法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
アユミチが戻ってこない。
これまでとは事情が違う。東の集落に行っただとか神様に報告に行ったとかではなくて。
捨て森の奥側で異変があって、それを確認に行ったアユミチが帰ってこない。
いつも一緒だった黒蝶だけが帰ってきて。
『たしかに、どうしようもなく不吉よね』
黒蝶は不吉の兆し。
そう言われるのはわかる。身に覚えもあるし、別にいい。
大事にされたら気持ちが悪いくらい。
とはいえ、何もできないもどかしさもある。
残された人間たちの不安、苛立ちは見てわかるくらいに増して、溢れて、嫌な雰囲気が満ちていく。
かつてのフォティゾの信者たちみたいに。
「なんでアユミチ様を探しに行かないんだ」
「私は探しに行くべきかと存じますぞ」
「アユミチ殿が来るなと言っていたと、あの黒蝶が」
「喋ったわけじゃないのに」
「すぐに探しに行くべきでは?」
カヨウ、ユィッヒ、イーペンやプレヴラの母コニーは、探しに行くべきだと。
ファニアはノクサの伝えたことを理解し、でも本心は探しに行きたい。
なぜ行かないのかと言われて、ノクサのせいみたいに言っているのは仕方ないとして。
「来ないようアユミチが黒蝶に伝えたのは事実でしょう。わたくしもそう見ました」
「だけど状況が変わったかもしれません。アユミチさんが危険な目に」
「ヘレボルゼの危険を見てきた身からすれば、歩いて行ける距離で平気で暮らしているお前たちの言動がおかしく見える」
「人食い熊が近くに居ついたくらいにゃ騒いでよさそうなもんだぜ、ありゃあ」
アユミチの妻を称するゼラは、今はこの集落の長みたいな立場。
夫の言う通りにと言うゼラにカヨウは反発し、実際にヘレボルゼに襲われてきたテノンとマーチスは近づくべきじゃないと首を振る。
ノクサも兵士たちと同意見だ。
あの触腕は人間には大きな脅威だろう。それこそ大熊に殴られるより凶悪な攻撃が、この集落の端っこから端まで飛んでくるような感覚。
明らかに伸びてきている。もっと伸びるかもしれない。
人間はノクサほど機敏ではないから、当たれば頭でも臓腑でも潰れる。
魔獣だからそんなものだとしても、攻撃範囲がよくわからない魔獣の近くで暮らしたいかと言われれば。
東側の集落は、ここより森の外側に近かった。
あれくらい虚穴から、森の中心から離れていたいのが普通だと思う。
「ヘレボルゼが暴れるなんてなかった……虚穴の霧だって、すぐ近くに死体を置いておけば知らない間になくなるって」
過去にはずっとそうだった。
だから、虚穴に近づきさえしなければ問題ないはずだった。
「やっぱり何か……変わっているんです。アユミチさんを探しに――」
「嬢ちゃん、気持ちはわかんだがちぃと落ち着け」
それまで黙って森の奥を見ていたムンジィが、焦るカヨウの言葉を遮る。
反論しかけたカヨウに手の平を向けて、
「誰が探しに行くってんだ? 日が暮れてきた今、おっかねぇ大魔獣が暴れる森ん中に」
「それは……」
「嬢ちゃんが俺に旦那を探しに行ってくれって言うんならいい。俺ぁ旦那の為に命賭けんのは構わねえし、嬢ちゃんの頼みってぇなら言いつけ破ったって許してくれるだろうよ」
へえ、と。
ノクサにはちょっと面白い。
真っ先にうろたえて余計なことをしそうだと思っていたのに、案外と肝の据わったことを言う。
「だから嬢ちゃんが俺に言うならいい。探しに行く」
「いつもよりイイ男っぷりじゃない」
「茶化さねえでくれよ」
ノクサと同じ感想を口にしたアスパーサに、へへっと照れ笑い。
「ファニアのあねさんや奥様は駄目だ。もちろん嬢ちゃんも。なんかあれば旦那に顔向けできねえ。こんな俺の顔でも、できりゃ潰さねえでやってくれや」
「……」
探しに行けと言うけれど、じゃあ誰が?
カヨウは自分が行くと言うとしても、そんなこと誰も許すわけがない。
行くとすれば、ファニアかムンジィか。危険に対応する能力ならファニアが図抜けている。
けれどファニアを危険な目に合わせればムンジィの顔が立たない。
「俺ぁこの中じゃ旦那と一番つきあいが長ぇ……ああ、蝶々さんはもっと長いんだが」
ううん、そっちの方が長いと思うよ。ほんの少しだけ。
伝えようもないのでひらひらと飛んで見せた。
「旦那が渇きの王蠍をぶっ潰したとこも見てんだ。ヘレボルゼがなんぼのもんよ」
「王蠍だぁ?」
「……」
「疑うなら見てくんだな。まだ崖下に残ってんだろ。そんな度胸がありゃあビビって逃げ込んできたりしねえか」
兵士たちが呻く気持ちもわかる。
あんなの人間が倒せるものじゃない。月光が弱点とは言っても、月明かりが昇れば地中の奥深くに潜ってどこにいるのかわからないのだから。
「旦那が来るなって言うならそれが正しい。俺ぁそう信じて待つのがスジだと思ってんだ」
「そう……です、ね。ごめんなさい」
「わかってくれりゃあいい」
カヨウも王蠍の死骸は見ていた。
この辺りでは伝説級の大魔獣だったはず。それを倒したアユミチが、ヘレボルゼの暴れる森に入るなと伝えてきた。
行けば足手まといになる。無駄に犠牲を増やす。
説得したのがファニアやゼラ、アスパーサだったのなら、カヨウは反発しただろう。
このくらいの年齢の少女で、まして恋敵と目している女の言うことなど、たとえどれだけ道理が通っていても聞き入れたくないはず。
なんなら、こっそり自分だけ抜け出すことさえしたかもしれない。
それで命を落としたらアユミチがどれだけ悲しむか、わからないはずはないのに。
恋する女は馬鹿なのだ。
ノクサはそれを知っている。痛いほど、千切れるほど知っている。
今、ムンジィが諭してくれたのは結果的に良かった。
あとでアユミチに教えてあげよう。
アユミチに褒められて照れるムンジィの顔を想像して、くすっと笑いが漏れた。
「不安になる気持ちはわたくしも理解しますが、今の通りでしょう」
一番探しに行きたがっていたカヨウがしぼみ、結論が出ただろうとゼラがまとめる。
もう少し無軌道に荒れるかと思って見ていたけれど、なんなら犠牲者が出るかと思っていたけれど。
ノクサが思ったより丸く収まった。
かつてのフォティゾの信者たちとは違う。
「黒蝶、黒アゲハ。あなたにはアユミチの無事がわかるのでしょう?」
最後に確認するように呼びかけられては、返事をしないわけにはいかない。
ノクサには契約者のアユミチの存在がぼんやりと感じられる。
命の危険に差し迫っている様子はない。
『ええ、無事よ。だいじょう――』
声は聞こえない。だから。
くるりと、縦に大きく宙返りして。
『――っ?』
いやちょっと、アユミチ?
なんで宙返り終わり際にぷっつり切れちゃうのよ。
無事だと確信して安堵が広がる人たちに背中の羽根を向け、陽が落ちかけている森の奥を見やった。
◆ ◇ ◆
「う、ぁ……」
意識が混濁する。
白濁、と言った方がぴったりくるようにも思う。
なんて考え、とにかく思考がまとまらない。
何があったんだったか。
何をしていたんだったか。
体が重い。
目の奥も重い。脳が重い。
首筋、延髄あたりの血流の悪さを感じて首をひねる。
寝返りを打ちたい。だけど体が重い。
「んぁ……」
「目が覚めましたぁ?」
体が重い、のではなくて。
右半身全体に、ふにゃふにゃなクッションのような重みがあった。
「死んでいなくてよかったな」
左から、淡々としながらも安堵の混じった吐息が。
柔らかな温かさを感じる右半身と、なめらかな心地よさを感じる左半身。
肌ざわり。
肌ざわり?
「え、あ……?」
「捨て森の霧に飛び込んじゃって、死んじゃったかと思いましたよぉ」
「まったく、何のためにここまで……」
右手にも左手にも裸の美女を手にした、最高の目覚めのはずだった。
状況がちんぷんかんぷんで、ただ瞬きを繰り返すだけだったけれど。
◆ ◇ ◆