昔話をしましょう。
それはもう、今からとてもとても昔のこと。
電気なんて神の怒り以外で見ることはないくらいの昔。
とある村に、1人の青年が住んでいました。
青年は、代わり映えのない日を積み重ねることに飽き飽きしていました。そこで、いっちょ運試しでもしてみるか、と思い立ち森の中へと旅に出ました。
目的地は、その村に代々伝わる望みの湖。
何でも湖に向かって、月夜に願い事を言えばなんでも願いを叶えてくれるそうで。
問題は真偽が明らかでないこと、その場所の位置があやふやなこと。
それでも何もせずに、この土地で埋もれるくらいなら、この気持ちが風化する前になんとか一花咲かせてみようかと青年は我慢できずに、深い森へと足を踏み入れたのでした。
森は進み入る毎にその雰囲気を暗く鬱蒼とした物へと変えていきます。
それでも青年は、その程度で折れる意思ではないと進みます。
無数の小枝や棘が青年の至る所に引っかき傷をつくります。蜘蛛の巣が引っかかり、毒蛇による襲撃もありました。時には、オオカミやクマのような野獣と出会いました。
しかし、青年はこの程度想定出来なくてどうする、と鍛え上げた肉体と勘で凌ぎます。
そう、青年は何もしなくても村でモテモテなぐらいには完成されていました。けれど彼は自分には足りないものがあると感じて、いても立ってもいられなくなって、森へと飛び込んだのでした。
青年は迷わないようにと森を進むにあたっての目印を決めました。すなわち夜に見える星の位置です。必然、移動はほとんど夜の内に行われました。普通の人にとっては正気を疑う行軍でしたが、それをなせる程の力が彼にはありました。
けれど問題点もあり、日中帯はまず進むことはせず、また、曇りで星が見えない日もまた彼は進むことは無いのでした。目指すべきものがないから。それは他人が見れば己の決めたルールに忠実であると見ることもできるし、どこか縛られているようにも見えたことでしょう。幸か不幸かそれを指摘できる人はそこにはいませんでした。
さて、幾重にも張られた困難と蜘蛛の巣を払い、彼は遂に湖へとたどり着きました。
しかし、そこで彼は途方に暮れてしまいました。何故かと言うと、伝承では「湖に願い事を言う」と聞いてはいたものの、それが例えば大声で叫べば良いのか、それとも湖に口をつけて言うべきか、あるいは祈りながら心の中で言うべきか分からなかったのです。
青年は明確に決まった道以外に弱く、すぐに迷う人でした。
そんな時、かれは湖のほとりに人影を独つ見つけました。それはどうやら女性のようで水浴びを楽しんでいるようでした。冷静になれば、湖面に月が輝くこんな夜更けに女性が1人、しかもこんな奥地にいるはずも無いのですが、その時の青年は道を決める指標がなく、非常に慌ただしい精神模様だったのです。
ザクザクとほとりを駆けて、女性の元へたどり着きます。女性は酷く驚き、どうやら怖がっているようですが、青年はそんなことにも気づかず、息をせききって問いかけます。
「もし、ご婦人。つかぬ事をお聞きするが、この湖に願いを捧げるにはどうしたら良いのだ」
「あぁ、あぁ、あなた。そんなくだらぬことの為に私を驚かせたの、許さないわ」
「すまない、そんな気づもりはいやはや1片たりとも無かったのだ!ただ目指すべき星も無くなってどうしたら良いのか、落ち着きが足りないだけのだ。」
青年が平謝りすると、女性はふんとため息をついた。よくよく観察するとその女性はとてつもない美貌のようで、近くで改めて見た青年はたちまちに茹でダコのようにぽーっと美女を見つめ出した。そんな青年の態度に悪い気はしなかったのだろう、彼女はもう一度ふんと息を吐くと、口を開きました。
「いいでしょう、いまや驚き冷めやりませんが誠実に応えましょう。して、願いとは?」
「伝承ではこの湖に願いをいえば願いが叶うそうなのだが」
「ああ、とうの昔に伝えた記憶があるわ。であれば早くすませば良いじゃない、ほらはやく」
「つまりはそこなのだ。大声で叫べば良いのか、心でいえばいいのか」
子育てするイタチのようにウロウロと動き回る青年。
3度目に女性はふんと息を吐いた。
「まぁ、呆れた! そんな妙ちきりんなとこでつまづいているの? なんでもいいのよ、なんなら私に伝えてみればいいわ」
「であれば、早速。
何に頼っても良いから、今の生活から抜け出したい、それが私の願いだ。」
「あら抜け出したいほど悪いのかしら?」
「良さがない。何一つ変わらないし、私はずっと同じ道を歩くのみなのだ」
「なら、あなたの望みはちがうのではないの」
「そうだろうか」
「あなたは同じ道を歩くのが嫌なのではなくて、それが自分の決めた道でないことが嫌なのでしょう。そして、それを決めるだけの意思がない自分に飽き飽きしていたのでしょう。」
そんな彼女の言葉に青年はピシャリと額を打つ。目からウロコが剥がれるような心持ちだった。
「であればそのような私は、どうしたら変えられるのか、それが知りたい」
「ああ、あくまで自分で確かめたいと、それくらいの願いなら許してくれるのではないかしら」
「しかし、全く願いがかなった気がしないぞ」
「そりゃまだかなってないのだもの。一旦お家に帰りなさいな。」
そういうと不思議な女性は青年の目に手を当てた。ヒヤリとした手と滑らかな肌にドギマギすること数瞬。青年の意識は急速に落ちた。最後に水の音とお休みという声が聞こえた。
気づけば青年は村に戻っていた。
先までの出来事は、夢であったのだろうか。そう考えた青年でしたが手に何やら感触を感じました。それは濡れたペンダントで不思議なことに幾ら拭いても濡れていました。
もしや湖の女神様より贈り物であろうか、そう思った青年は大事にタンスの中にしまいました。
そうしてしばらくすると、コンコンと戸を叩く音がしました。はて、客人かしらん、と開くとそこにはあの湖で出会った女性がいるではありませんか。
曰く、あなたの事が気に入ったから少しだけここに置いてくれとのこと。これも何かの縁と思った彼はその女性を家に置いてやることにしました。
それからというもの彼は、元々その美貌にやられていたこともあり、その女性の為に色々と尽くしました。とは言っても一方的なものではなく、夫婦のように助け合って生き、いつしかホントの夫婦となったのです。
驚くべきことにあれだけ退屈だと思った普通の日々の積み重ねも彼女と一緒にいれば、幸せなものに感じたのでした。
それでも彼は時折、迷い自分を失います。生来の気質は変えられるものではありませんでした。
ですが、そういう時いつでも彼女がいてくれました。彼が迷った時、彼が決断しやすい道を示してくれるのです。あくまで横から決めるのではなく、青年が決めやすいように。そうすれば自ずと彼は自らの道を選び、堂々と歩いていきました。そうして、その出来事に感謝した彼はまた妻に対して感謝の品と飛びっきりの愛の言葉を囁くのでした。周りどころか妻まで照れ笑いするくらいに情熱的なものを。妻に関しては彼は迷うことはありませんでした。
そうして幾度も夜は流れ、いつしかお互いヨボヨボになってしまったとある夜。
「あんたといるのは私の生の中で久しぶりにとても楽しかったよ。私が居なくても迷わないようにね。それと、全て終わったらまたあの湖に来なさいな」
彼は独り、消えたロウソクに火も足さず泣き続けました。
そうして1晩たった後、彼の頬に涙はありませんでした。泣くのを辞めた訳ではありません。妻にみっともないと叱られないように心の中にしまったのです。
それから彼は、老体にムチを打ち妻を庭に埋めて手を合わせました。そして、久方ぶりに引き出しにしまったペンダントを取りだして首にかけました。そのペンダントはもはや濡れてはいませんでした。
彼はそれからも迷いました。
けれども、彼は自分で決められるようになりました。それは生前の妻が自分の中で生きているからでした。
7年が経ちました。
彼は悟りました。息子とその妻にお別れをして、7年1日欠かさずお参りした妻にもお別れをして、歩き始めました。
いつかのように、けれどいつかとは違う迷うことの無い足取りで。
全ての困難は年老いた彼を追い詰めました。
それでも、彼は以前と違い迷うことも、止まることもありませんでした。いつしか困難は彼に道を譲ります。
鏡のように月が映っていました。
大きな大きな水の鏡に、独りぽつんと月が。
虫も小鳥も何かを待つかのように静かなそんな夜。
彼は、湖へ願いを届けました。
それは願いと言うより嘆きに近いものだったかも。
幸せでした。
あなたのおかげで私の人生は、今もなお胸が張り裂けそうなくらいに幸せでした。
失いたくないと願うことも幸せであることが分かりました。
あなたが私の道標として月光をまいてくれたおかげでここまで来れました。
だから、私は願います。
あなたの解放を願います。
私から解放されることを願います。
唄うように熱に浮かされたように彼はそう言って湖へと飛び込みました。
彼は二度と陸に上がってはきませんでした。
けれども彼が聞いたか否か。
湖の伝承には、それからひとつの歌が加わりました。
誰が加えたかも分からない、短い短い恋の詩が。
愛しいあなた。
湖が願いを叶えるというのであれば、湖の願いも聞き入れてくれて良いでしょう?
私はあなたから解放されるから、あなたを私へ連れてくわ。
湖はもう願いを聞き入れない。
私も一緒に向かうから。
湖の伝承は、今では真偽は分かりません。
願いが叶うことは無くなりましたから。
けれども、少しだけ。ほんの少しだけ願いは残りました。
その湖で告白した男女は死んでも幸せに結ばれる、とか。それはきっと、誰かの感謝なのでしょうね。