法失き世界、人の道は険しくとも 【旧題】チャリオットに轢かれて 作:大洲やとこ
崩れ落ちる。
腐れ落ちる。
へその下の小さな口をこじ開けられ、潰され、焼けただれた舌を細切れに引きちぎられたアニラービー。
巨大な体がヘドロのように崩れ始めて、上に乗っていたアユミチは慌てて下に滑り降りる。
黄緑色の汚い体組織。
そういえばこいつ、天馬に食われたって言うんだからウンコなのではないか。神の糞。馬糞。
「アユミチ殿、ご無事で」
「俺はだいじょっう……」
駆け寄るファニアに強がりかけて、今さらながらに体に激痛が走った。
興奮している間は感じなかったが、戦いが終わったと思ったとたんに襲ってくる。さんざん地面を転がされ打ち付けたあちこち。どこが痛いのかもわからない。
「く、そっ」
「無理をしないで下さい、司祭様に」
「いや、その前に……」
アユミチのことより優先しなければならないことは多いはず。
白い霧はどうなった。アニラービーを倒して消えたのか?
けが人は? ファニアだってとりあえず傷を塞いだだけ。そんな体でアニラービーの腕を斬ってくれた。
おそらくファニアも、あれは最後の力を振り絞ったのだろう。
「ゼラを……」
「……はい」
最初に口に出たのは、犠牲者や他の誰かのことではなくて。
ファニアは静かに頷き、アユミチに肩を貸してゼラのいる方に歩き出す。
最後にアユミチを守る魔法を使い、倒れかけたゼラ。彼女は無事なのか、と。
「……みんな……たくさん、死なせた……」
「私の力が足りませんでした。面目ない」
「違う、そうじゃ……そうじゃなくて……」
アユミチのせいだ。アニラービーを呼び覚ましたのも、無計画に戦うことになったのも、全部。
そうではない。アユミチがここにいなければ、捨て森の人々は病気で死んでいた。
遅いか早いか、死に方が違うか。
そんな風な言い訳が頭に浮かぶから余計に腹が立つ。
「アユミチ殿、奥方様です」
「……」
ゼラは、立っていた。
ファニアの肩を借りるアユミチと違い、凛とした姿勢でアユミチを待つ。
待っていたのは、動けなかっただけなのかもしれない。しかし他の住民には毅然とした姿と見えただろう。
「悪神討滅、お見事です。
「……みんなの力だ」
「はい」
珍しく、ただアユミチの功績と称えるのではなく素直に頷いた。
それからゆっくりと息を吸い、すっかり暗くなった空に響く声で宣する。
「嘔息ヘレボルゼと呼ばれた悪神アニラービー、ここに滅する! 我が夫アユミチと、共に戦った戦士たち! 命を賭した英雄たちに祈りを!」
共に戦い命を落とした英雄。
ただ空しく朽ちて死んでいったのではない。
死んだ者たちへ敬意の祈りを捧げるよう声高らかに告げて、目を閉じる。
「……あぁ」
無駄死にではなかったと。
アユミチの心が少しでも救われるよう、死者の命を尊ぶ。
「ゼラ……ありがとう……」
誰が死んで、誰が生きているか。まだよくわからない。
だけど、ゼラの言葉は倒れそうになるアユミチの心をそっと支えてくれた。
――クイィィィッ!
すっかり暗くなった空のどこからか、甲高い声が響き渡った。
捨て森の隅々まで届くような不思議な声。
「……なんだ?」
「天孔雀ですな」
イーペンが、眠っているカヨウを抱いてアスパーサと共に姿を見せ、空を見て頷く。
ああ、カヨウと一緒に見たバカでっかい鳥のことか。
カヨウの顔色は白いが、呼吸は確かに。整っていて安心した。
「雨季の始まりと」
ぽつぽつと振り出した雨が、傷に染み、朝までには腐れ落ちたアニラービーの体を跡形もなく捨て森の土に流してしまった。
◆ ◇ ◆
「気持ちはわかりますけど」
掲げて、使わなかった黄色の宝石を見て苦く笑う。
笑うしかない。
気持ちがわかってしまうから。
「我が身よりも大事と思う。言葉だけなら聞いても、実際にできる人は本当に珍しい」
ゼラは、最後の魔法を自分ではなくアユミチを守る為に使った。
天馬の戦馬車が駆けるより前に。
ビッテスの魔法が自爆覚悟のものだと知りながら、自分の身を守るのではなく離れた場所のアユミチを守ることを選んだ。
「真の愛……間違っていますけど、こんなところで見せられるとは……やっぱり、面白かったですねぇ」
きっと楽しいことになると思ったのだ。この調査は。
強引に来てみてよかった。
「あやうく私も死んじゃうところでしたけど、ね」
どれだけ綺麗事を並べて澄ました顔をしていても、最後は我が身可愛さで魔法を使うと考えていた。
ビッテスの制御を外れる力から身を守る手段として、ゼラの異常なまでの高精度の土魔法を利用しようと思っていたのに。
当てが外れた。
それでも、もう奥の手を出すしかない。こんな邪神を世に放つわけにはいかない。
生き延びる算段は外れてしまうけれど、使おう。
わずかに迷った刹那に、この地に神獣が飛来した。
なんだ、ゼラでもビッテスでもなく他の誰がこんな大魔法を……いや、幻術?
幻術など神に通じるはずが……?
色々と理解しきれないことは多いが、とりあえず事態は収まった。
そして雨。
なんと皮肉な、ここで雨。
天が彼らを生かそうとしているみたい。
「……では、そうなんでしょうねぇ。きっと」
降り出した雨を顔に受けて、恍惚の熱が体の奥から湧くのを感じる。頬の火照り。
「黄道のお導きに違いありません」
雲で見えない星空を思い、貴石をしまってただ雨に打たれた。
◆ ◇ ◆
渇きの王蠍が討伐される四年前。秋のこと。
「これからという時に……」
「陛下、これしきの傷で弱気なことを仰られるな」
「……いや」
弱々しく首を振り、側近に近寄るなと刃を向けた。
背中に刺さった矢から血を流し、
海の王。トローメ国王クムス。
「奴らのことだ。念入りに、毒も病も混ぜてくれているだろう……」
「あの女狐! 卑劣なティルソの淫売エリッサめ」
「トローメの海でこんなことしてくれやがって」
「南蛮……ティルソの者ではない……」
ぬかった。
海の解放感と叉波王の力強さに心が曇ったか。
トローメ海南のティルソの女王エリッサ・ティルソ。自ら船団を率いて攻め寄せたのは、クムスをおびき寄せる罠。
貴族院、エクピキ教団と通じている。
腐り切った国を変えようと急激な変化を進めた。即位して三年。混乱の最中、まだ敵も味方も見極めきれていない。
「南蛮人どもにも、誰にも、我が国をくれてやるつもりはない」
無敵の叉波王。トローメ国王のみを主とする生きた戦艦。
この海をトローメ海と呼ばせる絶対的な戦力であり、余人は知らないが代々の国王だけがその力を発揮させられる。
通常は代鍵を船長に持たせているが、国王クムスが乗艦すればまさに無敵。
大きさに対して異様な船足と八門の大矢でティルソの船団を蹴散らし、謀略だらけの宮廷の陰鬱な気分を晴らした。
刃は逆に。
波の裏を歩き、舷側を滑るように差した影。
カモメの影のように走った影がクムスの背中に突き刺した。毒の刃を。
暗殺者。クムスを狙った暗殺者。
常ならば、最強の王の盾イドラ・ディドラーが防いだことだろう。
北方異国の民でありながらクムスが側近に取り立てたイドラは、船には慣れていなかった。
切り捨てた暗殺者の方も只者ではない。おそらくエクピキ教団影潰しのエース。満ち足りたような顔で海に沈んだ。
「ぐ、ぅ……」
「陛下!」
「近寄るな、イドラ……誰も、だ」
傷は深い。毒も含めて命に係わる。
それ以上に、仕込まれているだろう死病。
港に戻るまで一日半ほど。その間にクムスを看病した者に病を広げ、クムスの意志を徹底的に潰す。
この叉波王に乗るクムスが信を置く者たちを。
「……ネロとニーモを……頼む」
判断の遅れはこの国をさらに腐らせる。取り返しがつかないほどに。
背中から、海に身を投げた。
「鬼巫……叔母上、すまない……」
トローメ国王クムスは、アユミチがこの国を訪れる四年前にトローメ海で戦死した。
◆ ◇ ◆
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あとがき 2024/10/06
次章、かなり精神を削る場面を書くので更新が遅れると思います。
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