ウマ娘SS集 作:SS制作マシーン
気霜と紫煙
トレセン学園のトレーナー室と言えば、常に緊張の糸が張り詰めている空間をイメージする人が多い。壁一面に張られたレースのデータを前に、トレーナーと担当ウマ娘が難しい顔をして意見を交わすのだ。
しかし、そのような光景が見られるのはレース前くらいのものだ。現に今とあるトレーナー室では、トレーナーと担当ウマ娘であるドリームジャーニーとの間でゆったりとした時間が流れていた。
「やっぱり注目するのは3番の娘だな。走り方がジャーニーに似ているし、途中の位置取りを間違えなければ勝てたはずだ」
「なるほど、やはり私とトレーナーさんとでは視点が違いますね。私としては7番が注目に値するかと思います」
話題は先日東京レース場まで足を伸ばして見た、ウィンタードリームトロフィーの決勝戦だ。トゥインクル・シリーズを好成績で駆け抜けたウマ娘だけが走ることを許される舞台は、見るだけでも多くの学びを得ることができる。
ビデオ画像を前にしばらくの間先達の公開トレーニングや戦略について語り合い、ふと訪れた沈黙。互いの意見を出し合った印である心地よい瞬間に、ドリームジャーニーはふと浮かんでいた疑問をトレーナーへとぶつけた。
「そういえば、トレーナーさんは煙草は嗜まないのですか?」
「突然だね。なんで煙草を?」
もっともな疑問がトレーナーから漏れた。スポーツに関わるウマ娘にとって、肺に影響を及ぼす煙草は禁忌と言える。当然ここトレセン学園では厳格な分煙体制が敷かれており、ウマ娘たちが煙草にを目にすることもまず無いはずだ。
「先日の帰り道、喫煙者の方とすれ違ったでしょう。かなり強いニコチンの匂いだったのに、トレーナーさんは反応していなかったでしょう。
タバコと縁がない人は大なり小なりニコチンの香りになにかしらの反応があるものなのにと、少し気になりまして」
「ああ、なるほどね」
学園生活で見ないようにしても、日常生活から煙草をすべて排除することは不可能だ。テレビや映画で見ることもあるだろうし、今ドリームジャーニーが言ったように街中で実物に遭遇することもある。
「して、トレーナーさんは煙草を嗜まないのですか?」
内心納得した様子のトレーナーへ、ジャーニーは重ねて質問した。
どこか言いにくそうに口を動かした後、トレーナーは観念したように話し始めた。
「言いにくいんだけど、昔吸ってたことがあってね」
「と、言いますと?」
「今はちょっとね」
こてんと首を傾けたジャーニーへ、トレーナーははにかんで答える。
「トレーナー試験を受ける前までは吸ってたんだけどね。試験合格の願掛けも兼ねて禁煙したんだ」
「なるほど。行為を対価として神に願うのは一般的な話ですし、どこかトレーナーさんらしいですね」
クスリと笑うジャーニーから、トレーナーは露骨に視線を逸らした。そんな隙だらけの行動を見逃すドリームジャーニーではない。
「試験に合格し、こうして中央トレセンに勤めている以上その願掛けも必要無いですね。
今は吸っていないんですか?」
ジャーニーの追求に、トレーナーは苦笑する。
「少なくとも頻繁に吸う気にはならないし、吸うとしても絶対にウマ娘たちへの影響が出ない場所で吸うね」
「お優しいですね。やはりあなたは思いやりのある人だ」
クスクスと笑うジャーニーに、トレーナーもつられて笑う。
「しかしジャーニーから煙草の話題が出てくるとは思わなかったよ。正直驚いた」
「そうですか。友人からは細巻き煙草や煙管が似合うと言われたこともあるのですが」
悪戯っぽい笑みのジャーニーに、トレーナーは脳内で煙管を持たせてみた。意外なほど似合う光景に笑みが引きつる様を、ジャーニーは楽しそうに眺めている。
「何を考えたのかわかりますよ、トレーナーさん。
今度伝手に頼んで見栄えがいいものを一本用意しましょうか?」
「それを持っているところを見られでもしたら、君に余計な噂が立つだろう?
見せてくれる気持ちは嬉しいけど、流石にリスクが大きいよ」
「それは残念ですね。実物を見たトレーナーさんの感想を聞きたかったのですが」
「気持ちだけ受け取っておくよ。
さて、そろそろいい時間だ。寮まで送ろうか?」
すっかり日が沈んだ学園の庭を見ながら提案するトレーナーへ、ジャーニーは首を横に振った。
「気持ちだけ頂いておきます。そう長い距離ではないですし、学園内で危険もないでしょうから。
少し一人で歩きたい気分でもありますので」
「わかった。
じゃあ、おやすみ。暗いから気を付けてね」
「はい。おやすみなさい。
また明日、決勝戦の解析をしましょう。今日は私の質問で時間を無駄にしてしまったので」
「無駄なんてとんでもない。たまにはこういう話もいいものさ。
楽しかったよ」
「そう言ってもらえると嬉しいですね。
それでは、また明日」
手を振るトレーナーを視界に収め、ジャーニーは1人廊下を歩く。ふと吐いた息が白いことに気がつき、先ほどまでの会話が脳裏で再生された。
「あんなことを言って、程度はわかりませんが今も吸っているでしょうに」
普段の交流でトレーナーからニコチンの匂いを感じ取ったことはないが、ジャーニーはトレーナーが未だ喫煙者と呼べる頻度で煙草を嗜んでいることを半ば確信していた。
根拠と呼べるものはない。しいて言うのなら、今はもう吸っていないと断言しなかったという程度だ。
論理的な彼女らしくもなく、ほとんど直観のみを頼りとしたと言っていい推測。だが、何故か彼女にはこの推測が的中しているという自信があるのだ。
「まあ、だからといって何が変わるというわけではないけれどね。
あの人が私に隠し事、か」
独り言ちつつ、ポケットを探る。先の会話で使おうと仕込んでおいたココアシガレットの箱を取り出し、一本咥えながら息を吐いた。
白い吐息が、まるで紫煙のように口元でくゆる。
「これこそ、見られれば誤解されかねないな」
先のトレーナーから受けた忠言を思い出しながらも、ジャーニーは咥えたココアシガレットを離そうとはしない。まるで本物の煙草のように、吐息と棒菓子を唇で弄びながらゆっくりと夜の廊下を歩く。
「……おや」
ふと視線を外すと、空に見事な月が浮かんでいた。満月には遠いが、中途半端な月齢こそ今の気分に相応しいだろうと口の端に笑みを浮かべる。
「あの人が私に真実を教えてくれるのは、いつになりますかね」
尋ねるように呟いた言葉と共に、ジャーニーは吐息を月へと吹きかけた。紫煙とは違い儚く消える気霜をどこか優しげな眼で追いながら、気分を切り替えるためにココアシガレットをポリポリと食べる。
時計を見れば、門限までそう遠くない時間になってしまっていた。
「これはいけない」
小走りで道を急ぎ、制限ギリギリで寮へと滑り込んだ。寮屋へと戻ると、オルフェーヴルがベッドでストレッチをしている。
「姉上、遅かったな」
「トレーナーさんと盛り上がってね。
ただいま、オル」
「ああ、おかえり。
……姉上、機嫌が良さそうだな。なにかよいことでもあったのか?」
怪訝そうなオルフェーヴルに、ジャーニーは首を傾げた。
「そう見えるかい?」
「普段よりも声が浮ついている。あの男と何かあったのか?」
「さすがオルだね。私の心境をこうもたやすく見破るとは」
「流石に今日の姉上はわかりやすすぎたぞ。
さて、何があったのか聞かせてもらおうか?」
「そう急かすものじゃないよ。今紅茶を入れるから」
そう言って茶葉を探す動作さえ、どこか浮ついているのだ。
そんな姉の後姿を見ながら、どのような話が聞けるのかとオルフェーヴルは内心期待を大きくしていた。
トレセン学園トレーナー寮の屋上に設置された喫煙スペースには、昼夜問わず一定数のトレーナーたちが屯している。月が昇った深夜であっても、数人のトレーナーが最近のレース事情について意見を交わしていた。
そこへ、一人の男性トレーナーが訪れた。重い扉を開き、軽く手を挙げて挨拶する。
「おお、ドリームジャーニーのトレーナーじゃないか。あれ、次に来るのは明後日じゃなかったか?」
「今日担当と煙草の話になりましてね。どうしても吸いたくなったんで、いつものように一本だけ持ってきました。明後日はお預けですね」
同僚とあいさつを交わしながら、ドリームジャーニーのトレーナーは慣れた手つきで煙草を咥え火をつける。今どき珍しいことに、手巻煙草に燐寸での着火だ。
「相変わらず洒落たもんを洒落た吸い方してるな。今度数本譲ってくれよ」
「結構巻くの手間なんですから、自分で挑戦してください。好みの葉を探すのも楽しいもんですよ?」
軽口を叩きつつ、紫煙を肺一杯に吸い込む。自らの好みに合わせた葉は、今日も丁度よい陶酔感を味合わせてくれる。
ドリームジャーニーとの会話で、トレーナーが一度も吸っていないと明言しなかった理由がこれだ。週に数度、決まった曜日に一本だけ楽しむ。ウマ娘たちに影響が出ない場所で、僅かな量を。
嘘こそついていないものの、誤魔化しとしては下手そのものだ。ドリームジャーニーにも愛煙家であることは見抜かれているだろうなと、ニコチンに酔う脳の片隅でトレーナーは考えを巡らせる。喫煙者であると知られても問題はないのだが、彼は何故かそれを知られたくなかったのだ。
「まあ、これもただの自己満足か」
いくら大人びていると見られていても、ドリームジャーニーは齢二十に満たない身の上だ。煙草などという百害あって一利もない存在と、未来ある少女を近づけたくないという感傷を元に、彼は誤魔化しにすらなっていない言葉遊びを貫いたのだ。
彼女のためを思っての行動であり、見破られているであろうと予測はついているものの、担当を欺いたことに変わりはない。どこか陰鬱な気分を現したように、トレーナーの視界は下がっていく。深く長い溜息と共に、肺にくゆっていた紫煙は細い軌跡と共に足元へと滞留した。僅かにでも足を動かせば霧散する白い煙は、しかし両足を拘束するかのように纏わりつく。
陰鬱な気持ちから逃れるように、トレーナーは固く目を瞑った。
「……これはいけないな。もう少し濃くなるように巻くべきだったか」
顔を上げ、目を開く。蛍光灯の光に勇気づけられるように、無理やり気持ちを切り替える。
「吸い終わったので、失礼しますね」
「おう、また今度な」
同僚と別れを済ませ、喫煙所のすぐ外に備え付けられた脱臭装置を使用する。ウマ娘の嗅覚を完全に欺くことは不可能だが、この後風呂に入り着替えも済ませるのだ。流石に翌日のトレーナーからニコチンの匂いを嗅ぎ取ることは、いかにウマ娘であっても不可能と断言できる。
「匂い消しと言えば、これもだな」
懐に忍ばせておいた瓶を取り出し、手首に一吹き。スモーキーな香りに包まれて、トレーナーは歩き出す。
その脳内では愛バに教えるべき走法や戦略が、形をとろうと煙のように渦巻いていた。