かんながら   作:やまみち

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第二話 百折不撓

 

 

 

「あん?」

 

 

 青年『進藤ヒカル』は一人棋譜を黙々と並べ、碁盤とにらめっこ。

 傍らに置いたコーラの1.5リットルペットボトルをながら動作で手に取り、それを飲んでいる途中、何やら大きな物音がガタゴトと聞こえているのに気付くと共に集中力が途切れ、眼差しを碁盤から上げた。

 

 この家はヒカルの祖父母が嘗て暮らしていたもの。

 三年前、祖母が他界。その後暫くして、ヒカルの両親が祖父に同居の提案を申し出た際、どちらの家で住むかの選択となり、親元からの独立を前々から考えていたヒカルがこれ幸いと譲り受けている。

 

 つまり、この家はヒカルの一人暮らし。

 ヒカルは手元の暗さに気付いて、日が暮れかけた時に碁を打っている縁側廊下の明かりを点けたが、それ以外は真っ暗。

 物音の発生源が玄関の引き戸だとすぐに解ったし、いつかはそこへ向かわなければならないと解っていても、施錠がまだな筈の玄関の引き戸を何故か頻りに揺らし続けている謎の狂人に恐怖を覚え、ヒカルは動けずにいた。

 

 

「開けろぅ! デトロイト市警だぞぉ!」

 

 

 しかし、意味不明な叫びが聞こえ、狂人の正体が幼馴染『藤崎あかり』だと解る。

 その途端、ヒカルは強気を取り戻す。溜息をやれやれと漏らしながら立ち上がり、玄関まで通過する部屋と廊下に明かりを点けて向かう。

 

 

「……ったく、何のようだよ。こんな時間に」

「こらぁ! 開けろって言ってるでしょぉ! 開けろぉぉぅ! 進藤ヒカルぅぅ!」

「いや、開いてるって……。マジでどうしたって言うんだよ?」

 

 

 祖父の代から靴棚の上にある置き時計を見ると、時刻は二十一時半過ぎ。

 一人暮らしをしている若い男性宅へ若い女性が訪れるには遅すぎる時間である。

 

 その上、あかりは開けろと叫びながらも鍵が開いている玄関の引き戸を開けようとしていない。

 何故か、外そうと懸命に格闘しており、外すとなったら女性の腕では重すぎる玄関の引き戸の騒音はご近所に間違いなく聞こえているレベル。

 

 挙句の果て、あかりは呂律が明らかに回っていない。

 泥酔したあかりを初めて目の当たりにして、ヒカルは戸惑うしかなかった。

 

 

「あっ!?」

 

 

 だが、玄関の引き戸を開けた瞬間、ヒカルは血の気が引いた。

 口に出そうと用意していた文句を飲み込んで、自分の失敗を自覚する。

 

 予想した通り、あかりは顔を赤々と染めて酔っていた。

 約一ヶ月前、ヒカルがあかりと一緒に出かけた際、三つの候補を提示されて、ヒカルが選んで購入した成人式二次会用の薄紫色のワンピースドレスを着て。

 

 そう、今日は二十歳を今年度に迎えたヒカルとあかりの成人式の日だった。

 二週間前くらいから今日の成人式を何度も何度もあかりから念押しされていた上、三日前からはヒカルが成人式で着る予定だった紋付袴をあかりが座敷に飾って用意していたにも関わらず、すっかり忘れていた。

 

 いや、正しくは今朝の時点では憶えていた。

 二次会用の薄紫色のワンピースドレスと同様に三つの候補を提示されて、ヒカルが選んで購入した成人式用の振り袖を着付ける前の忙しいあかりが今朝にこの家を訪れており、その時に今日が成人式だと念押しされていた。 

 

 ところが、女性の準備と比べたら、遥かに時間を必要としないのが男性の準備。

 囲碁棋士という職業柄、着物を着た経験が何度も有り、着替えの手に戸惑いを覚えないヒカルは成人式の開式時刻までの時間を持て余した。棋譜を暇潰しにちょっと並べるつもりが、今の今までになってしまったのである。

 

 どう謝っても許される問題ではない。

 ヒカルが謝罪の言葉を探して言いあぐねていると、今日まで重ねてきた苦労を台無しにしたヒカルを怒っても良い筈のあかりは満面の笑みを浮かべた。

 

 

「ヒカルぅ! ヒカルだぁ!」

「えっ!? あっ!? ……ちょっ!? は、離れろってっ!?」

 

 

 そして、ヒカルへ抱きついた。

 身長は頭一つ分、体重は少しだけヒカルの方が勝っているが、予想すらしていなかったあかりの行動とその勢いに押されて、右足を下げたヒカルはその場に尻餅をつき、そのまま押し倒されてしまう。

 

 酒臭さがヒカルの鼻腔を真っ先にくすぐり、それに追いかけて、酔いの発汗で強くなった女性特有の甘い香りが届く。

 ヒカルの中に眠っていた男の本能が着火され、全身の感覚が密着するあかりの柔らかさを積極的に感じ取り、抗い難い漲りがヒカルに起こる。

 

 同じ病院で生まれ、育った家がご近所同士なら、幼稚園も、小学校も、中学校も一緒。

 中学校を卒業した後、ヒカルは社会人として、あかりは学生として、二人の道は分かれても交流を持ち続けているが、二人は幼馴染の関係を越えていない。

 

 ヒカルはあかりを必死に押し退ける。

 このままだと自分の理性が危うくなってしまうと。あかりを傷つける結果を生んでしまうと。

 

 

「やだもぉ~ん! えへっ、えへへ!」

 

 

 しかし、悲しいかな、ヒカルは碁石を持つ事を職業とする棋士である

 体育の成績で高評価を得ていたのは昔の話。健康の為の体力作りに意識すら向けてこなかったヒカルでは、タガが酔いで外れたあかりの力に勝てなかった。

 

 むしろ、状況は悪化する。

 あかりは顔をヒカルの胸に埋めると、その顔を左右にすりすりと頬ずりしまくり。

 

 当然、密着度は増した。

 特にあかりが育んできた双丘が頬ずりの度に右へ、左へと潰れては弾み、ヒカルはより密着しようとあかりを勝手に抱き締めかけている両手を慌てて制止。床を開いた両掌で叩き、自制も叩き込む。

 

 恋愛話に食いつかず、猥談も食いつかない。

 女性の好みを尋ねても具体例は出ず、仲間内から『女性に対する興味が無いのでは?』という評価を受けているヒカルだが、ご覧の通りにちゃんと有る。

 

 ただ、普段はそれがとても薄いだけ。

 あかりとは仲が近い分、たまに気づいたらあかりの胸やお尻を目で追ってしまい、慌てて自制を促している。

 仲が近くてもあかりは異性。触れてはならないし、触れた結果、幼い頃からずっと傍にいる居心地の良い今の関係がぎくしゃくするのを恐れていた。

 

 だが、自制を促す相手が欲望を煽ってくる二律背反。

 ヒカルは限界ギリギリの崖っぷち。必死の抵抗に顔をやっと持ち上げると、玄関先にある石造りの門柱の傍に立つ初老の女性と目が合った。

 

 

「あらあら、まあまあ……。

 心配して来てみたけど、そういう事ならお邪魔だったわね」

 

 

 ヒカルは目をギョギョッと見開き、嘗て無いほどに燃え上がった男の本能を一気に鎮火させる。

 玄関の明かりが辛うじて届いている薄暗闇だろうと、その口元がニヤニヤと笑っているのが、ヒカルには解った。

 

 初老の女性は真向かいに住む奥さんである。

 仕事の都合上、留守が多いヒカルに届いた宅急便をいつも預かってくれたり、つい疎かにしてしまう町内会関連の世話をあれこれと焼いてくれたりと、ヒカルはとても助けられているが、他人の色恋沙汰が大好物なところが玉に瑕。顔を合わせる度、挨拶の次にあかりとの仲を必ず聞くし、あかりがヒカルの『通い妻』と町内会の噂になった発端だとヒカルは確信している。

 

 

「ち、違う! ち、違いますよ!」

「ヒカル、ちゅ~しよっ! ちゅ~っ!」

「うんうん、そうよね。今日は成人式って言ってたものね」

「ま、待って! ま、待って下さい! お、お願いだから助けて下さい!」

 

 

 こういう時は男が圧倒的に不利。全面降伏こそが最善の一手。

 そう囲碁棋士の悪い先輩『緒方精次』から訓示を受けている通り、あかりに触れていないアピールの為、ヒカルは指先を開ききった両手を精一杯に挙げてみせた。

 

 

 

 ******

 

 

 

「んあっ……。」

 

 

 あかりは猛烈な喉の乾きを覚えて、微睡みから目を醒ます。

 寝ていた布団から上半身をゆっくりと起こしたところで停止。全身に感じる倦怠感が酷い。

 そのまま横にごろりと再び寝ようかとも思ったが、喉の乾きの方がもっと酷い。口の中がパサパサに干上がっており、台所へ向かおうと右膝を立てた瞬間。

 

 

「ぇっ!? ……ええっ!?」

 

 

 たわわに実った胸が揺れて、あかりは息を飲む。

 ぼんやりとしていた意識は一気に覚醒。慌てて手探り寄せた掛け布団を頭から被って、身を強張らせる。

 

 真夏の熱帯夜だろうと、あかりはブラジャーを着けて寝る派。

 それに実家暮らしで父も居る為、就寝前の入浴後はパジャマに必ず着替える。

 

 ところが、今は愛用のパジャマも着ていなければ、ブラジャーも着けていない。

 恐る恐る探ってみると、ショーツはちゃんと履いており、大事なところに違和感は感じず、あかりは心底に胸をホッと撫で下ろす。

 

 

「ええっと……。」

 

 

 しかし、問題はまだ解決していない。

 顔だけを布団の中から出してみると、ここはあかりの部屋とは違った。

 藤崎家は洋室しか存在しないにも関わらず、この部屋は純和風。中学校入学の時から使っているベッドの上に非ず、布団は畳の上に敷かれており、ここが何処なのかが解らない。

 

 常夜灯が染めるオレンジ色の薄暗い中、あかりは息を殺しながら左右を探る。

 だが、正面は出入口の障子戸、左右は珪藻土っぽい壁。あかりが寝ている布団が八畳間にぽつんと一つだけ。

 

 当然、次は背後に手がかりを求めるしかないが、あかりは背後を振り返るのが怖かった。

 もし、そこに見知らぬ人が居たらと。もし、その人が自分の寝顔を眺めて愉しみ、今も慌てふためく自分の姿を眺めて愉しんでいたらと。

 

 しかし、確かめずにはいられない。確かめない限り、先には進めない。

 あかりは心の中で『怖くない、怖くない』と唱え、背後を怖ず怖ずと振り返る。

 いざとなったら、すぐ逃げ出す準備に百メートル走のクラウチングスタートのように両手を前に突き、腰を浮かせた前傾姿勢になりながら。

 

 

「な、なぁ~~んだ……。そ、そうだよ。ひ、ヒカルの家じゃん」

 

 

 そして、床の間の落とし掛けに引っ掛けたハンガーから下がる薄紫色のワンピースドレスを見つけて、あかりは安心した。

 漲ろうとしていた力が抜けてしまい、額を布団の上にポスリと落として、お尻だけをはしたなく上げる姿を見せるくらい安心しきった。

 

 なにしろ、ここはあかりが言った通り、ヒカルの家。

 それもヒカルとの仲を縮めたいあかりが真向かいに住む奥さんからアドバイスを受け、床の間とその隣にある押し入れの中に自分の私物や衣類を着々と増やして、この部屋は自分の部屋だと家主抜きに定めた部屋である。

 

 

「えっ!? ……どうして、裸なの?

 えっ!? えっ!? ……もしかして、ヒカルが?

 えっ!? えっ!? えっ!? ……ひょっとして、ひょっとして? えっ!?」

 

 

 しかし、問題はまだ解決していない。

 あかりは今さっきまでとは違う意味で慌てた。すぐさま立ち上がって、電灯から垂れている紐を引っ張る。

 ワンピースドレスに色を合わせた薄紫色のショーツを脱ぎ、それを丹念に調べて、裏返したり、電灯の光に翳してもみるが、あかりが期待した証は何処にも見つからない。

 

 

「ここまでして……。嘘でしょ?」

 

 

 あかりは信じられない思いだった。

 期待した通りなら、一生の思い出になった筈のソレを憶えていないのは辛いが、イヤリングも、ネックレスも外して、ワンピースドレスも、ストッキングも脱がした上、ブラジャーまで脱がしておきながら、ただ布団に寝かされていた事実がもっと辛かった。

 

 唇を右手の甲で強く拭ってみると、化粧は残っている。

 それを落とす為に洗面所へ行く理由が追加されて、あかりはのろのろと脱いだショーツを再び履き、枕元に置かれたブラジャーへ手を伸ばして、はたと気付く。

 

 何故、こうも丁寧に畳まれているのか。

 何故、男性が必要としないブラジャーの畳み方をヒカルが知っているのか。

 

 

「ど、どうしてよ! もうっ!」

 

 

 あかりは色々な意味で憤りの炎を燃え上がらす。

 手にしたブラジャーを壁に投げつけたくなる衝動を堪えて、急ぎ着けると、部屋着を収納してある押入れの戸を乱暴に開けた。

 

 

 

 ******

 

 

 

「ふぅ……。」

 

 

 顔を洗ったら、怒りがちょっと収まったあかり。

 水を飲めば、押し出されるように尿意を覚え、今は花摘み後の開放感も合わさり、冷静さを完全に取り戻していた。

 

 余談だが、ヒカルの家は純和風の平屋だが、台所とトイレの二つだけは違う。

 ヒカルは二十歳の社会人としては高額な年収を得ており、あかりの提案で台所はあかり好みのダイニングキッチンに、東西に二箇所有るトイレはどちらも洋式のウォッシュレット付きに洋風リフォームされている。

 

 あかりの次なる野望は自分の部屋にベッドを置く事だ。

 実を言うと、あかりが日を跨いでヒカルの家に滞在したのは今夜が初めて。

 最近、この家がヒカルの囲碁仲間達のたまり場になる事が多くなり、そのまま泊まってゆく者がぽつぽつと現れ始め、あかりは危機感を覚えていた。

 

 何分、この家は広い。

 庭が有って、池が有って、蔵が有り、茶室だった形跡の離れまで有る。

 部屋数に至っては管理が出来ずに家半分がまるまる放置されていて、あかりが存在感を光らせていなかったら、職場である日本囲碁棋院に近い利便性もあって、とっくにヒカルの囲碁仲間達のシェアハウス化していた。

 

 実際、あかりはそれっぽい会話を何度か聞いた事が有った。

 ヒカルが弟子を取り、その彼、或いは彼女が下宿するなら話は別だが、それはあくまで将来の話。あかりはヒカルとの間に子供が出来るまでは二人で居たかった。

 

 ついでに言えば、ヒカルの父母も、あかりの父母も二人の仲をとうの昔に認めている。

 あとはヒカルの決断次第。挙式を何処で挙げるか、披露宴の招待客は誰にするか、新婚旅行は何処へ行くかまで決まっているのをヒカル一人だけが知らない。

 

 

「私も悪いけど、ヒカルはもっと悪いよね」

 

 

 あかりは便座に腰掛けたまま、今日一日の出来事を思い返す。

 上半身が倦怠感に垂れて、自然と吐き出された溜息は自分自身で解るくらい酒臭かった。

 

 朝、五時に起床。

 シャワーを済ませた後、ヒカルの家を訪れて、朝食を一緒に食べた後、ヒカルの成人式出席の用意を整え終えたのが七時半。

 

 八時半、成人式の会場である区の公民館へ。

 予め貸し切った一室で待っていると、ヒカルが選んで買ってくれた桜色の振り袖が九時過ぎに購入店のお店の人達と一緒に到着。着付けが始まる。

 

 十一時半、着付けが完了。

 ようやく休めるかと思いきや、ヒカルの後援会の方々が成人式の祝いに続々と訪れ、その応対に追われながらヒカルの到着を苛立ち待つ。

 

 無論、あかりはヒカルへ電話を何度もかけているが、いずれも返ってきたのは電子的な呼び出し音のみ。

 どうせ、囲碁に没頭し過ぎているのだろうと見当を付けて、自宅と進藤家に助けを求めるも不運な事にどちらも留守だった。

 

 十二時、成人式が開幕。新成人代表の挨拶を行う予定のヒカルは現れない。

 もし忘れたら一大事だからとあかりが預かり、三日前に『やべ、忘れてた。面倒だからお前が考えてよ』とあかりがネットで調べて考えた新成人代表の挨拶をあかりが読む。

 

 当然、フォローも完璧。

 今朝、ヒカルが体調を少し崩してしまい、囲碁の大事な一戦が近くに控えている為、成人式を欠席するのはとても残念だが、大事を取らせて貰うという設定である。

 

 十三時、成人式が閉幕。公民館内の別の場所に会場を移して、軽い立食パーティに。

 あかりは笑顔だった。区長どころか、都知事まであかりの元へ訪れて、ヒカルの欠席をとても残念がり、その対応に追われた為に何も飲めなかったし、何も食べられなかった。

 

 十四時、振り袖から二次会用のドレスに着替える為、会場から退場。

 会場は十六時まで開放されており、着替えて戻ったあかりは旧交を温め合いながらも、その合間合間にヒカルへ鬼電を試みるが無駄に終わる。

 

 十五時半、二次会へ向かうバスが到着。

 事前に送られてきたハガキの出席にマルを付けていたあかりはバスに乗るが、成人式より二次会を楽しみにしていた筈のヒカルは隣の席に居ない。

 

 十七時、あるホテルの最上階にて、二次会が開幕。

 あかりは女避けの目的でヒカルに請われて、囲碁のパーティで何度か訪れた経験はあったが、一般家庭なら縁遠い有名なホテル。参加者達の心を自然と弾んだ。

 更に二次会からは飲酒が加わって、口が軽やかになり、この場に居るのはお互いがそれぞれの道を進んだ二十歳の大人しか居ないにも関わらず、今も当時のままだと錯覚した者達が現れ始める。

 

 その被害をあかりも受けた。

 小学校高学年から中学校卒業までの間、ヒカルとの仲をからかわれた経験は数え切れない。

 当時がそうだったようにからかわれるが、あかりは笑顔で対応。その実は高校卒業後に地方の大学へ進み、久々の再会となる親友『津田久美子』にヒカルの愚痴を吐きまくり。

 

 十八時、記念写真を撮影。

 二十時の閉幕には早いが河岸を変え、同級会で飲み直さないかという是非を問われて、あかりは快諾する。一応、期待はせずにその旨を伝える電話をヒカルへかけるが、やっぱり応答は無かった。

 

 十九時、三次会が二次会会場のホテル近くの居酒屋で開幕。

 誰かから連絡を受けたのか、中学校で同じ囲碁部だった『三谷祐輝』が夕飯を兼ねて、あかり達に先んじて三次会に現れており、その胸に幼い女の子を抱いているのを目の当たりにして、あかりは『やってられるか!』と大咆哮。めちゃめちゃ荒れた。

 

 大学進学後に度々あったコンパでも、先ほどの二次会でも酒を勧められても頑なに断り続けていた飲酒の封印を遂に解き、他人が注文して配られている最中の中ジョッキ生ビールを奪っての一気飲み。

 喉をゴクゴクと鳴らして、飲み干した後は『ぷっはあああああっ!』と一息をつく清々しい飲みっぷりに男達はたちまち大盛りあがり。もう一杯、もう一杯と勧められた上、周囲の静止を振り切って、焼酎、日本酒、ウイスキーと居酒屋の酒を一通り飲み、二十一時を回った頃にはウイスキーボトルを手酌に飲んでいた。

 

 そんなあかりを止められなければ、無責任に放置が出来ない津田久美子は涙目。

 三次会が始まって早々に帰宅した三谷祐輝を懸命に電話で再召喚。あかりはウイスキーボトルを三谷祐輝に取り上げられた挙げ句、羽交い締めにされて引きずられ、タクシーへ放り込まれた。

 

 その後の記憶ははっきりしない。

 タクシーを一緒に乗った津田久美子は運転手に自宅を告げていた筈だが、何故にヒカルの家に居るのだろうか。それがさっぱり解らない。

 ただ、確かなのは先ほど部屋を出る前、携帯電話の通話記録を見たところ、自宅への発信記録が二十一時半頃に有り、それ以後の着信記録が無い為、あかりの両親はあかりがヒカルの家に居ると知ってもいるし、心配もしていない事だ。

 

 

「ううん、私は悪くない! ヒカルが全部悪い!」

 

 

 今夜、この家に居るのはヒカルとあかりの二人だけ。そうなる努力をあかりは今日まで重ねてきた。

 三ヶ月前、ヒカルのスケジュールを管理する日本囲碁棋院に問い合わせて、昨日、今日、明日の三日間の空きを確保。その後も週末毎に確認の電話を入れて、一週間前に成人式での取材を申し込まれたが、絶対に駄目だと断っている。

 

 この家をたまり場とするヒカルの囲碁仲間達に根回しも行っている。

 一ヶ月くらい前から、彼等がこの家に集っている時に成人式の話題をそれとなく振って、お前等は邪魔なんだよと角が立たないように訴え続けた。

 昨日とて、日が暮れようとしているのに帰らないヒカルのライバルで親友『塔矢アキラ』が宿泊の気配を発しているのを感じ、似た苦労を抱えている同盟者の塔矢アキラの婚約者へ電話をして、引き取りに来て貰っていた。

 

 あかりは今日という日に人生を賭けていた。

 幼い頃は明確にはっきりと、成長してからは淡く、大人になった今では組んだ腕に胸を押し付けるなどの軽い誘惑で好意を伝え続けてきたが、暖簾に腕押し。ヒカルは仲が良い幼馴染の枠を越えてこようとしない。

 

 もし、ヒカルの胸の内に意中の女性が存在するなら、あかりは諦めも付いたが居ない。

 誰よりもヒカルの傍に居続けたあかりだからこそ、はっきりとそう断言が出来た。誰もが異性に興味を覚える思春期真っ只中でさえも、ヒカルに意中の女性は居らず、男性である塔矢アキラとの近すぎる距離を疑ったほどだ。

 

 だから、成人式は正に良い節目と考えた。

 彼氏と同棲生活中の姉から夜の相談を受けるも応えられず、『嘘っ!? あんた、まだ処女だったのっ!?』と煽られたのも大きい。

 

 計画を明かすと、あかりは二次会が開催されたホテルのスイートルームに宿泊予約を三ヶ月前から取っていた。

 ヒカルの明日のスケジュールも空けたのはその為だし、成人式の振り袖から二次会用のワンピースドレスへ着替える際に下着をちょっとHな勝負下着に着替えたのもその時の為だった。

 酒を二次会で一口、二口ほど飲んで実績を作り、ヒカルを『ちょっと酔っちゃた。そう言えば、そのまま泊まったら楽だと思って、部屋を取ってあるの』と誘い、その後は度胸。どうせ、ヒカルは何も仕掛けてこないから、こっちから仕掛けてやるという脳内シミュレーションも万端に済ませてあった。

 

 だが、失敗した。失敗した、失敗した。

 あかりが目を離した隙にヒカルは碁を始めてしまい、成人式をすっぽかした。

 

 しかし、あかりに非は無い。

 目を離した隙といっても、それは振り袖を着る為の時間である。

 

 若い女性にとって、成人式は大イベント。

 その為に着飾るのが当然なら、そこに費やされる時間は絶対に必要なもの。

 

 ましてや、服を脱がして、ブラジャーも脱がしておきながら放置するのは、男としていかがなものか。

 勿論、それが酔い潰れてしまったあかりに寝苦しさを感じさせない為の優しさと承知しているし、他者が聞いたらヒカルを紳士と讃えて美談にするかも知れないが、あかりは『違う』と叫ぶ。

 

 では、あかり自身が脱いだのかと自問自答するなら、それも違うとあかりは断言が出来た。

 寝る時もブラジャーを着ける派なのは、実家暮らしで父が居るからが第一の理由ではない。平均以上に育ってくれた胸が密かな自慢であり、膨らみが目立ち始めた中学校二年生の頃に母親から進言を受け、形崩れをさせない為に始めたもの。

 

 そもそも自分自身で脱いだとするなら、前後不覚になるほど酔っ払っていたのだから、ああも整然と脱いでいる筈が無い。乱雑に脱ぎ散らかしていた筈だとあかりは考える。

 ああも整然と脱がされていたという事は誰かに手伝われて脱いだという証拠であり、それは誰かといったらこの家に一人暮らしをするヒカル以外に居らず、ヒカルはあかりをショーツ一枚になるまで剥いておきながら手を出さなかったという結論に繋がる。

 

 挙句の果て、そう結論が出ながら、解決していない大きな問題がまだ有る。

 それはあの女しか知り得ないブラジャーの丁寧な畳み方を誰から教わったのかという問題だ。

 

 つまり、ヒカルは誰かのブラジャーを外した経験を持つ。

 その時、きっとヒカルの事だから粗末に投げ捨ててしまい、ブラジャーを外した相手に叱られて、その扱い方を教わったとするなら、『その機会って、どんな時?』の三段活用である。

 

 

「何処の女なの! 絶対に許さないんだから!」

 

 

 あかりは身支度を整えて、トイレの水洗ボタンを無駄に連打でオン。

 トイレには流せない怒りの炎を轟々と燃え上がらせて、トイレのドアをいざ出陣と勢い良く開けた。

 

 

 

 ******

 

 

 

「ヒカっ、ル……。」

 

 

 あかりはトイレの前に台所へ立ち寄った際、居間と縁側の明かりが点いているのを知っていた。

 碁石をパチリ、パチリと打つ音も何度か聞こえ、その時は酔っ払った自分がいつ目を醒ましても不安にならないように起きて待っていてくれたのだと嬉しくなった。

 

 しかし、『それはそれ、これはこれ』である。

 浮気は絶対に許さない。名前を吐くまで問い詰めて、必要なら相手に即電話をする意気込みで居間へ通じる障子戸を音がスパーンッと鳴るくらいの力一杯に開いたあかりだったが、いざヒカルの姿を目の当たりにしたら気炎をたちまち失った。

 

 ヒカルは碁を一人で打つ時、自室や居間よりも蔵がある庭に面した縁側を好む。

 丸ござを置きっぱなしの定位置。胡座をかいた自然体の姿勢でありながら、碁盤へと注ぐ眼差しは鋭くて真剣。

 たまにしか見せてくれないが、会心の一手と思しき石を打った時、眼差しを碁盤から上げて、誰も居ない真向かいのそこへ向け、まるで誰と対局しているかのように微かな笑みを口元に描く。

 

 あかりはその横顔が好きだった。

 自分にはそんな笑顔を向けてくれない不満も、自分が傍に居ながら相手をしてくれない不満もあったが、ヒカルが縁側で碁を一人で打つ姿はとても神聖な儀式のように見え、それを止めるのを出来るだけ控えていた。

 

 だが、今はそうした理由から勢いを失った訳ではない。

 その理由はヒカルが座る左脇。そこに置かれている食パンの空袋と飲みかけたコーラの1.5リットルペットボトルにある。

 

 ヒカルは自炊をしない。

 レンジでチンや袋のラーメンは作れるが、その以上の努力は最初から考えてもない。

 

 そんなヒカルを見かねて、あかりが食事を作っており、それがこの家へ通う一応の理由になっている。

 ヒカルが地方営業で家を一日以上空ける時は別だが、ヒカルが在宅している日は朝起きたら朝食を作りに訪れ、お昼のお弁当を渡してから大学へ登校。夕方頃に再び訪れて、夕飯を作り、ひと時を過ごした後はヒカルに徒歩十分の自宅まで送って貰うのがあかりの一日。

 

 また、あかりは台所に食材が無駄に増えてゆくのを好まない。

 基本的にその日に購入した食材は翌朝で消費するように心掛けており、冷蔵庫のサイズが大きい割にその中身は漬物と調味料ばかり。冷凍庫の中もたまの手抜きの為におかずは有るが、主食になるものは無い。

 

 ヒカルの左脇にある空袋の食パンも、あかりが『今朝は忙しいから、これで我慢してね』と昨日の内に用意したもの。

 カップラーメンや袋のラーメンは災害備蓄として用意しているが、その保管場所はあかりだけの秘密。それをヒカルが見つけてしまうと、食べでしまう為だ。

 

 これ等を踏まえると、あかりには今日一日のヒカルが容易く想像する事が出来た。

 成人式までの待ち時間に囲碁を始めて、没頭。トイレの為に集中力が途切れて、その時に空腹感も覚え、食べ物を探すも食パンしか見つからない。

 外食に出かける手間どころか、出前を取る手間も惜しみ、食パンをトースターで焼くのも、冷蔵庫の中にあるジャムやバターを塗る手間すらも惜しみ、再開した囲碁の合間合間にただ腹と乾きを満たすだけの為に食パンをそのまま食べて、コーラをらっぱ飲み。酔っ払ったあかりが訪ねてきて、さすがに手を止めるも介抱を済ませると、再び囲碁に戻った。

 

 今は『人をパンツ一枚にしておきながら』問題はさておき、一人暮らしを始めてからヒカルが囲碁以外を、特に食を疎かにした出来事は過去に何度もあった。

 あかりはその度に『ご飯はちゃんと食べようよ!』と時には怒鳴って、時には呆れ果てるだけで済ませてきたが、今日ばかりは堪えきれない切なさが湧き溢れてきた。

 

 

「んっ!? ……あっ!? 起きたんだな。

 気分はどうだ? 吐きそうだったり、頭が痛かったりしないか?」

 

 

 あかりが居間の古い掛け時計を見ると、時刻は午前三時過ぎ。

 縁側へ無言で歩み寄り、空いているヒカルの対面に正座をすると、ヒカルは顔を碁盤から弾かれたように上げた。

 

 

「うん、平気」

 

 

 それがあかりをますます切なくさせた。

 ヒカルとは逆に眼差しを碁盤へと伏して、膝の上に置いた手で膝をギュッと握り締める。

 

 電話を幾ら鳴らしても気づかない。

 静まり返った深夜の廊下をドスドスと音を鳴らして歩いても気づかない。

 

 しかし、碁盤を間に挟んで相対した途端、たちどころに気づく。

 正しく、囲碁狂い。もしかしたら、この家が炎に包まれたとしても、自身に火が付くまで気づかない可能性さえ思える。

 

 

「そっか。それなら、良かった。

 いや、良くない。あんなに酔っ払うまで飲むなんてさ。もしかして、酒を飲むのは初めてか?」

「うん、初めて」

「馬鹿、ほどほどにしとけって……。酒なんて、義理程度で済ませておくのが一番なんだよ」

「お酒、ヒカルは飲んだ事があるんだ?」

「まあ、誕生日は過ぎているし、仕事で断れない時もあるからな。

 ……って、俺の事は良いんだよ!

 津田とかと久々に会えたからって、お前は女なんだからさ! ほんと無事に帰ってこれて良かったよ!」

「うん、もう二度と飲まない」

「いや、良いんだよ! 飲んだってさ!

 ただ、ほどほどにしておけって言ってるんだ!

 大変だったんだぞ? お前が騒ぐから近所の人達が出てきたり、向かいの奥さんにお前の着替えを頼んだりさ!」

「うん、ごめんね」

「おう、明日の朝って……。もう今日か。

 とにかく、世話になったんだから、駅前の和菓子屋で菓子折りを買ってから、一緒にお礼を言いに行くぞ」

「うん、そうだね」

 

 

 ヒカルはいつも以上に早口で多弁だった。

 成人式をすっぽかした負い目からあかりを真っ直ぐに見れず、その目線は忙しなかった。

 

 一方、あかりは視線を沈めて、完全に俯いた。

 問題視していたブラジャーに関する答えを追求せずとも得られて安堵はするが、ヒカルの浮気を疑ってしまった分、気分は曇った。

 

 

「良し、話は終わり!

 おばさんには泊まるって連絡をしてあるから安心しろ。

 風呂はどうする? もう温くなっただろうから、少し時間がかかるけど?」

 

 

 そんなあかりがヒカルは怖かった。口汚く罵ってくれた方がましだった。

 取りあえず、言いたい事は言った為に間が持たず、胡座をかく膝を右手で叩き、立ち上がろうと両手を突きながら腰を浮かす、

 

 

「ねえ、ヒカル?」

「お、おう……。な、何だ?」

 

 

 だが、あかりが許さない。

 俯いていた顔を上げ、ヒカルはその真顔の中にある暗い眼差しに射抜かれて、身体をビクッと震わせると、正座で座り直した。

 

 

 

 ******

 

 

 

「ヒカルはさ……。寂しくないの?」

 

 

 あかりはやっとの思いで言葉にした。

 己の内に渦巻くモノをどう表現したら良いかが解らずに悩んだ。

 

 もしかしたら、ヒカルとの関係が終わってしまう。

 そんな不安を抱きながらも、ヒカルが碁を縁側で打つ姿を目の当たりにした瞬間に感じた感じたありのままを伝えた。

 

 

「えっ!?」

 

 

 ヒカルは思ってもみなかった問いかけに戸惑う。

 成人式のすっぽかしからあかりが対面に座るまでの非を全面的に認めて、どんな罵倒も受け止めようと覚悟を決め、身構えていだだけに。

 

 なにしろ、ヒカルの罪は裁判長、裁判官、陪審員が全会一致で有罪判決を出す罪深さ。

 成人式のすっぽかしを知った真向かいの奥さんから小一時間ほど叱られて、その去り際に『あかりちゃんが起きた時に寝ていたら、本当に愛想を尽かされるから、今日は朝まで起きていなさい。そして、あかりちゃんが起きたら土下座して謝るのよ?』という助言を受け、それをいつでも実行が出来るように待っていた筈だったにも関わらず、どうにも手持ち無沙汰で棋譜をちょっと並べるつもりが結局は夢中になってしまい、成人式すっぽかしと同じ過ちを繰り返している。

 

 

「今日、たくさん聞かされたよ。楽しそうな話をね。

 彼氏が出来た。彼氏とこんな事、あんな事があった。旅行でどこそこへ行った。

 ううん、彼氏が居なくても楽しそうだった。誰かイケメンを紹介してよって、笑ってさ。

 そうだ。中学の囲碁部で一緒だった三谷君を覚えている?

 彼、もう結婚しているんだよ? それも出来ちゃった婚でさ。今日一番のびっくりだよ。

 一緒に連れてきた一歳半になる女の子をちょっとだけ抱かせて貰ったけど……。可愛かったなぁ~~……。」

 

 

 ヒカルに対する不満は有れども、懐かしい旧友達との再会が本当に楽しかったのだろう。

 あかりは微笑みながら今日の思い出を語り、その言葉の一つ一つが心にグサリグサリと突き刺さり、ヒカルは顔を引きつらせながらも懐かしい名前の近況に驚き、今更ながら成人式へ行けば良かったと後悔する。

 

 

「でも、ヒカルときたら来る日も来る日も碁盤とにらめっこ。

 中学の頃からずっとそう……。今日だって、そうだったんでしょ? 解るよ……。

 でもさ、ご飯はちゃんと食べよ? どうして、パンとコーラだけで済ませちゃうの?

 それも朝に私とヒカルで三枚食べているから、残りの二枚とあとはコーラだけ……。

 足りない、全然足りないよ。ダイエット中の私ですら、もっと食べているよ。

 ヒカルはお金を持っているでしょ? 困ってないでしょ? お寿司でも、鰻でも、毎日食べても平気なくらいさ。

 もっと美味しいものを食べよ? 外へ出かけるのが面倒なら出前を取ったら良いじゃない。もっと自分を大事にしようよ?」

 

 

 そして、ヒカルが一人暮らしを始めてから何度か繰り返されてきた小言。

 だが、あかりはいつものように声を荒げたりはしなかった。淡々と語り、ヒカルはいつものように『解ってる、解ってるって』と軽く流せず、真っ直ぐに覗き込んいるあかりの眼差しが耐え難くて、顔を背ける。

 

 

「おばさん達には内緒にしているけど……。私、知ってるんだよ?

 ヒカル、十二月にあった天元戦の第四局で倒れたんだってね?

 棋院のお医者さんに呼ばれて叱られたよ。今のままの生活習慣を続けたら駄目だって……。確実に寿命は縮むし、大きな病気になったら危ないって……。」

 

 

 その瞬間、あかりの淡々とした口調が変わり、震えが声に混じった。

 ヒカルは隠していたというよりも放置していた秘密を知られていた驚きもあり、視線をあかりへ戻すと共に『何故、それを?』と口に出そうとして、涙を瞳に溜めながら瞼を揺らしているあかりに言葉を失う。

 言い訳を探すも見つからず、苦し紛れに『違う! 倒れたんじゃない! 立ち上がろうとして、立ち上がれなかっただけ! 周りが変に騒いだだけだ!』と反論しようとしたが、それもあかりの涙が遂に零れ落ちると封じられた。

 

 

「みじめ……。ううん、悲惨だよ。

 私が誘わなかったら、遊びに出ようとしない……。

 私がご飯を作らなかったら、そんなパンやカップ麺ばっかり……。

 私がこの家へ来なかったら、囲碁、囲碁、囲碁……。一人暮らしを始めてすぐに寝不足で倒れたよね?

 ねえ、そこまで身を削る価値が本当にあるの? 私達はまだ二十歳だよ? それなのに死ぬかも知れないって、お医者さんに心配されるのって何なの?」

 

 

 あかりは我慢していた感情を一度吐き出すと、あとはもう止まらなかった。

 涙をポロポロと零して、それを拭いながら言葉の合間に嗚咽。ヒカルはあかりが泣く姿に、記憶すら朧気になっている小学校低学年だった頃以来の姿にどうしたら良いかが解らなかった。

 

 しかし、あかりが自分の身を心の底から案じてくれているのは解った。

 そのまごころを包み隠さずに見せてくれたのだから、こちらもまごころを包み隠さずに見せなければならない。ちょっとでも誤魔化したら、それはあかりに対する侮辱と考えて、ヒカルは視線を碁盤へ注ぎながら自分の中の言葉を探す。

 

 

「俺はさ。金やタイトルが欲しくて、囲碁を打っている訳じゃないんだ。囲碁が好きだから打っているんだ」

「そんな事……。そんな事、解ってるよ。でも、でも……。」

「今日、あかりが聞いてきた自慢話とは違うかも知れないけど……。

 俺は俺なりに燃えるような充実感を何度も味わってきたよ。……碁盤の上でな。

 勿論、苦しい事の方が多いさ。負ければ、悔しくて悔しくて眠れない事も有る。

 でも、ここ以外に無い。そんな一手が決まった瞬間……。そう、あの一瞬だ。

 ぷすぷすと燻る不完全燃焼じゃない。一瞬だけど、眩しいほど真っ赤に燃え上がるんだ。

 そして、あとには真っ白な灰が残る……。燃えカスなんて残っていない。真っ白な灰だけ……。」

 

 今度はあかりが言葉を失う番だった。

 身を案じているのに、死を許容するかのようなヒカルの発言に嗚咽を止めて、息を飲む。

 堪えきれない笑みを懸命に堪えて、肩を微かに揺らしながら口の端に笑みを描く姿に至っては怖いと、この先の人生はヒカルに付いていけないとすら感じた。

 

 

「ははっ……。そうだ。あいつだって……。あいつだって、きっとそうだったんだ」

 

 

 だが、ヒカルが大事な何かを初めて見つけたように目をハッと見開き、視線を碁盤から弾き上げた瞬間。

 ヒカルの不気味な笑みが本当に嬉しそうな笑みへと変わり、あかりにはそれが一人で棋譜を並べている時にヒカルがたまに見せる微笑みと重なって見えた。

 同時にヒカルが顔は自分に向けながらも、視線は左隣の先へ向けているのが解り、思わずあかりはそちらを振り向くが、こんな深夜に当然の事ながら誰かが居る筈はない。

 

 強いて言うなら、そこに有るのは満月に照らされた庭の古い蔵だけ。

 ただ、ヒカルは過去形『だった』を用いた。あかりはヒカルがいう『あいつ』はもうヒカルの傍に居ないと解った。

 

 もう一つ、そこまで考えて気付く。

 今、ヒカルが浮かべている微笑みは、あかりの祖母が亡くなった祖父を語る時に浮かべる微笑みと良く似ている事に。

 

 

「あいつって……。塔矢君じゃないよね?」

「ああ、違う。でも、そうだな。

 いつか……。そう、いつか……。今まだ無理だけど、笑って話せるようになったら、お前にも教えるよ。あいつの事を……。」

 

 

 その確認の為、あかりが自分以外のヒカルに最も近い『塔矢アキラ』の名前を出してみると、正解だった。

 この瞬間、あかりはずっと今まで疑問を持ちながらも、それをヒカルに強く問い詰めたりしなかった答えも得た。

 

 そもそも、ヒカルは囲碁を嗜んでいなかった。

 大抵の男の子がそうであるように野球やサッカー、ドッチボールといったスポーツを好み、晴れていたら家の中で遊ぶより外で遊ぶアウトドア派だった。

 

 それが小学生六年の頃、唐突に変わった。

 あかりにとって、ヒカルが囲碁教室へ通い始めただけでも青天の霹靂だったのが、中学校に進んでからは廃部同然だった囲碁部を立て直して、プロ予備軍の院生となり、中学校二年生の時にはプロとなった。

 

 この間、たったの二年弱。さぞや、濃密な時間だったに違いない。

 男なのか、女なのか、何処で知り合ったのか、年齢は幾つなのか、その全てが不明でも普通なら絶対に有り得ないその道を導いたのが、ヒカルが言う『あいつ』であり、その人は中学校三年生の春に亡くなったのだろう。

 この推測が正しいとするなら、ヒカルが同時期に酷く憔悴して、あかりを始めとする親しい者すら寄せ付けなくなり、せっかく苦労してなった囲碁棋士の仕事を休み続け、囲碁そのものから暫く離れて理由があかりは納得が出来た。

 

 

「解った」

 

 

 思い出は常に美化されてゆくもの。

 あかりは『あいつ』に勝てないと悟ったが、相手が死者なら勝敗にこだわる必要は無いと決断して立ち上がり、ブラウスのボタンを外してゆく。

 

 

「えっ!? あっ!? お、おいっ!? ……な、何をっ!?」

 

 

 ヒカルはいきなり服を脱ぎ始めたあかりに大慌て。

 素早く立ち上がって、右足を下げる。やや仰け反り、交差した両手を顔の前にかざして、見ていないアピールと制止を促すアピールを懸命に行う。

 

 しかし、あかりは止まらない。

 ブラウスを脱ぎ捨てて、その場にスカートを落として脱ぎ、遂にブラジャーまで外す。

 そのまま間一髪を入れず、離れたヒカルとの距離を詰める為に碁盤を跨ぎ、両端を持ったブラジャーをヒカルの頭の上からその首に引っ掛けた。

 

 

 

「あかっ、んんっ!?」

 

 

 完全に理解の範疇を遥かに越えたヒカルは目を白黒させるが、あかりはまだ止まらない。

 ヒカルの顔をブラジャーで自分の顔に引き寄せると、唇を唇に重ねると同時に強行突破。ヒカルの口内を蹂躙してゆく。

 

 

「ヒカルの一番目はその人にあげる。

 だから、私に二番目を頂戴。……良いよね?」

 

 

 その夜、ヒカルとあかりは幼馴染から恋人になった。

 

 

 

 ******

 

 

 

「ヒカル! ヒカル! 起きて! 起きてよ!」

「んぁっ……。もう朝か?」

 

 

 意識は覚醒へと向かっているが、まだまだ寝たりないと感じる幸せな微睡みの最中。

 ヒカルは身体をゆさゆさと激しく揺すられて、ぼんやり眼を開けてみれば、己を覗き込んでいるあかりが目の前に居り、自然光の明るさに時刻を実感する。

 

 

「もう朝か、じゃない! ご飯を早く食べて! 遅刻しちゃうよ!」

「はいはい」

 

 

 だが、身体は付いて行けずに寝転がったまま。

 そんなヒカルに焦れて、あかりが片膝をベッドに乗せる。

 強かった語気をより強め、ヒカルを強引に起こそうと左手を寝ているヒカルの右肩に伸ばしたところ。

 その手首を掴まれた上、ヒカルのもう一方の手で首の裏を掴まれ、引き上げる筈が逆に引き寄せられる。

 

 

「えっ!?」

 

 

 一度目は軽く、二度目は深く深く。

 唇と唇が一瞬触れたキスの後、あかりが驚きのあまり口をぽかりと開けた隙を突いて、ヒカルが今一度のキス。ヒカルの舌があかりの口内に侵略を開始する。

 

 起床時のキスは、ヒカルとあかりが結婚した初夜の翌日に決めた二人の約束事。

 あかりが囲碁ばかりのヒカルに対する不安がどうしても拭いきれず、己が愛されている実感を得たくて、毎朝の再確認に選んだ手段である。

 

 ヒカルはこの約束を守り続けてきた。

 結婚生活が十年を重ね、二十年を重ね、三十年を越えても。

 もし、お互いの他に誰かが傍にいる時はさすがに控えるが、朝食前までに場所を変えて行う。その為の時間をあかりも積極的に作っていた。

 

 当初は寝ぼけのぎこちなさがあったキスも今は匠の技。

 手を替え品を替え、あかりが悦ぶところを熟知しているヒカルの舌は攻めに攻め、すぐにあかりは瞳を潤ませての夢心地。頬を桜色に染める。

 

 今朝はあかりの反応がやけに良い。

 ヒカルは顔に吹きかかるあかりの荒い鼻息にこそばゆさを感じながら、自分自身の反応に驚いていた。

 高校生になったあかりを初めて女性として意識し出した頃の十代のような滾りが漲り、それがはち切れそうになっていた。

 

 ヒカルとあかりは夫婦生活を重ねてゆく上で一つの工夫があった。

 それは起床時のキスが済んだ後、ヒカルが求めて、あかりが応じたら、キスの先にステップを進めるというものだ。

 他人が聞いたら『朝っぱらから?』と驚くかも知れないが、これはヒカルが囲碁棋士という特殊な職業に就いている故の工夫である。

 

 囲碁棋士は勝敗の結果がそのまま人気に繋がり、年収に直結する厳しい世界。

 対局中は勝つ為の一手を常に模索し続けて、負けてなるものかと気力を保ち、対局が終わった時は疲労困憊。時にはたった一局の対局が体重を激減させる。

 

 それ故、自他とも認める囲碁馬鹿のヒカルが一番元気なのは朝になる。

 結婚後、子供が一日も早く欲しかったあかりは夜がままならずに悩み、塔矢アキラ夫人に相談。同じ悩みを抱えていた同志と知り、次は囲碁棋士の妻で大先輩の塔矢行洋夫人に相談した結果が、この塔矢アキラという確かな実績例を持った工夫だった。

 

 おかげで、子供をあかりは長女、次女、長男の順に、塔矢アキラ夫人は長男、長女の順に授かり、子宝に恵まれている

 ただ、彼等彼女等が成長して年頃になると、たまに両親のどちらもが朝に自室の鍵をかけて三十分ほど籠もっている理由を察して、いつまでも仲が良い両親を嬉しく思う一方、やはり『朝っぱらから?』と呆れている現実をヒカルも、あかりも、塔矢アキラも、塔矢アキラ夫人も知らない。

 

 

「……良いよな?」

「ふぇ?」

 

 

 いつしか、二人の体勢は入れ替わっていた。

 あかりの上に覆い被さったヒカルがキスを止めて、唇をあかりの首筋に沈めて問いかけるが、あかりから明確な返事はない。

 

 しかし、ヒカルはあかりが応じてくれたと判断した。

 もし、あかりの体調的な都合が悪かったり、何らかの理由で朝の時間に余裕が無い場合、あかりは拒否を強くきっぱりと表して、断固として応じないからだ。

 もう辛抱が堪らなかったヒカルは己の印をあかりの首筋に刻みながら、右手を本丸へと一気に進軍させる。そう言えば、随分とご無沙汰だったと反省しながら。

 

 

「ぴゃあっ!?」

 

 

 あかりは驚愕のあまり顎が抜けそうなくらいに口を開ききった。

 ヒカルの右手が閉じていた両足の間に割って入った瞬間、全身をビクッと震わせて。

 スカートの中に潜り込んだヒカルの指先が自分の大事なところに触れられた瞬間、伸ばしきった手足の指をそれぞれ目一杯に開いて。

 

 

「……って、あれ?」

 

 

 暫くして、ヒカルは違和感を感じた。

 いつもなら、ここであかりが腰を浮かしてくれて、ショーツを脱がせやすいように協力してくれる筈が身を固くして動かない。

 

 ならばと城門上の櫓を二度、三度と攻めて、合図を送ってみるも結果は同じ。

 思わず視線をスカートが捲れ上がって乱れたそこへ向けてみると、あかりはショーツと呼ぶよりはパンツと呼べる下着を履いていた。

 

 それも娘達が子供の頃に着用していたような可愛い柄のパンツだ。

 何故、こんな年甲斐もないパンツを履いているのだろうかと。もしや、ご無沙汰が過ぎて、それを解消する為に試みた新たな刺激だろうかと考えた次の瞬間。

 

 

「あっ!? そ、そうだった!」

 

 

 小学校六年生の少年『進藤ヒカル』は目をハッと見開いた。

 慌てて右手をあかりの股間から引き抜き、覆い被さるあかりの上から退こうと上半身を勢い良く起こす。

 後退ろうとして、ベッドの縁を踏み外してしまい、床に尻もちをついた勢いのままに後頭部を床へ強かに打ち付ける。

 

 それはのたうち回りたくなる痛さだったが、ヒカルは即座に立ち上がった。

 視線を右に、左に、背後にと何度も忙しなく移して、現状を正確に把握。取り返しがつかない大失敗をやらかしてしまったと悟る。

 

 この部屋はとうの昔に物置部屋と化していた筈だった。

 主にヒカルの父親が趣味にしているゴルフグッズが置かれており、謎の健康器具や大小様々な段ボールが置かれていた。

 

 ところが、それ等が今は一つも見当たらない。

 この部屋は誰かが今現在進行形で使っている気配があった。

 

 日常で見かける事すらなくなった筈のブラウン管テレビやビデオデッキ、CDラジカセ、ゲーム機。

 本棚には『そうそう、これを読んでいたよな』と遠い思い出に浸れる漫画が並び、極めつけは背後の学習机の上に置かれたランドセル。学校に教科書とノートを置きっぱなしにして、ほぼ中身が空で乱暴に扱うから潰れかけたソレは、ヒカルが小学校卒業まで愛用していた品で間違いなかった。

 

 百歩譲って、これ等の骨董品がヒカルを驚かせようとする手の込んだ悪戯だとする。

 だが、ベッドの上に居る小学校六年生の少女『藤崎あかり』だけは絶対に本物。誰よりもあかりの傍に居続けたヒカルだからこそ、それが解った。

 

 

「あ、あかり、ごめん! ほ、本当にごめん! お、俺、寝ぼけてた!」

 

 

 だったら、もう結論は一つしかなかった。

 ヒカルはその場に土下座。額を床にドンッ、ドンッ、ドンッと音を立てて叩き付ける。

 

 

「はわっ、はわわわわっ……。」

 

 

 しかし、あかりは驚き固まったまま。

 天井を見開いた目で見つめ、ヒカルへ視線すら向けない。捲れ上がって乱れているスカートを直そうとすらせず、パンツを披露中。

 

 

「わ、解っている! ゆ、許されないって解っている!

 で、でも、許してくれ! お、俺だって、訳が分からないんだ!

 い、いや! た、確かに言ったよ! も、もう一度、佐為に会いたいって!

 だ、だけどさ! ま、まさか、本当にそうなるとは思わないだろ! 

 ……と、というか、今更だ! お、俺、五十五だぞ! お、おかしいだろ! ど、どうなっているんだよ!」

 

 

 ヒカルはこうなったらと土下座ならぬ、土下寝を決行。

 これは歳をとっても浮世を流し続けている囲碁棋士の悪い後輩『門脇龍彦』から学んだ土下座の上位。

 気をつけの姿勢でうつ伏せとなり、床に向かって謝罪を必死に叫んでいると、あかりがこの部屋へ訪れた時から開けっ放しになっているドアの向こうから、階下に居るヒカルの母親の怒鳴り声が聞こえてくる。

 

 

「何を騒いでいるの! 早く下りてきて、朝ご飯を食べちゃいなさい!

 あかりちゃん、もう放っておいて良いわよ! 学校に遅刻しちゃうから!」

 

 

 この日、あかりは学校を休んだ。

 夜、あかりの姉を除いた進藤家と藤崎家の両家が進藤家に集まっての緊急会議が開かれ、ヒカルは開口一番にあかりへプロポーズを決行。その本気度の高さに話し合いは深夜にまで及んだ。

 

 

 







 解る人には解ってしまうある名作のパロディを含んでいます。
 負けヒロインという言葉があるようですが、私は主人公がぽっと出のお嬢様と結ばれるより主人公の傍にずっといた幼馴染と結ばれる古き良き王道展開が好きです。


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