粘り気のある空気の中、そいつは生命活動に励んでいた。口吻を薄い膜の内部へと突き刺し、生命の源を啜る。
無機的と言っていいほどの顔には感情が見て取れないが、少なくともすぐに離れないところを見るにそこそこ良いものなのであろう。
ただ、蚊である彼女にとって人というのは食糧の塊だ。だが同時に、己の命を刈り取りかねない天敵とも言える。
その証拠に、今回もまた命の駆け引きが始まる。
それまで足を置いていた大地が五指を握りしめた。それはもう力強く。それまではふにふにと弾力がありゴムまりのような踏み心地だったのが、満遍なく硬く硬く鉄のように。
筋肉に力を込めた、人間側としてはただそれだけ。
たったそれだけで彼女の口吻は、石に刺さった剣のごとく抜けなくなった。異常に気づきもがき始めた彼女だが、それを見逃す天敵では無い。ブオンという音ともに空を覆い尽くす肌色は、空気を掻き散らして既にあと数センチ。
ペチン。
あはれ。彼女の体はぺったんこになったか。
肌色がどけた手の甲には、赤い跡だけが残っていた。
死体は見当たらない、もしかして下に落ちたか?と人間は地面を見下ろす。
だが、甘い。
ぷーん。
人に殺意を抱かせる音は、既に人間の背後に回っていた。
第二波、首元にて。
人はまだ位置を特定できていない。
が、ほんの少し経てば蚊の毒が異変を告げる。
風きり音に対してかの蚊は多少横にズレる。
それだけで空気の乱れはやつを脅威範囲内から追い払ってくれる。
舌打ちと悪態が空間に響くが、それも手も蚊には届かない。
奴こそは、もう人間の追っ手から幾度も逃げおおせているベテランなのであった。
特攻要員なのに目標を達成した上で生還するパイロットの域だ。命を懸けてもいない人に負ける道理は、無理を通さない限りない。
そうして彼女はその場を離れていく。
次の獲物の元へ行くために。そう、今まさに扉から出てきたもう一人の人間の所だ。
早速一吸。勿論、追撃は喰らわない。
なんて楽なことだ。もし彼女に人と同じ感情表現があれば、高らかな哄笑が空間を支配していたはずだろう。
めいっぱい吸った彼女は、目的を達成したが故にその場から離脱しようとする。
だが、人もやられてばかりでは無いのであった。
ヒィンと風をズタズタに切り裂くような音が響く共に彼女はそれを見た。
細くて、蛇のような__。
そこで彼女の命は潰えた。
そう、人間が近くにあった紐で超絶技巧を駆使して小さな蚊を打ったのであった。
まさに神業。つかの間の平和がこの世に訪れたのであった。