法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
海が空を覆い、海に月が浮かぶ。
マベラを抱いて見上げた。
美しい満月が上に広がる海を照らして、濃紺の波が揺れる。
「すごい……」
「なんて美しい……」
里の者たちの口口から零れる言葉。
ファニアとスカーアが散っていった空。
この里に海はない。
ほとんどの者は初めて見る海。
空を覆う海など、里の者でなくとも誰も見たことはなかっただろうが。
「レフカ……きれい……」
「ええ」
弱々しく伸ばしたマベラの手を取って一緒に見上げる。
これからどうなるのかもわからない。
けれど、スカーアは消えた。
外の世界はどうなっていくのだろう。この里はどうなってしまうのだろう。
何もわからない。
「マベラ」
「ん……」
マベラがいる。
それだけでいいとは言えない。
妹たちも、里も守っていかなければいけない。
この先、どんな苦難が待っているのかわからないのに。
「ごめ、ん……レフカ……」
「……マベラ?」
びくんっと、マベラの体が震えた。
瞬間、マベラの体の形が、輪郭が、別のものに変わった。
「っ……」
「……だめ、おさえ……きれな……」
「マベラ、しっかり……どうして、どうしたら……」
スカーアにマベラは何か言っていた。
形を半分覚えたと。
そして、スカーアから漏れた力を吸い込んでいたように見えた。
まさかそんな……
「いや、マベラ……お願い、どうか……」
一瞬だけスカーアの姿に変化して、また戻ったけれど。
苦し気に体を縮こまらせてうめくマベラに、レフカースはどうしたらいいのか。
「半分でも、飲める量じゃないのよ」
静かに、レフカースたちの前に立つ女神。
黒蝶の羽を揺らしながら満月の下で二人を見下ろす。
「あ……」
見上げる。
半分ほどに割れた酒瓶を手にして寂し気に見下ろす女神ノクサリージュを。
反対の手には、ファニアが使っていた黒い刀身の刀を下げて。
「や……やめて……」
「今のノクサなら」
大きい。
いや、おそらくはレフカースと背丈は大差ないはず。
けれど、先ほどまで手の平に乗るほどの小ささだったノクサリージュが、こんなに大きく。
力を取り戻したということなのだろう。
「お願い……お願いです、マベラを助けて……」
「時間がないの」
「いや……いや、いやです。お願いです……」
抜身の刃と、割れた瓶を手にする女神。
あまりに美しい女神からマベラを隠すように抱き寄せて懇願する。哀願する。
もう、奪わないで。
これ以上、何も。
「一万一千百何十二年……ちょうど、レーマたちが開いてから今日までの時間……まさか最後にまだ一万年も持ってくるなんて、どうやったのかしら」
意味のわからないことを言って首を傾げてから、ふふっと笑った。
「ただ時間を食べるだけのノクサでも、得意なこともあるのよ」
「なに……なにを……?」
「あなた」
レフカースの目には、女神の微笑みに悪戯めいた何かが映る。
小動物の反応を楽しむ絶対者の瞳。
「その子のために、全部の時間を捧げられるかしら?」
時間がない。
説明の時間は与えられない。
ただ問いかけだけ。
マベラのために、レフカースの時間を――
「全て。私の全てを捧げます。だから」
「いいわ」
頷いて、刃を真っ直ぐに横に伸ばした。
「その子に愛を与えてくれるなら、誓いが続く限り」
「あ……」
黒蝶の羽が、淡い光を散らしながら揺れた。
女神ノクサリージュが、刀と酒瓶を左右に掲げながら空に浮かび上がる。
「頑張ってね、ノクサの娘たち」
永遠の呪いのような言葉と共に、ノクサリージュの刃が海を断ち切った。
空の海を切り裂いた。
洪水の伝説のように。
海がうねり、渦巻き、吸い込まれていく。
何もかもが。
鬼巫の里の何もかもが吸い込まれて、酒瓶の中に。
何もかもがなくなった後、空にはただ満天の星空と、遠くなった月が静かに輝いていた。
◆ ◇ ◆
「商会を継がれるとお聞きしました」
「ええ、
珍しい。そっちから話しかけてくるとは。
どうしても彼とはウマが合わないところがあった。
お互い尊敬するものは同じなのに、だからこそ張り合ってしまって。
「激動の時代を生きてきました。このあたりでのんびりしてもらいたいと思っています」
「陛下も、玉座を退かれるとか」
「その呼び方、またおじさんに嫌がられますよ」
「混乱した世界を治めるのには立場も必要です。その辺り、陛下にも自覚がない」
生まれ育ちのせいなのだろう。
どうしても堅苦しい。
苦手な相手だ。
「ご自身を暫定王などと……救世の英雄ともあろう方が」
「そんな性分じゃないんですよ、おじさんは。右流伯と左潮伯に押し付けられて迷惑だっていつも言ってます」
「引退後はどうなされると?」
「
「そうですか」
かつて焼き払われた森があった。
焼け跡にはまた緑が戻り、若木が育ち、その近くに戦災で行き場を失った人々の町ができた。
新トローメ政府も復興施策として協力し、この十数年で立派な町になりつつある。
「僕は、行ったことありません」
若木に呼ばれるように鳥が集まり、人が集まり、いつも歌声が聞こえるような町。
トローメの新たな聖地として挙げられる場所だ。
「自分は
「ですか……」
法衣を揺らして顔を伏せる少年……いや、少年だったのはだいぶ昔のこと。
お互いに、あの世界の終わりからだいぶ年を重ね、青年期さえもう過ぎた。
「……師も、そこで彼と出会ったと。これまでどうしても足が向きませんでしたが」
「へえ」
師に縁の場所なら真っ先に訪れたいものではないのか。
よくわからない。
「仁道教の大司祭様でも歩いていない道があるんですか」
「僕は大司祭なんかじゃありません。やめてください、クルサド」
「はいはい、すみませんでしたデフィロ小司」
他人には王の立場の自覚みたいなことを言って置いて、本人はこれだ。
大災厄後、心の拠り所を見失った人々に明かりを灯した少年司祭。
ジルボン師という人の教えを広め、崩壊しかけていたトローメの人々の心を繋いでいった。
人は誰も弱いもの。迷い、悩むもの。
迷った時は、自らに恥じない道を選ぶようにする。
それだけで後悔は薄れ、生きる自信になるからと。
難しくない教えのためか、困窮した人たちの間で一定のルールとして浸透していったらしい。
ジルボン師に救われたという人々と、少年司祭デフィロにより、今ではトローメを越えて広く親しまれている。
「僕のことよりも、クルサド。そちらです。イーペン氏の後継となると、君も相当な責任を負うことになります」
「こっちは半分ずつにするんで」
「半分?」
人々が救いを求めていたのは間違いない。頼れる柱が必要で、世界を救った英雄として暫定王はなくてはならない存在だった。
ただ、人には向き不向きがある。
金勘定や人の使い方について、イーペンは存分に能力を発揮した。
「僕が継ぐのは商会だけです。医療協会の方はプレヴラが担当なんで」
「彼女が……」
「しっかり者ですよ、あれは」
エクピキ教が独占していたトローメ国内の医療機関についても、制度の見直しと整備がされた。
それらの多くもイーペンの差配によるものだったが、経済界の重鎮が医療も抑えては偏り過ぎる。
国もようやく落ち着きを取り戻してきた。
ここらで区切りをつける必要があるだろうと。
「そうですか……」
「時代が変わるってことでしょ。変わっていかなきゃならない。いつまでも悲劇の後ってわけにはいかないんですから」
大きな災厄があり、惨劇があった。
世界中に爪痕が残っている。
たくさんの人が死に、その後も混乱でさらに死んだ人もいただろう。
帰ってこない人のことを思えば、今でも胸が苦しい。
「……アユミチさんは」
「……」
「君を、誇りに思うでしょう。クルサド」
驚いた。
デフィロとは、少年時代から何度か顔を合わせたことはある。
イーペンの顔なじみとも知り合いで、混迷する人々を治めるのに協力関係にあった。
けれど、ウマが合わない。
アユミチがどんな男だったか、共通の知人について語り合うとつい喧嘩腰になってしまう。
クルサドが喧嘩する相手というのは珍しかったが、デフィロに近い者たちもそんなデフィロは珍しいと言っていた。
アユミチがどれだけ素晴らしい男だったか。
知性に溢れ勇敢で、誇り高くかっこいい男だったのかと互いに熱く競うように語り合う。
そんなクルサドとデフィロを見て、暫定王は軽口や茶々を挟み、イーペンは苦く笑い、コニーさんや他の大人たちも曖昧に濁していたものだ
まあ、少年時代から今に至るまで、クルサドとデフィロの関係はそれほど良好だったとは言えない。
そのデフィロの口から、まるで降参宣言のような言葉を聞かされる。
「いや……それを言うならそっちでしょ。アユミチさんはジルボン師のことをすごく頼っていたって言うし」
「もちろん、ジルボン師については僕が一番弟子です。それは間違いない」
いつものデフィロだ。
人が変わったわけではない。
「とにかく。今後も、アユミチさんに恥じないよう精進するといいでしょう。私利私欲に走るようであればアユミチさんでなくとも僕が叱りにいきます。ええその時はもちろんよろこんで」
「あのさ……いや、言いたいことはわかったけど」
なんだこいつ、友達いないのか。
思ったけれど口には出さない。クルサドはイーペン商会を継ぐのだ。商人として口に出す言葉は選ぶ。
「別に、いつでも来ればいい」
「……」
「歌森にも店がある。おじさんの市長就任に合わせて当分はそっちにいるから」
だから、つまり。
「たまには、顔出せってことだよ。メシと寝床くらいは用意する」
「……そうする」
つらい過去をいつまでも引きずることはないけれど。
でも、たまに昔を振り返って友達と語り合う時間くらいは悪くない。
アユミチや姉が守り、つないでくれた今日なのだから。
「じゃあ、またな」
「ええ、また」
かつて少年だった二人は、別々の道を。
けれど今も同じ星を見て歩いているのだと、それが心強く嬉しくて。
◆ ◇ ◆