法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
「そう悩むな。勘が冴える方ではないだろう、お前は」
最後にひとつ、とても薄く儚い姿のまま。
突き立てられずに震えるアユミチの手に、そっと差し伸べられた。
妻たちの手と重ねて、もうひとつ。
「誇りは、命を賭すに値する」
「り……」
「私はそれを知っている。お前が守ってくれたんだ、アユミチ」
誇りを守って死んだ女。
誰かに利用され貪られ生きていくのではなく、尊厳を取り戻して死んだ。
守ってくれたなんて、そんなことはない。
アユミチこそが守ってもらった。彼女に。
「リグラーダ……っ」
「ああ」
妻ではない。伴侶や恋人なんてことはなかった。
けれど、ゼラが許してくれた。その亡骸を前に、心に留め置いてあげなさいと言った女性。
もうずっと前だ。
魂などとうに雲海の果てに流れてしまったはずなのに。
「お前の誇れる道を行け、アユミチ」
これでいいのかとか、間違っていないのかとか。
悩み迷いためらうアユミチの背を押す言葉と共に、胸のナイフに手を重ねた。
「わたくしも共に参ります、
「共に行こう。今度は一緒だ」
「ずっとアユミチさんの傍にいます」
リグラーダの顔を見て、皆もそれぞれ頷いて力を込めた。
「なんで……お前ら、どうして……」
「レーマ様」
ゼラと、ファニアと、カヨウと、リグラーダの手を借りて。
ここまでしないと覚悟が決まらない。
止めようと、手を伸ばしかけるレーマ様。
美しい女神に笑いかけて、
「ありがとう、レーマ様」
「アユミチ……」
レーマ様が身を許すと言った時。
もしそれが最初の頃だったのなら、ゼラやみんなを知らない頃だったのなら。
最初に結ばれたのがレーマ様だったなら、アユミチはきっとレーマ様の手を取っただろう。
間違っていると思っても、情を重ねた女神の手を払うことはできなかったと思う。
そうならず、正しいと誇れる道を選べるのは、レーマ様がくれた時間のおかげ。
「一緒に行こう。全部返すから」
レーマ様にもらった仮初の命。
そのおかげで得た宝物とともに、胸に深く突き刺した。
◆ ◇ ◆
ああ、あーあ……
なんだよ、やっと見つけたと思ったのに。
飢えて渇いて虚ろで無機質なところに、何か生えてきたような気がしたのに。
あーあ、台無しだ。
結局、なんにも残らなかった。
あの黒蝶に面白いものを贈ってやるって約束したのに。
独りで蜜を啜ってただけの黒蝶に、楽しい時間を見せてやるって約束したのに。
嘘になっちまったじゃねえか、クソが。
「レーマ様」
うるせえよ。
もう何も残っちゃいねえ。
あたしはもう空っぽだ。最初の約束も守れなかった空っぽの環っか。
もう千切れてなくなっていくだけ。
「ひとつだけ、頼んでもいいですか?」
はあ?
お前なあ……
「最後の願い事なんで……」
お前なぁ……
なんで、どんな頭してたら、この期に及んでそんなこと言い出せるんだよ。
バカなのか?
バカなのか。
「うるせえ」
これ以上、あたしの耳に何を流し込むつもりだよ。クソが。
もう十分だろうが。
「すんません」
済まねえよ、バカ。
何をどうやったって済まねえよ。
「……で」
最初の約束も守れず嘘をついて破ったあたしに、もう何も残ってない。
けど、まあ。
「で、なんだよ……」
最後にこのバカがどんなバカな願いを口にするんだか、聞くくらいはできる。
ああ、あたしもバカだ。
この期に及んでまだ、こいつのバカな言い分を、楽しそうだと思ってしまうくらいには、救えないバカ。
「ありがとうございます、レーマ様」
「聞くとは言ってねえぞ、アユミチ」
どうせまた、どうしようもないバカな願い事なんだろう。
最後に笑ってやるのもいい。
「お願いします、レーマ様――」
は。
はっ!
はははっ!
想像もしなかったバカのバカな願い事。
実にアユミチらしい、本当に。
「お前、懲りねえなぁ……」
できっこねえ。
なんでそんなもん叶うと思うんだか。
本当に、バカなお前に付き合った時間が、あたしのたから――
◆ ◇ ◆
「ふざけんなこのバカ野郎!」
「へ……?」
目を覚ます。
頭が揺れる。
目の前には、感情を爆発させそうな男の顔。
「なん……だ……?」
「なんだじゃねえよ! このバカ!」
いや、爆発済みだ。
いい歳したおっさんが、両目からぼろぼろ涙を零して、鼻水も垂れて、汚い。
「ここ……俺は……」
どこだ、誰だ。
頭がぐらぐらして思考がまとまらない。
いや、揺れているのは頭の問題だけではない。全体に、全身が揺れる。
「船……?」
船の上だ。波に揺れている。
つんのめって転びそうになる目の前の男が、自分の親友――悪友だったと思い出された。
「なん……て顔してやがるんだ?」
子供じゃああるまいし、ぐじゃぐじゃの顔ですぐわからなかったが。
「フィリオ……おいっばかきたねっ」
「くそバカはてめえだろうが!」
抱き着かれた。
目を覚まして、大泣きする男に抱き着かれるなんて、悪い夢か。
「何が星の王子様だ! ふざけてんじゃねえぞムンジィこのクソバカがよぉ‼」
東の海に流星が落ちた。
それは少し前の話。
ゼラの魔法で守られ、捨て森の爆発から弾かれた男が、東の海に落ちてきた。
世界には魔法がある。
言い伝えや自然現象、天災や神の奇跡。
世界が覚えているそれらを呪文や何かでなぞらえて再現する魔法。
天変地異の後、東の海に落ちた流星。
そして再び、世界を覆った天変地異の後に、西の海に落ちた流れ星。
「俺ぁ……なんで……」
「知るかアホ! 心配させやがってこの……この、馬鹿野郎が……」
神様の置き土産のように。
空の海が消えて満天の星空が広がる下で、男は帰ってきた。
もう帰らない男が、とんと背中を押したのかもしれない。
お前はそっちにいろ、と。
「そう、か……」
心臓の後ろ辺りに感触が残っている気がした。
背中を押して、代わりに遠くへ流れていってしまった親友の手の。
「かっこつかねえじゃねえか、これじゃあよ……」
お互い様だ、と。
笑われた気がして、へっと笑いが漏れた。
「だな、旦那……」
決して特別な人間ではなかった。
ただの親友。
気の優しい、優柔不断で何か冴えた才能があるわけでもない、ムンジィの親友。
「かっこつけやがって、ちくしょう……」
言いたいことはある。
いくらでも、どれだけ文句の言葉だって湧いて出る。
けれど、伝えたい気持ちはそれだけだ。
「……ありがとよ、旦那」
船の行く先に港が見えてくる。
帰るべき港。
港へ、風が船を押した。
◆ ◇ ◆