法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
殺意ではない。
悪意でも害意でもない。
生きろと願われる。
大恩ある女神に生きていろと命を押し付けられる。
「死にたくねえって言っただろ。お前があたしに願ったんだ」
馬乗りになってアユミチを責める。
自分より大きな女というのは多くない。こんな風に制圧された経験はなく、怖い。
腿に当たる柔らかな尻の感触と、片方の膝で腹を抑え込まれ、胸倉に当てられた手のせいで立ち上がれない。顔が近い。
「なんとかしてくれって、お前が言った。そうだろうが」
「それは、だって……」
「あたしはお前の頼みを聞いてやった。違うかよ」
大声ではない。怒声ではなく、重い声色。
恩がある。
レーマ様には借りがある。
もらった時間のおかげで、忘れられない大切なものを得られた。
「面白かった。悪くねえ、楽しいって思ったんだ」
「……」
「お前がいなくなんのはつまらねえ。あたしが悪かったなら謝るって言ってるんだ、他にどうしろって言うんだよ」
押し付けだけれど。
これはレーマ様なりの歩み寄りなのだ。
「もうちょっとなんだ、何かわかる……届きそうなんだよ」
レーマルジアが復活する。
本来のレーマ様の人格……神格が目覚める予兆。
それに対する不安もあるのかもしれない。
思い出したら、自分が自分でいられなくなるような。
当然、そんな経験もなく、不安を言葉にできず不安を抱えて。
「お前がいれば、あたしは……」
「レーマ様……」
自分を繋ぎ止めたいのか。
今のレーマ様にとって、アユミチが持ち込んだ時間は密度が濃かったのだろう。
正体不明の変質に怯えて、手近のものに掴まろうとしている。
「……」
哀れだ。
かわいそうだ。
覚悟を決めてきたはずなのに。
目の前で、こんなレーマ様の姿を見せられて、何が正しいのかわからなくなってしまう。
「……お前なら、いいぜ」
声音が変わった。
「アユミチ……お前なら、許してやったっていい」
「何を……?」
「ヤりてえって顔してたじゃねえか……お前が相手ならいいって言ってんだよ」
ぐいと、またがる尻を押し当てられた。
「だから、いいだろ……許してやるから、許せよ」
「レーマ様……」
不器用なのだ。
他者との関わり方が、絶望的に下手。
それはレーマ様が悪いわけではないのだと思う。誰も同じ目線でレーマ様と関わってこなかったから。
力を押し付け力で奪う。
他に方法を知らない。
「なあ、アユミチ」
「だめだ……」
「あたしが」
こんなの間違っている。
そう言いたいけれど、アユミチを押さえつけるレーマ様の力はどうしようもなく強くて、アユミチを責めるレーマ様の姿はどうしようもなく哀れで。
強くて哀れで、重い。
抗う心を
「……それは、だめだ……レーマ様……」
美しい女神に目を奪われた。
轢かれて死んだ時。
空から駆けてきた彼女の姿に心が焼かれて、惹きつけられた。
思い出す。
空を見て思い出す。
「……」
空を見る。
レーマ様が暮らすこの建物は、天井部分が笠のように少し浮いていた。
最初は少しだけだった。
今は、もっと高く。蓋が外れそうなほど。
「……」
アユミチが見上げるレーマ様の顔の向こうに空が見える。
かつてアユミチを轢いた天馬が駆けていく。
海を引くように空を塗り替えながら、天孔雀と並び満月を連れて。
南から西に。
「……あぁ」
諦めかけて力が抜けていた。
どうしようもない力に圧倒され、陰っていた決意を満月の光がもう一度照らす。
頑張りなさい。
黒蝶の囁きが聞こえた気がした。
「だめ、なんだ……レーマ様……っ」
「だめでも許してやっただろ」
恩も借りも負い目もある。
だから、それを返しに来た。
「俺は……あんたを……っ!」
あなたの輝きを、つまらないもので陰らせたくない。
誰かに
「だから、俺は……」
押さえ込まれ、まともに抵抗などできない。
アユミチの力なんてレーマ様に通じるはずがない。
身をよじり、わずかに動く肘から先で腰に差したものを掴んだ。
「黙って言うとおりにしとけ、バカが」
さらにアユミチの動きを制する為に、胸倉を掴んで床に押し付ける。
顔は、目の前。
やや日焼けした色のきめ細かな肌。
薄っすらと
降りてくる赤い髪がアユミチの頬に触れ、唇が唇に触れるほど近づいて――
「レーマ・ルジアが好きだったんだ」
勝手に憧れた自分の女神の尻に、鞭を打った。
「きゃんっ!?」
「んぐっ!」
悲鳴を上げて飛び上がった。
アユミチを押さえつけていたレーマ様の体が、子猫のような鳴き声と共に。
「っく、っそ」
手首の返しだけで打った。それしかできなかった。
レーマ様の宝箱から零れて落ちた鞭。天馬が拾い、アユミチが受け取ったもの。
「なん、っだぁ!?」
一番最初に、アユミチと出会った夜にノクサは言った。
王蠍なんて害獣を人間がまともにどうにかしようと思ったら、
「尻鞭……イスカプラク」
いかなる者も防ぐこと
レーマルジアが作った道具。どんな相手にも痛みを与える罰となるように。
ゲーム的に言うのなら貫通効果のある鞭。鞭と言ってもロープ状ではなく、短い棒状の馬上鞭。
「いてぇ……なにしやがった?」
「だめなんだ、レーマ様……それじゃあ、だめだ」
解放され立ち上がり、レーマ様と向き合う。
空に見えた天馬の姿はもうない。
時間の流れが違っているのだろう。外の雲海の流れ方もいつもとまるで違う。
一目見れただけでいい。アユミチが何のためにここに来たのか思い出させてくれた。
「そいつを――」
アユミチが握る尻鞭を睨みつける。
唯一、正面から痛打を与えることができる神器。
「よこしやがれ!」
「全部返すさ!」
そのつもりで来た。
尻鞭を振り上げるアユミチの視界からレーマ様の姿が消える。
「お前にできるかよ!」
「っ!?」
正面から、アユミチがレーマ様に勝てるはずなどなかった。
振り下ろすより先に止められ、強い力で尻鞭を奪われる。
「この――」
子飼いの人間に尻をぶたれ、怒らないはずがない。
奪った鞭で仕返しのようにアユミチを打った。
「バカが!」
「っ」
バシィィィッ!
殺すつもりではない。痛みを与える為に、アユミチの右の尻に弾けるような音を立てて、
「いぁっ!」
「ふ、いぃぃぃぃっ!?」
尻鞭を振るえば、罰として痛みを与える。
誰も逃れることはできない。
ぶたれたアユミチも、ぶった女神さえも。
「いだぁぁぁぇっ!?」
輝かしい女神が、尻を打たれた痛みに涙を浮かべながらのたうち回った。
◆ ◇ ◆
何が起きたのか意味がわからない。
アユミチなどの苦し紛れの悪あがきで痛みを感じたのがそもそもおかしかった。
手にしているものを見て、またいっそう焦燥感を覚えた。
いやだ、そんなものであたしを打つな。
取り上げて、かっとなって、そのままアユミチに打ち付けた。
こいつが言うことを聞かないのが悪い。
あたしがこんなに譲歩してやってるのに。
痛い思いをすればわかるはず。
きっとわかってくれる。
痛みがなければ理解できないことだってある。だから。
「――――っ!?」
痛みを知った。
全身を熱い雷が貫くような痛み。
くぁっと目から涙があふれ、ずっと知らなかった痛みに耐えられず膝を着いた。
叩いた手が痛い。尻が痛い。腹の奥から脳天まで痺れる。
くそ。
くそ。
なんであたしが罰を受けなきゃならない。
こんなのおかしいだろうが。
「く、っそ……」
にじむ視界でアユミチの姿を探す。
叩かれたアユミチだって同じだけ痛かったはず。だが、慣れているのか、既に立ち上がって奥へと向かっている。
「バカ野郎、が……」
わかっていた。
もしアユミチが償おうとするなら、少年たちの魂の前に向かうだろうとわかっていた。
みすみす行かせるつもりはなかった。塞いである。
完全に通路を断ち切ることはできないが、入り口は岩で塞いだ。
「く、そ……」
さっきあたしが口にしたのと同じ言葉がアユミチから漏れる。
痛みは不快だけれど、少しだけおかしい。
同じ言葉を口にして、同じ痛みを分け合って。あんな奴とあたしが。
「お前はそっちにゃ行けねえよ」
痛む右の尻を擦り、右目からもう一粒涙を零しながら立ち上がる。
ふらついた。
頭に残る苦痛。深酒とも違う、知らない痛み。
「……ノクサ」
通路を塞ぐ岩にもたれかかりながら、ぽつりと呟いた。
無駄だ。
アユミチがわけのわからない力を使ったとしても、その岩を破ることはできない。天を塞ぐ岩戸。
「伝えてくれ……俺の全部を……」
お前の全部を使ったところで無駄だ。
あたしはお前を死なせない。
一緒に生きていく。
「……好きだ……大好きだ……」
「お前……アユミチ、なに言って……?」
何を、誰に、どうして。
どこに向けた言葉なのか。
「はい」
開くはずがない。
通じるはずのない道が開いた。
「なん……だ……?」
塞いだ通路の左右の端に、蛍のように光る石が列を為す。
ここが通り道だと示すように。
「はい、
銀糸の女が、倒れかけたアユミチの手を取り微笑んだ。
◆ ◇ ◆