法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
「本当に攻撃してこないな」
「あんまり近づきすぎないで下さいねぇ」
後ろのビッテスの言葉に頷きながら、無言のリグラーダと共に慎重に近づく。
虚穴から伸びる緑色の触腕に。
「……」
以前は白い霧しか見えなかったという。
東の集落から近い虚穴。
「ゆらゆらしているだけ……か」
白い霧から伸びる薄緑の触腕。見える限り六本、アユミチの背丈と同じくらいの高さ。
なんというか、アスパラガス……ツクシ……竹のように林立し、ゆらゆらと。
斑徂症の男は、これを見ていたそうだ。十数日、そこらの雑草のような草などを噛みながら。斑徂症の苦痛を紛らわせてくれる草。
今までなかったものが虚穴から伸びてきて、だんだんと長く、ゆらゆらと。
どうせ死ぬと諦めてここに来ていたが、見ているうちに気味が悪くなった。
このわけのわからないモノは、男になんの興味もない。関心がない。なのにだんだんと伸びて、気が付けば届きそうな長さが虚穴から這い出てきている。
じりじりと、ゆっくり這い寄る。
そうかと思えば数日前、思い出したように突然、辺りを殴り始めた。
ものすごい力で、男のいる場所とはまるで違う方向を。
しばらく暴れてからおとなしくなった。
いまさら死ぬのが怖くなり、集落に向かった。
そこにアユミチ達が訪れたということだ。
「こっちを見ていないってことか」
そっちが背中だから、というアスパーサの伝言を理解する。
ヘレボルゼにとってこちらは死角。振り向いたりしないのかとも考えるが、少なくとも今は背中側。
伸びているこれはヘレボルゼの末端で、本体はこちらを見ていない。
どうやらアスパーサの予言は正しい。
向こうのことは心配いらないという
ステンを送り出すための形式的な挨拶かと思ったが、今思い返せばこの状況をなんとなく予想していたようだと。
どこまで見通しているのかわからないが、彼女の言葉が正しいのなら助かる。少し気持ちが落ち着いた。
「ずいぶん前に死体を確認した奴がいたそうです。虚穴の近くに置いといたら、夜中にずるずる引きずり込まれて消えたって」
「そういう話はもっと早くするでおじゃる」
「今までみんなで話し合うような時間は……そんな余裕、なかったし」
東の村の住人の一人、ネクテフがジルボン師に言い訳のように訴えた。
虚穴の様子を見に行くとアユミチが言えば、一人で行かせるわけにはいかないとなる。
ビッテスは、このままでは帰れないのだから行動するしかないと。
ステンとマノウズも同じく。アユミチの役に立たなければ、という気持ちも強い。
ジルボン師は皆でアユミチを守るでおじゃると声をあげ、病気明けの大人数など逆に困ると首を振った。
「アユミチ様! 上からも何にも見えません、真っ白です!」
「ああ、ありがとうナーリヒ。気を付けて降りてきてくれ」
大きな声を出すと、六本の触腕がゆらりと揺れて、しかしそれ以上は何もない。
小さな体でするすると木登りして、上から虚穴を観察してくれた少年が、よ、よっと降りてくる様子をやや不安な気持ちで見守った。
東の村から、かつて労役で警備兵を務めたことがあるから、と名乗り出たネクテフとボイター。
それと、今ほど上から観察してくれた少年ナーリヒ。
子供は駄目だと言うアユミチに、もう元気になった役に立てる木登りが得意だから、と。
必死で訴え、それでもうんと言わないアユミチではなくジルボン師に願い、ジルボン師が素晴らしい気構えだと認めてしまった。
様子を見るだけ、近づかない。危ないと思ったら他の何も考えず村に逃げること。
約束を守れないなら連れて行かないと言い聞かせ、さあ出発となったら、ナーリヒはジルボン師に
――行きましょう、ジルボン様。
え、来るの?
誰もが思ったのだろう。ジルボン師自身も。
しかし、アユミチとジルボンを純真な目で見つめるナーリヒに、麻呂の傍を離れるでないぞと言ってジルボン師も歩き出した。見栄っ張り、ええかっこしいなのだ。
どうするかな、とも思ったが、ジルボン師にはこの村のまとめ役をしてもらっている。威厳は必要だ。
後ろを歩かせて、ナーリヒの安全確保を最優先にしてもらっていればいいでしょうとビッテスに言われ、消極的に認めた。
「見事な木登りでおじゃる」
「へへ、僕小さいから」
降りてきてジルボンに褒められて、照れ笑いを浮かべながらアユミチに、
「霧の大きさは、やっぱり家くらい。こっちに伸びてる六本の他には見えませんでした。隠れてるかもしれないですけど」
「そうか」
「あと……なんだろう。真ん中辺だけへこんでるみたいな……上から見ると、そんな感じでした」
「真ん中だけ……わかった、ありがとう」
アユミチに報告してくれるナーリヒの肩を軽く叩いて礼を言う。
実際に大した身体能力だった。子供ながらの小柄さもあって、木登りは達人級と言っていい。
貧民の家に生まれれば引きこもってなどいられない。畑仕事の手伝いやらなんやら普段から体を使う。
栄養状態の問題はあるにしても、子供と侮ったものでもない。
「真ん中あたりに何かある?」
「ですけどこの霧、風が吹いても関係なさそうですよねぇ?」
そうだ。風にほとんど揺らぐ様子のない白い霧。
真ん中に何かありそうだと思っても、手を突っ込むには遠すぎる。
「とりあえず見えてる触腕からどうにかするか」
「なら早い方がいい」
それまで黙って聞いていたリグラーダが、ダガーを抜いて前に出た。
虚穴を調査するにしても早い方がいい。そうかもしれないが、判断がはやい。
リグラーダらしいと言えばそうなのだが。
少々迂闊すぎないだろうか。
いや、リグラーダは既に触腕の攻撃を見ている。対処可能と判断したのか。
「おい、そんなに」
「お前たちは近づくな」
足手まといだと言うのも面倒だと言外に匂わせ、左手で軽く石を投げた。
六本、いびつに並んだ触腕の端に。
放物線を描いて、とん。
石がぶつかった瞬間、触腕たちが一斉にそこに向かって猛撃を叩き込む。
見えてはいないが触覚はある。
「おわぁっ!?」
「下がれ!」
狂ったように、地面を抉る打撃で土煙をあげるが、リグラーダはそこにいない。
土煙が上がるのとは逆。反対の端の触腕の根本――根本というのが正しいかわからないが白霧との境近く――にいた。
石を投げた直後に影が走るような速さで踏み込み、人の腕より太い触腕にダガーを当てると、
きん、と。
風を切る音を響かせた。
「すげえ」
切り落とし。
鋭利なダガーと見事な腕。
ぼとりと落ちる一本に誰かの称賛が漏れる。その気持ちもわかるが。
「リグラーダ!」
「ふっ」
即座に反転した残りの五本がリグラーダに突き刺さるけれど、そこにはもう彼女はいない。
また土煙とまとめて霧を散らしたものの、飛び退いたリグラーダを捕らえていない。
それでも彼女の気配を追う触腕の一本を、頭の方だけ切り払う。
強い。
訓練された兵士はこんなに強いのかと思うが、そうではない。
彼女は女でありながら軍人として認められている。普通の兵士より数段格上。一流の実力者なのだ。
おそらく捨て森でヘレボルゼの調査をすることなど、トローメ建国以来なかったのだろう。
遥か昔から死病の捨て森として存在していて、忌まわしい病人が徘徊する場所。禁域以上に忌避すべき森だ。
国にとって脅威でもない魔獣にちょっかいをかける必要もなく、放置されてきただけ。処分場として。
一流の戦士であれば対処不可能な魔獣ではない。禁域の王蠍とは違って。
リグラーダの実力なら、こちらが見えていない様子の触腕など、やみくもにバットを振り回すだけの敵でしか――
「う」
切り裂いた時に顔にかかった液を拭おうとしたのだと思う。
口元に手首を当てたリグラーダの足が、そこで止まった。
「こふっ」
むせるように一息。
嫌な咳をしたリグラーダの顔は赤く、
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