ウマ娘SS集 作:SS制作マシーン
ジャーニーの愛した旅路
この病院に通うようになってからどれほどの時間がたっただろう。病院の待合室に座るドリームジャーニーの脳裏に、ふとそんな疑問が浮かんだ。
何とはなしに周囲を見れば、壁にかけられたカレンダーが目に入る。見れば、もう少しで一年がたとうとしていることが分かる。
「私としては珍しいと考えだと思ったが、無意識というのは恐ろしい」
自分の惰弱な考えに眉を顰め、ドリームジャーニーは軽く頭を振る。まるで浮かんだ考えを振り落とそうとするその動作は、どこか弱々しいものだった。
「ドリームジャーニーさん、2番診察室へどうぞ」
「……はい」
そんな行為は、看護師からの呼び出しを受けて中断された。示された診察室へ入ると、もう見慣れた担当医とモニターが彼女を出迎える。
「お久しぶりですね、先生。彼の様子は……」
「お久しぶりです。外傷、脳内部の損傷共に経過は順調と言えます。本来であれば退院も視野に入るほどです」
間違いなく朗報である。子供を庇いトラックの衝突を受けたトレーナーは、頭部を中心に大きな損傷を負っていたのだ。僅かにでも打ちどころがずれれば即死もありえたという負傷を、僅か1年足らずで退院可能までに回復した。奇跡と呼んで差し支えないだろう。
しかし、それを伝える医師の表情は暗く、ドリームジャーニーも沈んだ雰囲気を隠せていない。
「それで、彼の記憶は……」
「それは……残念ですが……」
命を拾った代償ともいうのだろうか。トレーナーは、自らの記憶を保つことができなくなっているのだ。厳密にいえば、ドリームジャーニーと共に最初の三年間を駆け抜け、彼女が卒業する寸前で彼の時間は止まっている。
ドリームジャーニーの卒業に涙したことも、彼女の告白を受け入れたことも、共に将来を誓ったことすらも、彼の中には存在しないのだ。
「しかし、外傷が原因ならばすでに記憶は戻るはずですし、精神的なものならばいつ回復してもおかしくないのです。
大丈夫ですよ。彼は貴女のトレーナーなのでしょう? 私もウマ娘のファンですが、愛バを泣かせるトレーナーはいません。必ず彼の記憶は戻りますよ」
「そう、ですね。ありがとうございます」
担当医の励ましを聞きながらも、ドリームジャーニーは自分が上手く笑えているのか不安だった。一礼して診察室を後にし、看護師先導の元病室へと向かう。
病室を前にして、彼女は看護師へと質問を投げた。
「彼はどんな様子でしたか?」
「いつもと変わらず、貴女に心配をかけていないかと不安そうでしたよ。愛されていますね」
看護師の言葉に、ドリームジャーニーの胸の奥が僅かに暖かくなる。その温度に勇気づけられ、病室の扉を開く。
「看護師さん、なにか……ああ、ジャーニーか。ごめんね、わざわざ来てもらって」
「いいえ、気にしないでください。
……好きだよ。トレーナーさん。」
「ジャーニー! と、突然何を!?」
「……ああ、気にしないでください。ところで、昨日何をしていたのか覚えていますか?」
「え? ああ、それなら……」
週に一度の面会日。すでにルーティンと化してしまったやり取りの中で、ドリームジャーニーは僅かな希望と失意を繰り返す。もしかしたら思い出してくれているかもしれない。いや、昨日のことを覚えていてくれるだけでもいい。記憶を保つことさえできれば、またともに旅を続けて思い出を積み重ねることができるのだから。
しかし無情にも、トレーナーは記憶を保持する気配すらない。一週間前とほぼ同じやり取りの中で、ドリームジャーニーの心に空いた穴は少しづつ広がっていく。失意と絶望を餌に、諦めという怪物はその口を大きく広げる。
ひょっとしたらこのままトレーナーは治らないのではないか。もうあの日々を思い出すことも、共に歩むこともできないのではないか。そんな恐怖から目を逸らしながら、面会時間をいっぱいに使って彼女はトレーナーと会話を重ねた。彼の分も自分が思い出を持てるように。
「それでは、もう時間のようですので今日は帰ります」
「そうか。気をつけて帰ってね」
いつからだろうか。彼に記憶喪失の症状を伝えなくなったのは。卒業寸前の一日を繰り返す彼に、また明日も来るとだけ伝えて帰るようになったのは。彼の口から偽りの希望を聞き続けることに堪えられなくなったのは。
病院からの帰り道。本来であればトレーナーと共に過ごすはずのマイホームへの帰路。僅かに暖かさを感じる風に含まれた仄かな香りが、ウマ娘特有の鋭い嗅覚を擽った。ふと顔を上げると桜の枝についた蕾が僅かに綻んでいる。
「もう、春か……」
言葉の意味とは裏腹に、その声音はどこまでも冷たい。僅かに抱いていた希望もほとんど擦り切れ、先の見えない旅路はこんなにもつらいものなのかと自嘲気味に笑う。
ふと、再び吹いてきた風の香りが気になった。そして彼が入院してから香水をつけていないことを思い出す。至極当たり前のことではあるのだが、彼と自分を繋ぐものが失われてしまっていたということに、そしてそれに気がついていなかったという事実に少しばかり落胆する。
「瓶だけでも、渡そうかな」
ドリームジャーニー愛用の香水は、学生時代からトレーナーに渡している。彼が入院してからは総量が減っていないものの、彼女が使っている瓶に中身を移してしまえば空になる程度には減っている。中身をよく洗って香りを消せば、病院側も許可をくれるかもしれない。
気を紛らわすことにもなるだろうと、彼女は段取りを脳内で組み立てながら帰宅した。
一週間後、ドリームジャーニーは空の香水瓶を鞄に忍ばせて病院へと向かっていた。視界の端では桜が満開に咲き誇っており、抜けるような青空の元華やかな風景を周囲に提供している。それだけで彼女の重い足取りは、少し軽いものへと変わった。
現金なものだと自嘲しながら受付を済ませ、担当医とのやり取りを済ませた。そして病室へ向かおうと席を立ったところで、珍しく医師が彼女を呼び止めた。
「今日は外出許可を出しておきました。少しこの辺りを散歩してみてはどうですか?」
「それは、いいんですか?」
「ええ。彼は肉体的にはもう完治と言っていい状態です。何かのきっかけで、記憶が戻るかもしれません。
ちょうど病院からそう離れていない場所に、桜の見事な公園があります。そちらへ行かれてみては?」
「……では、行ってみることにします」
何を楽観的なと内心どす黒いものを抱えながら、ドリームジャーニーは診察室を後にした。とはいえ、なにが好転の材料になるのかわからない今、何かを試すことは悪くないだろう。
「本当に?」
その声に、ドリームジャーニーは思わず足を止めた。他でもない、彼女自身の声だ。
「それでトレーナーさんがよくなると、本気で思っているわけじゃない。また失望するだけ。何かをすることで自分を満足させたいだけだろう」
自分の内から湧き出るマイナスの言葉を踏みつけるように、ドリームジャーニーは足を動かす。訝し気にこちらを見る看護師へ大丈夫だと返答し、トレーナーが待つ病室へとたどり着いた。
「ジャーニーか。……どうしたんだい、なんか不安なことでも?」
開口一番、こちらを気遣うようなトレーナーの言葉にドリームジャーニーは虚を突かれ、目頭が熱くなった。自覚がないとはいえ、どこまでも彼女を気遣うトレーナーの言葉は、彼女の柔らかい部分を深く切り裂いたのだ。涙を見せないよう、ドリームジャーニーは咄嗟に咳ばらいをし気を紛らわせる。
「つまらないことですので、気にしないでください。
トレーナーさん、来て早々ですが気分転換に一緒に散歩をしませんか? お医者さんからも、少し体を動かしたほうがいいと外出許可をいただきました」
「いいけど、ずいぶんと突然だね」
彼女らしくない少々強引な誘いにも、トレーナーは嫌な顔をせずに了承した。
着替えを済ませたトレーナーと共に病院を出発し、5分もかからずドリームジャーニーは担当医の勧めた公園に到着する。
「すごい桜だね。空よりも花の方が多い」
「ええ、ここまでとは思いませんでした」
満開の桜に彩られた公園は、平日の昼ということもあってか人気が無い。夕方にもなれば屋台や花見客が増えるのかもしれないが、今は貸し切りと言える。
「そういえば、珍しい恰好をしているね」
トレーナーからかけられた言葉は、ドリームジャーニーの心を僅かに突き刺した。学生時代とは違い、トレーナーと共に選んだ服。何かのきっかけになるかと選んだ服は、彼からすれば初めて見る服ということになる。
「ええ、新しい服なんです。あの、変でしょうか?」
「いやいや、そんなことない! 似合ってるよ」
照れているようで、トレーナーは視線を逸らしながら顔を赤くしている。嬉しくも悲しい感情を押さえつけながら、ドリームジャーニーは鞄から香水の瓶を取り出した。
「トレーナーさん、これを」
「これって、香水瓶じゃないか。
あれ、中身は?」
「入院中に香りを振りまくわけにもいかないでしょう。あなたも普段使っているものですし、せめて瓶だけでもと思いまして」
「ああ、たしかにこれがあれば寂しくなさそうだ。ありがとう、ジャーニー」
笑顔のトレーナーを見て、ドリームジャーニーの胸が詰まる。そんな心境を察したように、春風が吹き桜が揺れた。人にも感じ取れるほどの桜の香りが周囲を見たし、ドリームジャーニーが愛用する香水の香りが掻き消されるような錯覚が彼女を襲う。
彼と自分を繋ぐスモーキーな香りが、消えていく。
「と、トレーナーさん!」
「……ジャーニー?」
反射的に抱き着いたジャーニーを、トレーナーは戸惑いながらも受け止めた。混乱する彼女を落ち着かせるため、しゃがんで視線を合わせる。
トレーナーが口を開く前に、ドリームジャーニーは叫んでいた。
「好きです、トレーナーさん! 例え貴方が覚えていなくても、明日にはこのことを忘れてしまっていても、私はあなたが好きです!」
彼女らしくない感情をむき出しにした告白。何かをかえそうとするトレーナーを遮るように、再び風が吹く。
「……」
「……」
沈黙が場を満たし、ドリームジャーニーの心の穴がまた少し大きくなる。これもまた無駄な行為なのだと。明日にはこのことも忘れ去られ、来週にはまた学生時代の続きを演じなけらばならないのだと。
ドリームジャーニーを受け止めたトレーナーが、突然力強くドリームジャーニーの細い体を抱きしめた。
「トレーナー、さん?」
「ジャーニー、俺も好きだよ。これまでも、勿論これからも。
お花見の約束に1年遅れちゃったね」
聡明な頭脳を持つ彼女らしくもなく、ドリームジャーニーはトレーナーが何を言ったのかわからなかった。だって、その約束はトレーナーが失った記憶の中にあるはずのものなのだから。お花見会場の下見の途中で、トレーナーは事故にあったのだから。
「あ、ああ……」
「ごめん、この1年のことも全部思い出した。ありがとう、僕を待っていてくれて。信じてくれて」
「そんな、私は、もう信じきれなくて、もう、もどらないかもって……」
理解と共に、ドリームジャーニーの涙腺からとめどなく涙が溢れる。桜を見る約束が鍵だったのか、香水の瓶がきっかけだったのか、散歩が刺激となったのか。そんなことは彼女にとって些細なことだ。
「お、おかえり……なさい……」
「ただいま、ジャーニー。待たせてごめんね」
桜吹雪が祝福するように舞う中で、2人は固い抱擁をいつまでも続けていた。