法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
遥か昔からそう呼ばれてきた。トローメ建国よりずっと昔から。
感覚を鈍らせる霧を吐き、捨て森を閉ざす古の魔獣。
トローメ王国にとって捨て森は捨て死病患者を送り込むだけの場所で、魔獣がいるかどうかはどうでもよかった。
巨大な人の形をしたそれを見て、アユミチは古の神の一柱アニラービーだと言う。
アニラービーの吐いた嘘が最初の病を産んだとも言われる。だからきっとそうなのだろう。
神々に疎まれたと伝わり、ポスフォス以上に信仰されることのない神。
捨て森に封じられていた魔獣が、そのアニラービーの現身。
アユミチの敵。ならばファニアの敵だ。
「はぁっ!」
剣を一閃する。
ビッテスの魔法で苦しみ、大地に着いたアニラービーの手を。指を二本。
切断まではできない。だが半ば近くまで切れた。
刃は通る。間に合わせの剣で名刀とは言えないが、それでも。
大魔獣渇きの王蠍とは全く違う。柔らかい。
しかし――
「傷が埋まるか」
指を切ったファニアに向けて強引に払われた手を、バックステップで
烈風が目の前を通り過ぎた。
先ほど切った指の傷は、ぶくぶくと泡立ちながら埋まっていく。
腐っても古の魔獣。腐っても神アニラービー。
この程度では有効打にならない。これまで虚穴でも何度も切ったのだから承知している。
どうすれば倒せるのか見当もつかなかったが、アユミチが示してくれた。
どこかに口がある。
無謀の巨人の顔だが、どこかに。触腕の先端にあったような口からはみ出した舌が。
そこが弱点だと言うのなら探して切る。
だが、暴れる右手、右足は脅威だ。一薙ぎで森の木々をまとめてなぎ倒す猛撃が、烈風のごとき速度で迫るのだから。
「焦るな!」
怒鳴り声を聞き、咄嗟にさらに二段、バックステップする。
振り払い、戻ってきた巨人の手がファニアのいた場所を薙ぎ払い、ついでに地面をめくり上げて砂ぼこりを立てた。
踏み込むか、口を探すのに気を取られていたら巻き込まれていた。
暴風、竜巻のごとき土砂混じりの風から小盾で顔を守りながらさらに退く。
視界が悪い。
敵の動きが見えない。口を探すどころではない。
「こっちだ!」
先ほどの怒鳴り声と同じ、リグラーダの声が響く。
彼女の声がなければファニアは致命的な一撃を受けていただろう。アユミチの剣としての焦りと、さすがに巨大な敵を前に冷静でいられなかった。
口惜しいが、一人で戦えるような相手ではない。
土煙の向こうで、巨大な腕が上に振り上げられるのを見る。
その腕にささった小さな棘のような矢までは見えなかったが、リグラーダが注意を引いた。
「ちぃっ!」
振り下ろされる腕は、横に払うより速く、重い!
羽虫でも潰すようにリグラーダを叩き潰そうと振り下ろした巨大な手を、彼女はすんでのところで躱すが――大地が揺れた。
「続くぞ!」
今度はファニアが叫ぶ。
地面を叩いた手が、すぐに振りあがる。
揺れた地面で思ったように跳べなかったリグラーダに、
「すぐだ!」
「くっ」
連撃の二撃目は、大きく振り上げなかった。
ただの獣ではない。
軽く戻したところから再度の叩きつけ。それもリグラーダの逃げる方向を追って、捕らえる。
巨人からすれば、軽く。
だが人間からすれば大岩が落ちてくるような攻撃が、頭上に。
「
荒波にも暴風にも揺るがぬ巨岩が立ち上った。
リグラーダを潰そうとした巨人の手を遮り、地響きを立てながらもその一撃を受け止める。
「礼は言わない!」
「不要です」
手を着きながら岩壁の下から飛び出すリグラーダと、ファニアもただ見ているだけではない。
視界を塞いでいた土煙の薄れた中、巨人との間を詰めた。
「ここならどうだ!」
リグラーダに叩きつけをした為に巨人の顎が下がっている。
喉が、がら空きだ。
「ふっ!」
喉笛を断ち切ってやる、と。
飛び上がり振るった剣の感触は、
「む」
ファニアは熟練の戦士だ。剣を振ってきた数は百万の数倍。素振りではない回数でも数万を数える。
当たった感触でわかった。
折れる。
「腕より、硬いかっ!」
咄嗟に刃を滑らせたが、喉を断ち切るまでは至らなかった。小指の半分ほど、巨人からすれば薄皮を切った程度まで。
ただの巨人ではない。アユミチが神アニラービーと呼んだもの。ナマクラで相手は……
「っ」
着地した勢いのまま飛び退くが、反撃はこなかった。
切れなかったファニアよりも、先に狙っていたリグラーダと兵士たちがいる方に向けて、掴み上げた大岩の盾を振りかぶり、投げつけた。
「うひゃあ!」
「ぐぅ!」
走っていたリグラーダの後に、マーチスとテノンが残される。
先ほどはリグラーダを守った大岩が、今度は彼らを潰す凶器として……崩れ散った。
「……へ?」
「む……」
ゼラの魔法の大岩だ。ゼラの手元にあるか、地面と繋がっていなければ形を保たない。
振りかぶり投げつけたが、兵士たちに届くまでに崩れて、ただ泥の粒が彼らに降り注いだ。
それとて嵐の時のつぶてくらいの威力はあったが、防ごうと身構えていた兵士たちからすれば肩透かし。
「くっそ、ぺっべっ! 脅かしやがって!」
「そこから動けんなら」
泥をかけられ、兵士たちの意識が攻撃的に。
地面に縫い留められた巨人。攻撃手段は右手と右足だけで、人間の形状。
脇腹あたりなら腕しか届かない。手だけを警戒しながら巨人の懐に突っ込んでいった。
多少は仕事をしなければならない、という気持ちと、つまらない攻撃に怯えさせられた苛立ち。
巨人が意図したわけではないが、バカにされたと感じたのだろう。
土の魔法を使ったゼラにも、自分だけは泥を避けたリグラーダにも。
「無理すんなユィッヒ!」
「どっかに口が、あんだろ!」
右足の方で戦っているのはムンジィ達だ。
手ほど自由が利かない。四つん這いで姿勢を支えているのだから、最初に引き抜いた後は膝を着いて。
その
足を自由にさせればまた土砂つぶてを蹴り上げるかもしれない。全員が岩壁の裏で安全とも限らない。
無理をするな、と言いたい気持ちはファニアも同じだが、無理をしないで勝てる相手ではない。
やはりどこかにある口、舌を見つけなければ――
「なんだとっ!?」
右手が来る、と思ったのだ。
明らかに今、ファニアを狙うような動きをした。なのに、
右腕の攻撃より先に、上から叩きつけられた。顔が――
無貌の、のっぺらぼうの顔が、倒れ込むようにファニアの上に落ちてきた。
手の叩きつけほどの勢いではないが、覆いかぶさる攻撃で逃げ切れない。
右手の剣を左手の小盾に添えて受けながら後ろに跳ぶが、
「くぅぅっ」
ファニアが手にする小盾は縁や内側が金属で補強されていて簡単には砕けない。
だが、先ほど喉を切り損ねた剣は、折れた。砕けた。
『――――』
「化け物め」
地面に埋まった顔を持ち上げる巨人。刃にのしかかってきた顔には傷ひとつもない。
折れるほどの力で当たったのに、無傷とは。
末端と違って顔や中心部は異常な硬さ。
切ってもすぐに塞がる手足と切れない頭や胴体。こちらの攻撃は痛痒にならず、あちらの攻撃は一発もらえば命に係わる。
魔獣と呼ばれるに足る理不尽さ。
頭から倒れ込んだ時、腕はどうだったのか。
顔面の攻撃を受けたファニアは見えていなかった。
ファニアへの攻撃の予備動作かと思った引き戻した腕は、大きく後ろに……
掬いあげるように、膝近くから脇腹あたりを掻いて、握り潰した。
掴んだ人間を。
「ぎひゃぁぁ!」
「あぶ、ぶぇ……は……」
誰が掴まれたのかなど見えもしない。
しまったと思ったファニアと、その近くに駆けていたリグラーダに向けて。
今度は、散り散りにならない人間だった塊を、巨大な手のスナップから投げつけられた。
◆ ◇ ◆