ごめんなさい。
これからは行ける時に出します〜
善に特別な目を向けるなかれ。私はそう言いたい。
さて、初めに問いたいのだがはっきりと自覚を持った善行をしたことがあるだろうか。
逆に自覚なく、結果善行となったことは?
そして、そのふたつを比べたことは?
最後のひとつはそもそも意識にも上がらない問題では無いだろうか。であれば今、比べて違いを見つけて欲しい。
あなたの答えは残念ながら、私からは見えないが考えることが重要だ。
さて、あなたの考えは見えなくとも私の考えを出すことはできる。意識のある善行と意識のない善行の明確な違い、それは勇気の要不要である、と私は考えている。そんなわけは無い、物語の人物にだって呼吸をするようにしている人がいるんだから、それに憧れた人が現実にもいるはずだ、そういう言葉が出る人もいるだろう。それは1部では正しい。確かにそう言った人物は存在するだろう。けれど敢えて探そうとしないと見つからない程度にしかいないのが事実だ。ともすれば、コテコテの英雄譚になればなるほどそういったことは無いかもしれない。彼らが為したことだって他の誰かから見れば、という話ではなく、彼ら自身から見れば、という話で。必死でがむしゃらで、やらなければいけないことで、当然のことで。息をするように、というのは言い得て妙で、彼らにとってはそれが普通のことでことさら担がれるものでは無い。感謝は受け取るが、善行、なんて仰々しく言われたら照れてしまうだろう。私はそれは意識のない善行だと思う。場合によっては、大事な人間を守っただけで、善行などとは程遠い、とそれまでの犠牲に眼をつぶらずに怒る人もいるかもしれない。
さて、そうであれば意識のある善行とはなんだろうか。善行を為すと誓い、善行を行う。
それはきっと聖人なのだろう。なぜなら彼らは、神という大義名分がある。善行の為の大義名分が。神ではなくても、例えば亡くなった誰かに頼まれたからだったり、なにかの目的のためにだったり。善行のための理由を何かしら身につけている。
何故か。
逆に考えてみよう。理由がなくただ善行をなしたいが為に善行をなす。自分がやりたいから善行をする。それはおそらく偽善と呼ばれるものでは無いだろうか。他人からそう言われることもある。あるいは他人からは隠せても、自分から隠すことは出来ない。偽善者を振り払うために彼らはその鎧を着込んでいるのだろう。
だからこそ、大義名分を着こなせない彼らは勇気がいるのだ。
では、ここでもう一つ問おう。
なぜそもそも善行に勇気が必要なのか。
私の答えはもう出ている。
思うに、他人の目線が原因だろう。恐ろしい殺人鬼や、大切な人を失う恐怖よりそれは下だろうけれど、それでもしっかり恐怖と認識される他人からの目線が原因だ。ワンタッチで簡単に世界へ自分の行動が拡散される、そんな現代社会であれば尚更。
当人にとってなんでもない一幕なら、その後のことなんて気にならないで済むのかもしれない。けれど、1度気にしてしまえば、毒は確実に隙間に入り込み、綺麗な絵画に付け足されたひとつのムダのように全体で見た時の景観を損ねる。SNSで、人々の噂で、切り抜かれた記事で……あるいは叙事詩で。至る所にあなたの「善行」が、思い描く形でない横行を重ねている。
言の葉を重ねれば偽善の大樹となり、振り返らずに歩き続ければその道に価値が着けられビジネスが始まる。1つの行動だけで、その後の行動全ては「あの人にはこうしたのに」というフィルターがかけられる。ほら、ダークファンタジーの勇者さんでよく見た事だろう。その人にとっては「できることをした」だけなのに。人の目線は「すべてできる」に変換してくる。
それに、使い古された能書きだが、正義も善行も見る人によって変わるバカバカしい定規だ。
比べて悪事はどうだろう。
勇気はいらない、誰でも出来る。
力が無くても、能がなくても、そして善人であっても、勘違いされようとも。
当然だろう。
勘違いをされたところで、元々お互い気にもとめない他人同士なのだ。
勇気は最初の1度だけはいるかもしれない。
だが、最初の1度以外は大抵みんな気にしない。
他人に拡散されようと、どれだけ口性のないことを言われようと元からそういうことだと知った上で行動してるのだから。
そう、善だけが、善行だけが。
特別として祭り上げられているのだ。
良いも悪いもみな過度に期待を向けるのだ。
それが英雄や聖人の足枷になっているのにも気づかずに。
だから、私はこう言おう。
善には正しき感謝を。されど善に期待はするなと。