りた、温かな気持ちを全て。
アスパーサの両腕に包まれながら頷く。
「ありがとう……大好きです、お母さん……」
「わたしも、愛しているわ……世界で一番大切な……」
◆ ◇ ◆