童貞日記 作:もりもりまっちょ
「……日記?」
意外だった。記憶の中の彼はそのようなまめな性格ではないから。彼はもっと、めんどくさがりで、やんちゃで、ものを書くより体を動かす方が好きな……いや、やめよう。
私の知っている彼は、あくまでも昔の彼だ。今の彼ではない。
今の彼は落ち着いている。昔を知っている者からすると別人に思えるほどに。それをみんなは、成長した、男の子らしくなったと口を揃えて言うが私は昔の元気いっぱいな彼が好きだった。無邪気に笑う、彼が。
……どうでもいいか。
私には、もう関係ない。
「あ、いたいた! おーい、コーチもう来てるぞぉー!!」
「え……やばっ!」
慌ててスマホを開く。待ち受けには16:08と表記されていた。あと二分で遅刻だ。今から着替えたらまだ間に合う。でも彼の日記は居場所を失っているままだ。
手に持った彼の日記とグラウンドを数回見比べる。
「さっさと着替えて来いよぉー! 早く早くぅー!」
「ああっ、もう! 今行く!」
右手で頭を掻きむしる。考える事が多すぎて頭がおかしくなりそうだ。
結局私は、無造作に彼の日記を鞄に詰め、更衣室に走った。
「私はな、遅刻する人間が大嫌いなんだ。なんでか分かるか?」
「すんません」
「さーせん」
「……はぁ、いいか。スポーツってのはな、強けりゃいいってもんじゃないんだ。弱くても挨拶をするとか、遅刻をしないとか、そういう人間力がある奴の方がどんどん上手くなっていく。そういう当たり前の事をキッチリこなせないような奴は──」
「なんで私まで怒られなきゃなんないのさ。私は遅刻してなかったのにぃ」
「……なんか、ごめん」
結局コーチには怒られてしまった。割としっかりめに。みんなが練習してる前でやられるのは中々キツいものがある。完全にとばっちりを食らったかのんには悪いが、一緒に怒られてくれて助かった。言うとめんどくさいことになるので絶対に言わないが。
「なんか奢るよ。いちごミルクでいい?」
「わかってんじゃん」
紙パックのいちごミルクを二本買って、喉を潤す。肉体的にも精神的にも疲労した体の傷を甘味が埋めていく。今日はいつもより少し疲れた。
「で、あれなに」
「……あれ?」
「なんか持ってたじゃん。切なそうな顔で」
「あー……落とし物、みたいな」
「誰の?」
「……藤崎」
「まじ!? ちょーだい!」
「……言っとくけど、これを届けてもお近づきにはなれないと思うよ」
鞄を頭上に掲げ、彼の日記を死守する。栗色の頭髪を跳ねさせながら、かのんは手を伸ばした。
「そんなの分かんないじゃんかぁ! 私がなんでサッカー部入ったか知ってんだろぉ!」
「……モテるため、だっけ」
「ちがぁーう! 藤崎くんにモテるためだよぉ!」
「……いっしょじゃん」
かのんは彼にゾッコンらしい。なんでも、いつものクールな感じと授業中の彼の寝顔のギャップに一目惚れしたとかなんとか。それで彼がサッカーアニメのキャラキーを付けているのを見てサッカーを始めたという、まぁなんというか、単純で欲望に正直な女だ。
私も似たようなものだから、バカには出来ないが。
「とにかく、これはダメだから」
「……応援してくれるって話だったじゃんよぉ」
「ダメなものはダメだ」
「なんでぇ?」
「それは……」
なぜ、だろう。自分でもよくわからない。よくわからないまま、彼の日記を守っていた。……守る、というのもおかしな考えだ。別にかのんが彼の日記をビリビリに破こうとしているわけでも、中身を他人に晒そうとしているわけでもないのに。それではまるで、私が、彼を──
「いや、それはない、な」
「は? なんて?」
「なんでもない。やっぱこれ、あげるよ」
「え? どした?」
掲げた鞄を下ろし、彼の日記を取り出す。豆鉄砲でもくらったような顔をしたかのんは数回瞬きを繰り返し、おずおずとそれを受け取った。
「ねぇ、ホントにいいの?」
「ああ。……勝手に中見るのはダメだからな」
「真面目だなぁ。そんなこと気にしてたの?」
「……普通ダメだろ」
「まぁ、そうだけどさ」
かのんは口元を彼の日記で隠した。その下では隠しきれない喜びに口元を緩ませているのだろう。
「ありがとね」
「いいよ、これくらい。……頑張れよ」
「もちろんっ!」
そっと、鞄に彼の日記を仕舞い込む。顕になった口元はやはり緩んでいた。
「あ、もうバス来るから私行くね。また明日っ!」
「ああ、また明日」
上機嫌に手を振って去るかのんに手を振り返す。良くも悪くもかのんはわかりやすい。容姿も相まって、ご機嫌なかのんに嫌悪感を抱く人はあまりいないだろう。
……もしかしたら、彼も絆されるかもしれない。そうなれば、かのんとは今まで通りの関係ではいられなくなる。私と仲良くして、かのんまで嫌われてしまっては申し訳ないから。
それが、彼の日記を渡そうとしなかった理由なのだろう。それ以外、ありえない。
私の鞄は、彼の日記がなくなったことで不自然に隙間が空いていた。まるで私の心のようだと、柄にもなく感傷に浸りながらいちごミルクを飲み干す。寂しさを紛らわすように、勢いよく。
空になった紙パックは、ぼふっ、というなんとも言えない音を立ててゴミ箱に落ちる。
「私も行くか」
ぐっと伸びをして息を吐き出す。
いちごミルクの甘ったるい臭いが少し不快だった。
♢♢♢♢♢♢
「なるほどなるほど、そういうことねぇ」
パタリと日記を閉じた。
「ずるいよ、それは」
背もたれに寄りかかり、夜空を見上げる。
「……不器用が伝染ったかなぁ」
その目には孤独に佇む寂しげな月が映っていた。