かんながら   作:やまみち

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第一話 疾風勁草

 

 

 

「これで良しっと……。」

 

 

 日本囲碁界の名人『塔矢行洋』が経営する碁会所。

 突如、三十分ほど前から降り続いているバケツを引っくり返した豪雨に、従業員の市河嬢は大忙しだった。

 

 なにしろ、お昼の時点で天気予報は晴れが100%。

 夕方に差し掛かった時刻の為、来客数は十人ほどだが、いずれも傘を持っての来店ではない。

 よしんば、十分後には空が晴れ渡っている未来が有ったとしても、貸し出し用の傘を用意する必要があった。

 

 備品室と碁会所出入口に設けられた市河嬢の定位置である受付を行ったり着たりの三往復。

 来客数より多めに用意した傘を受付そばの壁に見栄え良く立て並べた後、傘の貸し出し名簿をノートパソコンで作成。それをプリントアウトさせている途中、ふと市河嬢は思い出す。

 

 雨が降り出してから間もなくの出来事。

 ドアベルが鳴り、小学校高学年と思しき背丈の少年がここへ訪れた時、市河嬢はその来店目的が雨宿りだと考えた。

 雨足はどんどん強まって、少年は足元を滴り濡らすほどのずぶ濡れ。軒先で晴れ間を待つより風邪をひく方が早そうだったからだ。

 

 それに少年の特徴的な金髪の前髪。

 偏見になってしまうが、市河嬢にはヤンキー両親の影響を受けた不良のファッションとしか見えず、伝統ある囲碁と結びつけるイメージが難しかったのも大きい。

 

 しかし、違った。少年の来店目的は囲碁であり、その対局だった。

 市河嬢が慌てて差し出したタオルを受け取ると、その礼と共に受付カウンターの上に濡れた千円札を置き、少年は碁会所の奥へと足を進めた。市河嬢が『お釣り! お釣り!』と、『棋力はどれくらいなの!』と呼び止める声に耳を貸さずに。

 

 そして、市河嬢は二枚目のタオルを少年に渡そうと隣の事務所へ行き、受付を一時的に離れていた事を後悔する。

 既に少年は対局を始めていた。碁会所隅の窓辺、他の者達からぽつんと一人離れて、棋譜を並べていたオカッパの少年『塔矢アキラ』と。

 

 その姓で解る通り、アキラはこの碁会所の経営者『塔矢行洋』の息子である。

 一時代を囲碁界に今築く偉大な父の指南を物心が付いた頃から受けて育ち、まだ十一歳でありながら試験を受けさえしたらプロ入りは確実。そう塔矢行洋の弟子達から太鼓判を押されるほどの実力を持つ。

 

 但し、アキラは有名なアマチュア囲碁大会の優勝経験どころか、小さな大会の出場経験すら持たない。

 これは塔矢行洋の『精神がまだ未熟な子供にとって、隔絶した実力差はやる気を失わせる毒にしかならない』というアキラが持つ実力を親の贔屓目なしに評価した上での配慮だ。

 

 だが、人の口に戸は立てられない。

 アキラはこの碁会所と自宅での経験しか持たないにも関わらず、その名前は囲碁界の全国区。いつの頃か、奇妙な現象が起きていた。

 

 また、この碁会所にも変化が起きた。

 実物のアキラを一目見ようと新規の客が増え始め、ここまでなら経営的に万々歳だが、たまに見るだけでは満足しない道場破りならぬ、アキラ破りが訪れるようになったのである。

 

 その者達はいずれもアキラと年齢がさほど離れておらず、勝ち気な性格をしていた。

 大海を未だ知らない年齢だ。地元や大会などで負け知らずとなり、天狗になっているところをアキラと比較されて、気に逸ったのだろう。

 

 実際、今日のお昼すぎも挑戦者は現れた。

 アキラと対局を始める前は自分がいかに強いかを声高らかに訴えていたが、対局が始まるとすぐに押し黙り、敗北を認めた後は嗚咽を堪えながら即座に帰っていた。

 

 その度、市河嬢は塔矢行洋の配慮が間違っていなかったと思い知らされる。

 再来店を去り際に必ず促しているが、挑戦者達は二度と訪れない。一時、挑戦者達のその後が気になり、碁会所同士のネットワークで聴き込んでみると、碁は辞めたらしい的な答えばかりが返ってきた。

 

 だから、挑戦者が現れた時、やんわりと止める。

 これは市河嬢のみならず、従業員全員だ。経営者の塔矢行洋を交えて話し合った結果である。

 

 しかし、一度だけ。二度は止めない。

 その理由は懸命に止めた結果、付き添いの保護者が大騒ぎを起こした出来事が過去にあった為だが、周囲は大人達ばかりのアキラが実は同世代との対局を切望していると、従業員達はそう言葉で聞いていなくても知っているからだ。

 

 その証拠に、アキラは挑戦を拒まない。

 拒まないどころか、いつもは済まし顔のアキラが挑戦を挑まれた際は笑顔を花が咲いたように輝かす。

 もっとも、対局が始まってしまえば、その笑顔はすぐに済まし顔に戻ってしまうのだが、一縷の望みにかけていた。アキラのお眼鏡に適う挑戦者はまず居ないと承知していても。

 

 

「うん、準備OK! ……えっ!?」

 

 

 プリンターの動作音が消えて、市河嬢はそこで初めて気づく。

 碁石を打つ音すら聞こえず、碁会所が不気味なくらいに静まり返り、窓を叩きつける雨の音だけが響き渡っているのを。

 

 

 

 ******

 

 

 

「ぐっ……。」

 

 

 静寂の中、雷鳴が轟き、閃光がアキラの横顔を焼く。

 だが、アキラは瞬きすら許されず、その眼差しは碁盤へと釘付けされていた。

 

 対局が始まり、アキラは心が踊った。

 手数を交互に十まで重ねた時点で、目の前の少年が今まで相対してきた少年とは違うと確信して、笑みが自然と溢れてしまうのを感じていた。

 

 しかし、手数を重ねる度、笑みは次第に凍り付いてゆく。

 手数が三十まで進むと、口は固く結ばれて、力が眉間に籠もっていた。

 

 五十手目、拳を力強く握るあまり肩が震えているのを自覚した。

 五十五手目、石を打った後に思わず顎を手の甲で拭ってみれば、汗が額から滴り落ちていた。

 

 まるで光が届かない深い海底に沈んでいるかのような息苦しさ。

 唾をカラカラに乾いた喉へ送り込むと、音がゴクリとやけに大きく響いた。

 

 最早、アキラに対局前の余裕は何処にもない。

 息継ぎを苦しさに求めて、視線を碁盤から上げてみれば、凄まじい気迫がそこにあった。

 

 傍目には少年がただ静かに視線を碁盤へ注いでいるようにしか見えない。

 だが、直接相対しているアキラだからこそ、感じた。この対局に負けたら、この場で即割腹すると言わんばかりの気迫を感じて慄き、すぐさまアキラは視線を碁盤へ戻す。

 

 息継ぎを求めた筈が逆により息苦しくなった。

 知らず知らずの内、胸を右手で押さえてみれば、今にも心臓が胸を突き破って飛び出しそうなくらいに早鐘を打っている。

 

 圧倒的な実力差。

 今すぐに投了を宣言したかったが、それが出来ない。

 

 その理由もまた圧倒的な実力差。

 我が身を省みたら、目の前の少年以前に打ち倒してきた同世代の者達の名前どころか、顔すら覚えていない。

 それは実力差が有り過ぎて、興味が持てなかったからに他ならない。今、自分が打ち倒してきた者達と同じ側に立たされたアキラは奥歯を噛み締め、己という存在を少年の心に刻み付けようと必死に次の一手を放つ。

 

 

「くぅっ!?」

 

 

 しかし、現実は非情である。

 アキラが石を打てば、少年が間一髪を入れずに石を打ち、即座に手番がアキラへ回ってくる。

 

 正確な時間は計っていないが、今先ほどの一手は五分は考えに考え抜いた末のもの。

 それをノータイムで返されては堪らない。休む間を与えられず、苦しみ悩む再び苦悩する時が続く。

 

 しかも、少年が打つ一手は常にこれこそが至上と思える一手。

 ノータイムで打てるのは、アキラが次の一手を考えている時に少年もまた考え、遥か高みからアキラを見下ろして、アキラが持つ実力を正確に把握している証拠。

 

 即ち、打てば打つほどに実力差をまざまざと見せつけられて、苦しみは増すばかり。

 それに普段は貴公子然とした済まし顔が多いアキラだが、その実は苛烈な情熱を持ち、攻める碁に本領を持つ。

 攻撃は最大の防御という言葉は有れど、攻めるという事は隙を与え、その隙を少年は今まで一度も見逃しておらず、逆に攻め立ててくる。アキラの消耗は激しい。

 

 どれほどの時を苦しんだか。

 視界がグニャリと歪み、時の感覚が無くなるほどの長考の果て、アキラが震える手で次の一手を打った次の瞬間。

 

 

「死ねば助かるのに……。」

 

 

 対局を始めて以来、初めて少年が声を発した。

 まだアキラが笑顔を溢れさせていた頃、話題を色々と振っても相づちすら打ってくれなかった少年がつまらなそうにポツリと呟いた。

 

 

「えっ!?」

 

 

 アキラが顔を弾かれたように上げると、少年の様子は一変していた。

 先ほどまで纏っていた息苦しいほどの気迫を霧散して、アキラへ冷めきった眼差しを向けていた。

 

 

「今のお前には気配がない」

「け、気配?」

「ああ、勝とうとする気配だ。

 お前はただ助かろうとしている。負け犬が最後に陥る思考回路……。お前はただ怯えている」

 

 

 そして、少年が今まで打ってきた一手より痛烈な言葉がアキラの心にズブリと突き出さった。

 たまらずアキラは少年と目を合わせていられずに俯くと、両手で両膝を力一杯に掴み、耐え難い恥ずかしさに下唇を噛みながら肩をブルブルと震わせる。

 

 完全に見透かされていた。

 今、アキラが打った一手は自分の持ち味である攻めから転じて、守勢にまわったもの。

 もっと正確に言うなら、ただただ対局を無駄に引き延ばそうとする勝負を完全に諦めた一手だった。

 

 

「ま、待って! ま、待ってくれ!

 ぼ、僕は塔矢アキラ! ……き、君の名は!」

 

 

 椅子をガタリと蹴って立ち上がる音に続いて、複数の碁石が碁盤上にバラバラとばらまき落とされる音が鳴る。

 この瞬間、アキラの勝利が少年の対局放棄で決定したが、アキラは絶対に納得が出来なかった。慌てて顔を上げると同時に腰を椅子から浮かして、右手を少年へと伸ばす。

 

 

「お坊ちゃんだな……。

 望んだら、それがいつも叶うと思うなよ。答えは自分で探すものだ」

 

 

 しかし、現実は非情である。

 今まで勝負を挑んできた者達に対して、アキラがそうだったように、少年は振り返りもしなければ、足も止めなかった。

 

 

「か、傘!」

「ありがとうございます。でも、必要ありません」

 

 

 土砂降りの雨はまだ続いている。

 誰もが言葉を発せない中、声を辛うじて絞り出した市河嬢が少年の足止めに成功するが、ほんの数瞬だけ。

 それも言外に『ここにはもう来ないから』という意味を含んでいるような言葉を返しただけ。ドアベルを鳴らして、その姿をガラスドアの向こう側に消す。

 

 

「ぐぅっ!? ……うっううっ!?」

 

 

 アキラは崩れ落ち、碁盤の上に突っ伏して嗚咽する。

 そんなアキラを慰めようと、客達は顔を見合わせるが、誰一人として上手い言葉が見つからず、次の来客が来る約十分後まで土砂降りの雨の音だけが碁会所に響き続けた。

 

 

 






 今更すぎるヒカル逆行最強ものです。
 この物語は闘碁で伝説は作りませんし、隕石は墜ちてきません。
 それと調べたらヒカルの碁の連載終了が2003年! 20年も昔なのか!


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