神奈川県横浜市金沢八景駅。
下北沢から約二時間半。
距離にして約五十キロメートルの道のりを全力スプリントして辿り着いた場所で、俺は息を切らしながら空を見上げていた。
「はーしんど」
金欠を極めた俺が電車なんて贅沢な移動手段は取れなかったので、仕方なくフルマラソンレベルの道のりを走り切るという強硬手段に出ていた。
ここまでして金沢八景まで訪れた理由は何も海の公園に来たわけでもなく、シーパラダイスに来たわけでもなく、琵琶島神社にお参りに来たわけでもない。
風邪をひいた後藤さんのお見舞いに来たのだ。
初日のバイトを終えた後藤さんの様子を見ようと、翌日一年二組の教室を訪れた俺は、後藤さんが風邪をひいてしまい休んでいるという情報を、二組の担任から聞かされた。
クラスメイトに聞いても誰も後藤さんの存在を知らなったのは、なんだか後藤さんのクラスでの立ち位置を暗に知ってしまった気がして申し訳ない。まぁ、なんとなく予想出来ていたことではあるが。強く生きてくれ、後藤さん。
「にしても後藤さんすごいな。毎日ここから通学してんのか」
金沢八景から秀華高校までの通学は、なかなかの距離だ。前にも聞いてはいたが、実際自分も秀華からここまで来るだけで気が滅入った。これは後藤さんが中退したくなる気持ちも理解できる。いやまぁ、流石に後藤さんは電車通学だろうけど。
「適当にゼリーでも買ってくか」
手ぶらでお見舞いに行っても仕方ない。風邪でも食べるのに負担なさそうなもんでも買って行こう。
俺が後藤さんの家へとお見舞いへと行く理由は優しさからではなく、単純に消去法だった。
【後藤さんの家に様子を見に行く】
【喜多さんの家に突撃ドッキリ】
【虹夏さんの家に引っ越す】
いつものように現れた選択肢の中から、最も常識的な選択だ。
余り交流がある訳でもない喜多さんの家に突撃するのは論外だし、虹夏さんの家に引っ越すのも現実的ではない。三つの選択肢の中から、最もマシな選択肢を選んだに過ぎない。
虹夏さんの家に引っ越しに少しは惹かれはしたが、流石に俺もまだ人としての常識は備えているつもりだ。人様の家に迷惑をかけることはご法度だろう。
後藤さんの自宅は知る由もなかったが、それは職員室に忍び込み、後藤さんの住所情報を盗み取ることで事なきを得た。
「ここか」
駅から少し歩くと、後藤さんの家が見えてきた。立派な一軒家だ。
インターホンを鳴らすと、少ししてから「はーい」と言う声と共に、後藤さんの母親と思われる人が出てきた。
「あら? どちらさま?」
「後藤ひとりさんのお宅で合ってました? 風邪を引いたとお聞きしたので、心配で様子を見にきたんですが……」
「まぁ! あらあらあら! ひとりちゃんのお友達! もしかして、ひとりちゃんが今月の友達料金を払っていなかったから取り立てにきたの?」
「違います。普通に友達ですよ。娘さんのことなんだと思ってるんですか?」
後藤さん、親からも友達がいるわけがないと思われてるの不憫だな……
しかも、友達料金ってそこまでしないと友達が出来ないと思われてるのか……
「あら、そうなの? ひとりちゃんの友達が訪ねてくることなんて今までなかったから……それに男の子! 是非上がっていって!」
「それじゃあ、お邪魔します」
俺はやけにテンションの高い後藤さんの母に促され、後藤宅へと上がらせてもらった。
「ひとりちゃんは今、お部屋で寝てるけど、お友達が来たって言ったらきっと喜ぶわ」
後藤さんの部屋の前に案内され、襖をノックする。しかし、反応はない。寝てるんだろうか、勝手に入るか。
「うぅぅぅ……辛い、しんどい、死ぬぅぅ」
返事もなかったので、勝手に後藤さんの部屋へと入ると、いつも以上に死にそうな声を上げて布団に籠っている後藤さんの姿があった。
「全然大丈夫そうじゃないね、後藤さん」
「……幻覚が見える、何で星さんがここに」
「幻覚じゃないよ。後藤さんが心配で、お見舞いに来たんだよ。はい、これゼリー」
「…………うぇ!?」
適当にコンビニで買ったゼリーを差し出すと、布団に包まった後藤さんは、気持ち悪いくらいに目をぱちぱちとさせながら俺を凝視する。いや、目どうなってんだそれ。後藤さんってこの前のスライムの件といい、マジで人間じゃないんじゃなかろうかと思ってるんだけどどうなんだろう。
まぁ、とりあえず用も済んだし帰ろう。病人の部屋で長居するのも迷惑だろう。
「びっくりさせちゃったね。じゃ、俺は用も済んだし帰るよ」
「あ、あああの! 待って! ください!」
俺が帰ろうと踵を返すと、後藤さんは突然大声を出し、布団の中からゾンビのように這って出て来て、俺の腕を掴んできた。
「……何?」
とんでもない力だ。このまま腕を握りつぶされるんじゃないかとすら錯覚してしまう。
「あ、私なんかの為にわざわざお見舞いに来てくれて、しかも差し入れまでしてくれて、その、ありがとう、ございます」
風邪のせいか、それとも照れているのかは分からないが、後藤さんは顔を赤らめながら頭を下げる。
もちろん俺の腕は掴んだままで、今もミシミシと俺の腕は音を立てながら悲鳴を上げている。感謝の気持ちと腕力が共鳴しててやばい。このままじゃ俺の腕が使い物にならなくなる。
「後藤さん! 腕! 腕!」
「……腕? っ!? すすすす、すみません! すみません! 私なんかが星さんの大事な腕を触っちゃって! あの、私の腕を斬り落とすので何とか……利き手、利き手だけは勘弁してください……!」
そう言って俺の腕を離し、飛びのいた後藤さんは青ざめながら俺に左腕を差し出してきた。
「斬り落とさなくていいよ。ギター弾けなくなるじゃん」
「あっ、利き手があれば何とか弾けます。……片腕ギタリスト、アリかも」
覚悟決まりすぎだろ。なしに決まってる。
たかが俺の腕に触れたくらいで何を言ってるんだこの子は。それに、後藤さんは何だか「私なんか」と言った自己を下げる発言が多く、今もその傾向が強く出ている。後藤さんが自分を過剰に卑下する姿を見ていると、こちらも心配になってしまう。どうしてそんなに自分に厳しいのか、ちょっと気になるところだ。
「後藤さんって自己評価低いよね。顔も……ちゃんと見たら可愛いし、ギターも弾けるし、おっぱ……スタイルも良きなのに、何で?」
「えぇっ!? 私なんて、そんな、ふへ、えへへへ……そっ、そうですかねっ」
俺は正直な感想を伝えると、後藤さんは驚きと照れの入り混じった反応を見せ、顔を真っ赤にしながら照れ笑いを浮かべている。満更でもなさそうだな。褒められなれてないのかもしれない。後藤さんはちゃんとしてたら絶対モテるだろうに。
実は後藤さんの顔面スペックは美少女といっても過言ではないくらいに高く、そして背筋を伸ばせば普段は目立たない巨大なたわわまで顕現する。これは俺が後藤さん検定二級を取得する為に得た知識で、疑いようのない事実でもある。
「うん、少なくとも俺はもっと自信持っていいと思うけど」
「へへっ、ふへへへへへ」
後藤さんは俺の言葉にますます照れくさそうな笑顔を浮かべると、「私はスター……モテモテ……武道館が似合う女」と呟きながら、脳内へとトリップしてしまった。しまった、後藤さんは褒めちぎるとすぐに調子に乗ってトリップするのを失念していた。後藤さん検定三級の最も初歩的な情報を失念するだなんて俺としたことが……
呼び起こすのも面倒だし今のうちに帰るか。
「それじゃあ――」
妄想の中に入った後藤さんを置いて帰ろうとした時だった。
「えー! ほんとに男の子いるー!」
「ワン!」
「ん?」
足元から聞こえてきた声の方角へと目を落とすと、そこには後藤さんを小さくして、明るさを足したかのような少女が立っていた。後、犬。
「ねぇねぇ、お兄ちゃん、ほんとにお姉ちゃんのお友達なのー?」
少女は興味津々といった様子でこちらを見つめてくる。
「えーと、君は……」
「こら! ふたり!」
後藤さんは現実世界に帰ってきたようで、少女のことをふたりと呼んで叱りつけた。
「後藤ふたりです! 犬はジミヘン」
「ワン!」
ふたりちゃんは、礼儀正しく自己紹介し、可愛らしくお辞儀をしてみせる。
しかし、確かに容姿は似ているけど、後藤さんとは正反対のオーラを感じるな。
後藤さんを陰とするなら、ふたりちゃんは誰も疑いようのない陽だ。
「後藤さんの妹か。俺は
「友達……友達……ふへへ」
「ええ~、お母さんが言ってたことほんとだったんだー」
後藤さん、妹にまで舐められてるじゃん。
「ふたりちゃん、駄目でしょうお邪魔しちゃ。ごめんなさいね星君」
「いえいえ、邪魔なんてそんなこと全然」
ふたりちゃんの様子が気になって付いてきたのか、後藤さんのお母さんがひょっこりと廊下から顔を出してきた。
「ひとりの友達が来たって本当かい!」
「お父さん!」
そして今度はお父さんまで廊下からひょっこりと顔を出してきたようで、その姿が見えるや否や、ふたりちゃんはお父さんの顔面へとダイブした。アグレッシブだなぁ。
「もぉ! ふたりもお父さんもお母さんも出てって!」
後藤さん、家族相手だとちゃんと声出るんだね。俺が今まで聞いてきた後藤さんボイスの中で一、二を争うくらいの声量だ。
「いやぁ、ごめんね。ひとりのお友達っていうから、存在するのかどうかこの目で見ておこうと思って」
後藤さんマジで今まで一人も友達いなかったんだな……
「夜鷹君遊んでー!」
「ワン!」
「……よし、じゃあお兄ちゃんと追いかけっこでもするか」
用が済んだらとっとと帰ろうと思ってたけど、子供の頼みとあらば断われない。ふたりちゃんと犬と全力で遊んであげよう。
「よーし、行くぞ!」と言って、ふたりちゃんと犬を追いかけようとした瞬間、世界は止まり、俺の頭上には選択肢が表示される。
ああ、またか、なんて思いながら表示されたそれを見る。
【後藤さんのお父さんと追いかけっこ。組んず解れつの大乱闘からの大人な関係に】
【後藤さんのお母さんと追いかけっこ。人妻を口説き、大人な関係に】
【ふたりちゃんを執拗に追いかけ回し、大人の怖さを分からせる】
【ジミヘンと追い駆けっこ勝負。敗北した場合、後藤家の犬となる】
クッソ! ふざけるなよ!
この四択! どれを選んでも俺に明日が来ない気がする!
父! 母! 妹! 犬!
父! 母! 妹! 犬!
父! 母! 妹! 犬!
まず、俺にそっちの趣味はないから後藤父は論外!
人妻に手を出すクソ野郎になる気もないので、後藤母も除外!
そして当然、幼い子供を過剰に追いかけまわす犯罪者になるわけにもいかないのでこれも除外!
つまり残った選択肢は犬! こいつに勝てばいい……! だが! 万が一負けたらどうする……? このクソ選択肢のいう後藤家の犬が何を現しているか正直分からんし、分かりたくもないが、俺が一生人に戻れない可能性も出てくる……! これはただの駆けっこじゃあない。人としての尊厳を賭けた勝負。
「――勝てばいい」
何を犬ごときにビビってるんだ俺は。所詮犬畜生。人にはどう足掻いても勝てやしないと、それは今まで人類が証明してきたじゃないか。今思えばここまで走ってきたのも何かの伏線だったのかもしれない。あの過酷な五十キロマラソンは全て、今この瞬間、この犬畜生を倒すための準備運動に過ぎなかったのだ。
「犬、お前、名は?」
「
「そうか、ジミヘン。死にゆくお前に敬意を表し、俺も全力で行かせてもらう」
「
互いに両足へと全神経を集中させ、目を交わす。
俺とジミヘンは、まるで心が一つになったかのように、お互いの存在を全身で感じ合う。その瞬間、時間がゆっくりと流れるかのように、全ての感覚が研ぎ澄まされていく。
そして、何の合図もなく、ただ俺とジミヘンの心が通じ合った瞬間、二匹の獣は
――駆けた。
▽
「ワン! ワン!」
「ワン! ワン!」
「きゃははは! 夜鷹君面白ーい!」
どうしよう……星さんが犬になってしまった。
四つん這いになって、ジミヘンと追いかけっこをしている星さんからは、人間としての矜持というか、そういうものを一切感じない。ふたりを喜ばせるために、犬役として遊んであげているとか、そういうわけじゃなくて、本当に犬になってる。
尻尾の代わりにお尻を振りながら、口にくわえたおもちゃを振り回して遊ぶ姿は、まるで本物の犬そのもの。さっきまで両手として機能していたモノを前足として駆使し、ジミヘンとおもちゃを引っ張りあうその表情には、ひたむきな楽しさが溢れ出してる。
もしかして、星さんって結構ヤバい人なんじゃ……
そうだよ、私なんかのファンって時点で多分ちょっと感性おかしいし、さっき私のこと褒めてたのもやっぱりこの人が変な人だったからなんだ……! そうじゃなきゃ私があんなに褒められるのはおかしい! 私は変な人からしか好かれないんだ!
なんだか悲しくなってきた。
「はっはっはうっはうっ」
「見てみて! ドッグフード食べてるよー!」
えっ、うわ、後でお腹壊したりしないよね……?
「あ、あの、星さん? ふたりと遊んでくれるのは嬉しんですけど、何もそこまでしていただかなくても……」
「? ワン!」
駄目だ! 人としての理性が残っていない!
「お姉ちゃん、一緒にジミヘンと夜鷹君の散歩行こーよ!」
「えぇ!? いや、流石に……」
流石に人間にリードを繋いで散歩している姿なんて見られたら、私はもうこの町で生きていけない。それに今は一時的に尊厳を失っているだけで、目が覚めた時に星さんがとんでもない羞恥に襲われることは目に見えている。それは流石に可哀そう……というか何で私がこんなに気遣ってるんだろう。私、今風邪引いてるんだけどな……むしろ私が気遣われるべきなのに……あぁ、頭痛くなってきた。
「ワン!」
「夜鷹君もお散歩行きたいって言ってるよ」
「違うと思う」
「ひとりちゃん……私、知り合いの霊媒師さんに連絡してくるわね」
「ひとりの友達はユニークなんだねぇ」
もう駄目だ、寝よう。
そうだ。これは夢だ。風邪の時にたまに見る意味の分からない夢。そうに違いない。だから私は悪くない。
「おやすみなさい」
「えぇー、お姉ちゃん寝ちゃうのつまんなーい!」
「お姉ちゃんは寝ます。もう今日は何も見たくないし、聞きたくない。これは夢、これは夢。私は悪くない、私は悪くない」
「むぅ、行こっジミヘン! 夜鷹君!」
「ワン!」
「ワン!」
今更ですが誤字報告してくださってる方々ありがとうございます。
このサイトの仕組みを知らなさ過ぎて、今時流行りのAIが勝手に検出して修正してくれてるんだと思ってました。
通りで修正されるまでにラグがあるなと思ってました。