法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
――ジーナの娘ミーナ。
そう言ったつもりだったけれど、ジナミナと聞こえたみたい。
気が付いた時には船に乗っていた。幼いながら腕力だけは大人よりずっと強く、風を見る勘も抜きんでていた。
船で働く奴隷として、帆を張ったり網を引いたり。
不気味な子供だと皆がいう。
網にかかった魚を生で骨ごと食らうジナミナを見て笑う。
売り物にならなそうな魚を丸ごと食うから、あまりひもじい思いをした記憶はない。
ある日、船に他国の兵士が乗り込んできた。
腕に巻き付けた鎖でそいつらを殴って潰して、気が付いたら全部いなくなっていた。
救援に来た兵士たちに名前を聞かれて答えた。
ジーナの娘ミーナ。
おい、とか、お前とか。そう呼ばれる以外に持っていたたった二つの名前。
他に何もない。
ジナミナはその日からジナミナになって、奴隷からトローメの水兵に役目が差し変わった。
海に愛された子だと。ジナミナをそんな風に呼ぶ者もいた。
◆ ◇ ◆
素足に簡素な服だけ。
町で見れば貧民の小娘としか思わない風体。
この娘は自分の最大の強みが身軽さであることを知っている。
滑車で巻き上げた大矢の威力はすさまじい。
力自慢の大男が振り下ろすハンマーより強いそれを、こともなく叩き落した。
片手の一発で水兵を甲板から海に叩き落した。
大矢に匹敵する一撃を繰り出す拳と、小リスのような身軽さ。短期間で敵味方に名を轟かせるだけのことはある。
メムナーンも借金奴隷だった時期がある。
若い頃に賭け事でバカをやって、命を切り売りすることになり、意外と得意なことに気づいた。
優秀な傭兵となった後も賭け事に弱いのは変わらない。
弱いくせについ手を出してしまう。今までの負け分が反転するんじゃないかと。
ホスバルドルの港町でまた
――右端の一枚を山の一番上と交換です。
手札を見もせずに偉そうに。
賭けタネもないメムナーンは、また命がけかと思っていたところだ。
言われた通りに引いた。
勝った。
後で聞いたら、あれはノアカッセが自分の運を試しただけだったそうだ。
こいつとならうまくやれそうだ。
ノアカッセの右腕として働くようになり、もう十年近くになる。
国の偉いさんの妾腹らしい。少しばかりのコネと海賊退治の成果で成り上がってきた。
「邪魔」
「うぉっ!」
波でやや傾いた甲板を素足で蹴って、時間が消し飛んだようにメムナーンの目の前に鉄球があった。
瞬間移動でもしたのかという速さ。
当たれば顔が潰れる右拳が正面から。それを避けても斜め下から脇腹を陥没させる左拳。
手数をかけず短時間に敵を処理する。そういう戦い方が染みついている。
「っとぉ!」
「っ」
仰け反りながら目の前の鉄拳を左手で払い、反対の曲刀で脇腹をえぐろうとしたジナミナの手首を切る。
空振り。
一瞬で見極められ、左拳を引いた。
と同時に、つむじ風のような左回転。
「ぐっそ」
左拳を引きながら回し蹴りが飛んできた。
先の鉄拳を払った左手を盾にして受け止めるが、大きくぐらつく。
メムナーンの骨が軋むほどの威力。小娘の見かけでこれは本当に化け物だ。
「
海では海の言い伝えにまつわる魔法の方が使いやすいのだとか。
ノアカッセが振り上げた
蹴り飛ばされたメムナーンの後に残ったジナミナを、鯨の腹で圧し潰すように。
「む」
上から被さってくる巨大な団扇のような水面。
ジナミナは足を止め、膝に力を溜めてそれをぶん殴った。
どぐん、と重い音。水で作った面を殴ったとは思えない低音と共に、船が大きく傾く。
粉々に散った水しぶきがメムナーンの頬も濡らした。
「魔法つかい」
「腕が折れませんか」
ノアカッセが仕込んでいる
短い詠唱で使えるように、血文字で書いた呪符を溶かし込んだ特別製。
唱えた通り、大鯨のボディプレスのような威力だったはずだ。
「ん」
大きく揺れた甲板でジナミナの足が止まった。
表情には現れないが、今の一撃が全く無効ではなかったらしい。
「邪魔」
魔法使いが敵に入るのは厄介なものだ。
ジナミナがそう判断して、仕切り直した踏み足でノアカッセを狙うのは当然。当然、そう来ると読んでいる。
左手は別の瓢箪の栓を抜いていた。
「次は」
「んっ」
降り掛けられる水しぶきを大きく避けるジナミナ。
どういう魔法が仕掛けられるか予想できない。安全の為には大きく避けるしかない。
左手でまき散らされる
「足元だ」
メムナーンの曲刀が、甲板に着く瞬間のジナミナの足を切り払った。
するりと、足をひっこめた空間をすり抜ける曲刀と、ほぼ同時に叩き込まれる掌底。
「んべっ」
メムナーンの左の掌底が叩き込まれる。
空中で姿勢を崩したジナミナは避け切れず、頬が歪むほどの威力で吹っ飛びマストにぶつかった。
「
最後の
捨てられた女が人知れず泣き、男や女を殺すように。
声が出ない。息ができない。
どんな英雄だろうが呼吸が出来なければ死ぬ。
「ナイスだノア!」
魔法の水は保存容器などの都合で二本だけ。他はブラフのただの水。
その二手で敵将を仕留める必要があった。
メムナーンとノアカッセの連携で――
「提督! 来ます!」
戦っている間も船は進んでいる。
船首をわずかに掠めて右舷同士を擦り合わせるように、
「乗り込め野郎ども!」
「トローメのグズなんぞ返り討ちだ!」
飛び乗ってくるトローメ兵と、迎え撃つノアカッセの部下たち。
ノアカッセ直下の水兵は、トローメの海軍にも引けを取らない練度だった。押し負けることは――
「ノアぁ!!」
「むぅ!?」
メムナーンの怒声がなければ死んでいた。
ぶつかり合っている右舷側に意識を割き、だからと言ってジナミナから目を逸らしていたわけではない。
それらと逆。
まさか船首が掠った隙に、左舷に取り付き、猿のように船べりを渡ってくる敵兵がいるとは思わなかった。
「ちぃ残念」
大上段から振り下ろされた短剣を瓢箪のくびれで受け止めた。
「お嬢、ちょいとごめんよ」
二人。
双子。
船べりから飛び出した一人がノアカッセを背後から斬りつけ、別の一人がマストの下で悶えているジナミナに片手をかざす。
「いたずら妖精逃げ出した。
ばしゅん、と。
ジナミナにかざした手が光ると、顔を覆っていた水蛇が崩れて散る。
呪い返しの童謡を使う魔法使い。
「ご苦労弟、お嬢は無事かい?」
「平気さ弟、お前はどうだい?」
互いに弟弟と呼びかけ合う。どっちがどっちだかわからないが。
瓢箪と短剣で押し合うノアカッセと敵の青年。
「ノア、すまん!」
「おっと」
遅れたメムナーンの剣閃をひょいっと後ろに躱して、軽く肩をすくめてみせる。
勝負にこだわるつもりなどない様子。
「悪いな弟、俺は逃げるぜ」
「いいって弟、こっちも逃げるよ」
「くそが、簡単に逃がすかって」
ジナミナを救出に来た双子の用事は済んでいる。
ノアカッセが魔法に集中していれば簡単に解除されなかっただろうが、さすがに背後から斬りかかられて集中が解けた。
まだ咳き込んでいるジナミナを担いで、ひょいひょいと右舷に向かって走り去っていく片割れ。
もう片方は、メムナーンにべぇっと舌を出してから、左舷の船べりに身を躍らせた。
また猿のように船の縁を掴み、するすると船尾側に。
「お嬢は無事だ! 野郎どもも戻れ!」
「おぉ!」
敵船からの号令に、右舷から飛び込んできていたトローメ兵も次々に戻っていく。
船が進んでいるせいで明らかに乗り遅れて海に飛び込む者もいるが、敵船の船尾から縄が投げられていた。
勝手に掴んで上がってこいということだろう。
「無理に追うことはありません! 舵を左に!」
船がすれ違うわずかな間だけの攻防。
双方、大きな損害を出しているわけではない。
敵将を捕らえるか討つことができればよかったが、仕方がない。
「いいのか、ノア?」
「目的は果たしました。少し欲を掻きましたね」
魔法の水を仕込んだ瓢箪の傷を見ながら、軽く溜息をついた。
「
「お前さんがいいならそれでいいけどな」
トローメの海域で接敵して、海将ジナミナを討つ直前まで善戦した。
その上で被害なしで戻れば、上への義理は果たしたと言っていいだろう。
戦勝と喧伝したっていい。
「あの帆なら追いつかれることもないでしょう。味方と合流して戻ります」
叉波王は戦えない。
そうとわかればホスバルドル海軍にも動きようがある。
ジナミナは海に愛された子だと言われる。
ノアカッセもまた、海に愛された男と呼ばれていた。
◆ ◇ ◆
あとがき
次回からはのんびり更新です。
北部、南部の争いもそのうちアユミチと関わっていくことになります。