浮かんでは押し込んで。
押し込んではぷわりと浮かぶ。
何度押し込んでもそれは消えない。
一時的に歪んで見えづらくなるだけ。いつかはくっきりと見えるようになる。
この行為は傍から見れば無駄なのだと思う。無心で続けられて、その上で何の困難もない。時間という制約を破らなければ、いつまでもいつまでも同じことを続けるだけなのだから。
なら、無理に力を入れず見ていればいいのか。それもまたひとつの答えだ。向き合い方は人それぞれ。
だが、私は何度も繰り返すことにも何かしら意味があると思っている。繰り返すこと自体に意味がなくても、繰り返した時間や意思に意味が宿るのではないか、それを自分の意思で選ぶことに意味があるのではないか、と。何度も見ることは、己の安定を見つめ直すことに繋がる。自身の力を使って自然的なシステムの1部になる。何も変わらず、良いことも起こらないのなら、悪いことだって怒らないはずだから。そしてその行為はある種の心の調律とでも言うような、不思議な集中力と快感をもたらしてくれる。周囲と溶け合うようなそんな感覚。
無理に受け入れる必要も突き放す必要も無い。
少しだけ見えないところに置いて、浮かび上がったら、焦点を合わせてまた見えないところへ押し込むだけ。意味は無いが、きっと何かをもたらしてくれる。
「何してんの、そろそろ行くよ」
「はーい」
ぱちん、と弾けた。頭をあげると横には友人が呆れた顔をしている。さすがに泳ぎ疲れたからと言って、端っこで変な遊びをしていたらダメだったか。同時に喧騒が耳に戻ってくる。ずぅっと耳には入っていたんだろうが、脳が意識の外に置いていたのならそれは雑音とすら言えない。気がつけば真上に照っていた太陽も、オレンジの光を窓からなげかけていた。
光を取り込んだ水がゆらりゆらりと視界で踊る。見つめ続ければ、またさっきのように取り込まれてしまうだろう。それもいいな、と思う。だけど、取り込まれすぎたら唯一の友人を失いそうだ、なんて思いがぷわりと浮かぶ。
今度は押し込まない。意味があるから押し込まない。
プールから浮かんだボールを持って、私は帰路へつく。
隣では少し疲れたのか、静かだけど満足気な友人。何故か強く握られた手は、プールで私の手が冷えたからか暖かい。
道の先の目に焼き付くオレンジ。裏路地から香るラーメンの匂い。いつもの駄菓子屋。そして大切な人。
きっとこれは、私の中でずっと押し込まれない表面化された景色だろう。意味があるから。
水音と喧騒が残ったまま歩く道はいつもよりも深く沁み入った。