法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
「
孤児院では毎日神様に祈りを捧げた。
当時は言葉の意味もわからなかったけれど、目にして理解した。
神域と下界を隔てる空と海。見えない緞帳のごとき壁を魔法の力で越えて、呼び出す。
天の海を駆ける勇壮な神の戦馬車を、ここに。
雲の麻糸を引くような車轍と共に。
「行きなさい!」
『BURRYAAAAA』
天を割って現れた、燃えるような
一鳴きすると、空の上なのに力強く
「轢け!」
巨人の姿のアニラービーに負けない大きさで、遥かに美しい足で、輝く神馬が辺りを飲み込んだ。
◆ ◇ ◆
元々、見るからにバランスは悪かったのだ。
仮初の手足。小物に不相応な巨体。
大きく振り上げていた手で、自分を轢き殺そうとする戦馬車から慌てて身を守ろうとすればどうなるか。
倒れた。
尻から倒れ、そのまま背中まですっ転ぶ。
カヨウの魔法、燃える鬣の二頭の天馬が辺りを飲み込み、消えた。
幻術。神の戦馬車の幻姿を呼び出し、アニラービーにぶつけた。
実体はないのだからそれで誰にも被害はない。
運悪く、転んだアニラービーの肩の下敷きになりかけたアユミチ達以外は、誰も。
「助かった、ゼラ!」
遠くでゼラが膝を着いている。
最後の守りの魔法と構えていたものを使い、力を使い果たして。
それだって、本当ならゼラの近辺でしか有効でなかっただろうものを、咄嗟にアユミチが潰されるのを防ぐ為に。
転がる。
目の前に、無貌のアニラービーの顔が。
ゼラの作った岩壁を肩で砕き、横に転がったアニラービーの顔とアユミチ達。
『直視しちゃだめ! 惑わされる!』
目の前で、正面から見るのは初めてだった。
無貌の顔は、人の肌のような色つやをしているくせに流体のような、鏡のような印象。
そこにアユミチ達の姿が映るとどうなるのか。
ノクサの声が聞こえるのはアユミチだけだが、巨人の顔と間近で
「くっ」
「ひぃっ」
妖しく光った。
アニラービーの無貌の顔が……そこに映る、身を守るように掲げたジルボン師の左手。
ジルボン師の左の手の平に、まるでヘソのような穴から顔を出す異形の指。六本目の指。
周囲に小さな模様がびっしりと描かれたそのエクピキの指が、光を放った。
『ピウィィィィィィィィィ!!』
弾けた。
エクピキの光を受けたアニラービーの無貌の顔が、水面に大岩でも放り込んだように大きく弾けた。
無貌の顔が、悲鳴を、確かな音を上げた。
『あはっエクピキだった! それもそうね!』
顔を震わせて絶叫するアニラービーと、ノクサの楽し気な声音。
人間の力は通じないとしても神の力なら通じる、ということか。
カヨウとジルボン師のおかげで生まれた千載一遇の好機。
「ここで倒す! ノクサ!」
『うんっ!』
苦しむアニラービーの巨体、その鎖骨辺りから体に飛び乗る。
そしてそのまま腹へ――
『アユミチ、あぶな』
「見苦しい!」
アユミチを叩き払おうとした右手。それを食らっていたら潰された兵士たちのように死んでいただろう。
だが、裂帛の気合と共に放たれたファニアの渾身の一撃が、アニラービーの太い右腕を切り落とした。
死んだ兵士の使っていた剣。野盗のものより質が良い。
「アユミチ殿!」
「あぁ!」
ファニアの声を背中に受け、力が湧く。
折れない棒を握りしめ、巨人の体の上を駆け抜けた。
へそ、その下に。
小さな、どうやっても隠せない舌がちろりと。
「ノクサ! 三年だ!」
『わかった!』
棒を振り上げ、そのクソみたいな舌の穴に突っ込もうと――
「っ!」
もう一本の、細い左手。
細いと言ってもアユミチの足より太い手が、どうにか舌を守ろうとアユミチの頭上にかぶさる。
アユミチの攻撃より、一手速い。
このまま摘まみ上げられ、放り出されてしまえば……アユミチは死ぬ。アニラービーは倒せない。
「は」
小さな杭のような矢が、アユミチの髪を掠めた。
アユミチを掴み取ろうとしていた醜い手に突き刺さり、弾き返す。アニラービーの手が宙を泳ぐ。
「さっきの借りだ、返したぞ」
リグラーダが、先ほど自分を殴り飛ばした左手に矢を放った。
彼女の姿もずたぼろだが、にやっと笑って。
「ああ」
アユミチもつられて笑ってしまった。
『やっちゃいなさい!』
「消えろ、アニラービー!」
三年分の力を込めて、
◆ ◇ ◆
「できるかなって思っただけだったんだ」
アニラービーは悪びれない。
「傑作だったよ。ああ、今までで一番の傑作だ。君らのその顔も合わせて最高の余興さ」
他者をどれだけ憤らせ、辱め、踊らせたか。
たいそうなお歴々のそんな姿が見られて満足だと。
「もういいだろう。俺はもうこれでいい。勝ち逃げさせてもらうよ」
「簡単に死ねると思っているのなら貴様の見積もりも甘い」
「罪には罰を。お前の口が潰れ、舌が千切れるまで。二度と喋れぬ時を過ごせ」
アニラービーの端整な美貌に陰が差した。
皮肉っぽい笑みでそれをごまかしながら、
「こんな時には仲の良いことで。お偉いお二方の手を取り持った功で、俺の悪戯を許してもらえやしないかな?」
「それこそ、貴様に悔いてもらわねばならん」
「交わらぬことで保つものを、お前は乱した」
この二柱が歩を揃えるなど、どれほどぶりなのか。
大昔はそれができていたのに。
「君らの肩ひじに付き合うのはうんざりだ。もっと気楽に生きて気ままに死ねばよかった」
それがアニラービーの最期の言葉だった。
彼がノクサリージュに願う機会は永遠に得られなかった。
◆ ◇ ◆