法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて   作:大洲やとこ

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7-91.エピローグⅡ

 

「山を下って沢を重ねて、里を潤し果ての谷まで」

 

 六十七の山々から流れる川は、それぞれの里に恵みをもたらし、やがて果ての谷へと消えていく。

 谷の向こうは世界の果て。

 辿り着いた水は霧となり、空に昇って雨を降らす。

 洗い物を手伝いながらわらべ歌を口ずさむ母と子と。

 

「水は偉いんだって。先生が言ってた」

「そうね、みんなを守って命をくれる大事なものよ」

「うん」

 

 里は水に守られている。

 果ての外から恐ろしいものが来ないように。

 火を噴く御山と連なる山々、流れる川と豊かな森。

 里の暮らしをずっと見守り育んでくれる、女神が下さった恩寵。

 

「ねえねえ、また海で遊びたい!」

「ずいぶん気に入ったのね」

「だって、川にいない生き物いっぱいだったんだもん。いいでしょ? 次いついける?」

「さあ、どうかしら?」

「あした?」

 

 思い出したら止まらなくなってしまったのか、うずうずと拳を握って急かしてくる。

 確かに、海の生き物は独特だ。

 塩も取れて、これもまた里の暮らしに欠かせない恵み。

 子供の我がままをなだめようと思いつつ、自分も海は好きなのを思い出して言葉に迷った。

 

「そうね」

「明日はだめだ。海に近づかないよう言われている」

 

 風呂を焚いていた愛しの細君(おくさん)が会話を聞きつけて口を挟んだ。

 

「あら、どうして?」

「なんでぇ?」

 

 天気が悪い様子はない。

 畑仕事も里の用事も急ぐものはない。嵐や収穫期でもなければ、里の時間はのんびり過ぎていくもの。

 気ままに央里まで出かけるのもできなくはないはず。

 

「満月の明日は海に行かないようにと。守女衆からのお達しだ」

 

 風呂焚きと洗い物を終えたそれぞれ、お疲れ様と抱擁しながら頬に唇を当てる。

 むうっと拗ねた娘を抱き上げ、母同士の間に挟んでむぎゅっと潰して。

 

「守女衆から?」

 

 海は誰のものでもない。

 皆がそこで遊び、恵みを得て生きる。

 特別何かがない限り、守女衆でも勝手に出入り禁止など言い渡す権限はない。

 

「なにかしら? 大鯰の気配でも?」

 

 幼い頃、海にナマズに似た巨大な生き物が現れ、漁に出ていた船を飲み込んだ騒ぎがあった。

 どこから入り込んだのか。

 海の底から現れた魔物。

 山の果てと同じく、海の底の向こう側から。

 静かな里を震わせた大事件だったからよく覚えている。

 

「おおなまず?」

「違うよ、そうじゃない。心配ない」

 

 里の外には恐ろしいものがいる。

 海はそこに繋がっている。

 

「春の満月だ。鬼巫様の最初の月で、海で過ごしたいと白鬼様がおっしゃったらしい」

「白鬼様が……」

「ん?」

 

 少し驚いてしまい口元に手を当てると、娘が不思議そうに顔を覗き込んできた。

 

「知ってる、とっても尊い方でしょ?」

「ええ……そうね、とても尊い方。あの方が何か望まれるなんて珍しい」

「だから守女衆もお二方だけで過ごせるよう、特別にと……今、海の話が出るまで忘れていたけど」

 

 里の集会か何かで周知があったのだろう。

 央里に行く予定も、まして海に行くつもりもなくて伝えなかったようだ。

 

「じゃあ明日はダメね」

「えぇぇ、行きたい行きたいー」

「白鬼様のお願いなんだ。明日は我慢しよう、ね」

「むぅぅ……」

 

 

 先の大鯰を退治したのも白鬼様だった。

 里の守り神である鬼巫様をお守りする尊い方。

 満月以外の日は、山々や里を見て回り、堤(つつみ)を直したり畔を整えたり、様々な雑事をしているのを見る。

 危ない箇所の修繕を優先しているようで、あまり子供の目には触れないか。

 

「なんでぇ?」

 

 まだ納得がいかない様子の娘を畳に座らせて、婦婦二人で間に挟んだ。

 

「満月の日は、白鬼様が鬼巫様と過ごせるたった一日の時間だからよ」

「私たちみたいにいつも一緒にいられないんだ」

「いられない?」

「そう」

 

 誰より強く想い合っているのに、共に過ごせるのは満月の日だけ。

 

「満月の日だけ、鬼巫様は人に戻るの。人だった頃の鬼巫様に」

「神様なのに?」

「女神ノクサリージュから里を預かった鬼巫様は神様になった。この里の守り神に」

 

 ずっとずっと昔の言い伝え。

 母の母の、その先ずっと遠くの母から聞かされてきた。

 同じだけの時間を、鬼巫様は守ってくれている。これからもずっと。

 

「だから里の者は鬼巫様に愛を誓う。皆、成人したら必ず」

「うん」

「白鬼様は、満月の日に人に戻る鬼巫様の伴侶なのよ。三年に一度、最初の満月のたびにかき消されてしまう鬼巫様に、人だった頃の思い出話をしながら、新しい里の思い出を育むの」

「最初の満月?」

「三年に一度、閏月の満月は里の始まり。暦の読み方はまた手習い塾で教わるよ」

 

 満月の日に人に戻る鬼巫様。

 白鬼様はそれを迎え、ひと月分の想いを重ねる。

 守り神である時の鬼巫様は愛に渇いていて、里の女たちが順番にそれを埋めているけれど。

 その一日だけは白鬼様のもの。

 

「最初の満月にかき消されちゃうって、なに?」

「忘れてしまうの。里が始まってからのことを……鬼巫様でいる時のことも覚えていないと聞くわ」

「じゃあ……」

 

 言葉に迷う娘。視線が宙を左右して、困ったように俯きがちに。

 

「……白鬼様、かわいそう」

 

 どれだけ愛を重ねても、三年過ぎたら真っ白に。

 それでも鬼巫様と寄り添い続けることを選んだ白鬼様は、鬼巫様と等しく尊く敬われている。

 もうずっと、気が遠くなるほどずっと、彼女は続けているのだ。

 

「その白鬼様が望まれるんだ。海はまたにしよう。いいね」

「うん……」

 

 央里の中央には世界でただ一つの海がある。

 南北に半里(約2㎞)、東西に一里(約4㎞)ほどの箱海。

 岸近くは浜や岩場だけれど、少し進むと底のない深さに沈んでいく。

 海の底の先には、人の生きられぬ死の世界があるのだとか。

 

「今度、白鬼様にお花の冠作ってあげる。鬼巫様の分も一緒に」

 

 白鬼様の貴さを子供なりに感じたのか、顔をあげてそう言った。

 

「忘れちゃっても、お花が残っていたら少しだけ寂しくないでしょ」

「……そうね」

「きっと喜んでくれるよ」

「うん、明日作る」

 

 鬼巫様、白鬼様。

 あなた方が守って下さった里で生まれた子です。

 これが、あなた方が守って下さった里です。

 いつまでも、穏やかに寄り添っていられる日々を。

 母娘三人で額を寄せて、優しい時間への感謝で涙が零れた。

 

 

  ◆   ◇   ◆

 

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