明日にスターリーでの初バイトを控えた休日。おそらくバイト初日は慣れないことだらけで長い一日になる。しっかり休んで鋭気を養っておかなければ。
ひとりも緊張してるだろうし、気を紛らわせるためにたとえ一日中セッションに付き合うのもやぶさかではない。家でだらだら過ごすよりはほどよく疲れて夜眠るほうが心身ともに休まるものだ。そう考えていたのだが
「ねーやっぱりやめない?」
「マ…マダ…マダハイラナキャ…カゼヒケナイ…」
現在ひとりは氷漬けになっている。フローズンぼっちである。
今朝は遅めに起きたのだが、すでにひとりは家におらずどこかへ出掛けていた。休日に僕を誘わずひとりだけで出掛けるなんて珍しい日もあると思っていたのだが、しばらくするとどこで調達してきたのか引き摺るほどの大量の氷を入れた大袋と共にひとりは帰ってきた。その光景に呆気に取られているとひとりはあらかじめ溜めておいた水風呂にガランゴロンと氷を投入し、入浴準備をして氷風呂をエンジョイしている。
この子は普段人目のあるところでは目立たないように立ち回るくせに妙なところで行動力を見せることがある。その氷の大袋を引き摺る姿を外で何人の人に見られた?ピンクのジャージを着た季節外れのサンタクロースを見たとSNSで拡散されてやしないだろうな?
一体何を考えてこんな行為に及んだのか、聞かなくとも分かる。ひとりは明日のバイトが嫌すぎて行きたくないのだ。行かないにしてもバイト初日から休む連絡も入れにくく、かといってバイトをバックれる度胸もないため、正当な休む理由を求めた。その結論がこれだ。身体を極限まで冷やして風邪を引いてしまおうということなのだろう。まったく愚策と言いようがない。風邪を引いたとしても休める期間は長くても数日。どの道バイトからは逃れられないというのに。
「諦めてちゃんとバイトしよう?僕も一緒だから大丈夫だって。こんなことするよりそっちのほうがきっと楽だよ?」
「ヤダ……バイトコワイ……シャカイコワイ……」
「あはは!おねーちゃん顔しろーい!」
「ふたは真似しちゃダメだからねー」
自宅の風呂場なので当然といえば当然だが、今の氷風呂に浸かっているひとりは全裸であり、僕はそれを入り口で眺めている状況である。
興奮?しません。妹だから。
一緒に生まれて同じ顔して、氷風呂で白い顔して歯をガチガチ鳴らしている目の前の妹を、どうしたらそういう目で見られるというのか。いくら女の子の裸といってもひとりは家族だ。異性の身体が気になる年頃が思春期らしいが、あいにく僕とひとりは距離が近すぎる。もはやお互いの裸を見ても特に抱く感想は出ないだろう。
ひとりも裸を見られていることに恥ずかしい等の意見は特に何も言わず、唇を青くしてひたすら寒さに耐えている。
これを見て見ぬふりして低体温症であの世に旅立たれても困るので、限界を迎えた時に助け出せるよう監視しているというわけだ。
「見てるこっちが風邪引きそう……」
「アッ…ド…ドウジョ…」
「いや入んないよ。僕が入ってどうすんの」
ひとりは足を縮めてスペースを作り、僕に入るよう促す。いらないお世話だ。
昔は一緒に風呂に入っていた時期もあったが、今は流石にもう卒業して別々に入っている。
「ユウチャンガカゼヒイタラ…カンビョウデヤスメルカラ…」
「小賢しいこと考えてるんじゃない。僕は風邪引きたくないよ。それに風邪ってただ冷やせばなるもんじゃないと思うけど」
「モ、モウサンジュップン…サスガニコレダケハイレバ…」
「あ、おねーちゃん沈んだ〜」
30分か、思ったより長くは保たなかったな。うわ冷たっ
ひとまずキンッキンに冷えてやがるひとりを浴槽から取り出して、ぬるいシャワーをかけて少しずつ体温を取り戻す作業に入ることにした。
「…………」
「ガチガチガチガチガチガチ」
冷え切ったひとりを解凍したはいいものの、また氷風呂に身を投げられてはたまらないので服を着たら音楽をしようと誘って部屋へと呼び込んだのだが
ひとりは下着だけを身に着け、季節にはまだ早い扇風機を持って僕の部屋に入ってきた。どうやらまだ風邪を引いてやるという目的は諦めてはいなかったようで、下着姿のまま扇風機の強風を受けつつギターを抱えて、僕のキーボードとセッションをしている。
女子高生が下着姿を晒し、風に髪をなびかせギターを奏す。ヒュー、セクシー……なわけあるか。そんな歯むき出しで寒そうな顔してギター引いてたら単なる奇行だ。
寒さで手が震えるせいで弦の抑えが安定せず出す音には妙なビブラートがかかっている。指を震わせて弾くギターテクニックはたしかにあるが、あいにく今のひとりが出しているのはそんな高尚なものではなく、単なるビビリ音である。
「…………」
「ああっ……なんで……っ」
Bメロからサビにさしかかろうというところで鍵盤から手を離し、キーボードの電源を切った。
「なんで?決まってるじゃん。ひとりがちゃんとやらないから。そんなふざけたギターとセッションしたって楽しくないよ」
「ふ、ふざけてないもん……!本気で弾いてるもん……!魂込めてるもん……っ!」
「魂?そのビビリ音が?」
「び、ビビリ音……!?」
どうせ寒さに耐えて弾くことを命燃やしてるとか思ってたんだろうけど、そんなものはただの自己満足、聴いてる側からすれば安定しない下手くそなギターでしかない。
「これ以上バカな真似するんならもうひとりとはセッションしません。今後演奏はライブの時だけ組むビジネスライクの関係でいきましょう」
「い、いやっ……それはいやぁぁぁ……っ……ゆうちゃんがいなくなったら生きていけないぃぃぃ……っ!」
いやいなくなりはしないけど。
なかなかキツいことを言ったが、ひとりと楽しくセッションできなくなるのは僕も嫌だ。だからこそもう自分の体を苦しめるのはやめてほしいという兄心を分かってほしいのだが。
「ひとり、初めてのバイトに緊張してるのはひとりだけじゃないんだよ?」
「えっ……ゆうちゃんも……?」
「当たり前だよ。初めてのことをうまくできるかなんて実際やってみるまで分からない。僕だって失敗は怖いよ」
先日ひとりにバイトを楽しもうと言ったが、それも強がりでしかない。開場前の準備?お客さんへの挨拶?ドリンクの出し方?考えたらキリがなく予想できる仕事のやり方をまだ何も知らないのだから怖くならないほうがおかしい。
「でも虹夏さんやリョウさんがいる。あの人たちなら分からないことは何を聞いてもきっと嫌な顔一つせず教えてくれるから」
「僕ら分からない者同士、一緒に成長していこう、ね?」
「……うん……」
バイトをしたことがない僕も偉そうにひとりを説いている立場ではない。迷惑をかけないようにこれからちゃんと仕事を覚えていかなければ。
ーーーーーーーーー
次の日
ひとりは体調を崩すこともなく、体力はないが身体は頑丈な健康体で翌日を迎え、あっという間に放課後となり下北沢のスターリーへ。
この取手を引いて扉を開ければ初バイトの始まりなのだが、それを持つ手にひとりがしがみついて引くに引けず扉の前で立ち往生している。
「これを開けたらバイト始まっちゃう……あと5分……どうかあと5分……っ」
「ここまで来たんだからもう覚悟決めたら?」
本当に落ち着きが必要なのはひとりのほうなのに、そのひとりのおかげで自分のほうが落ち着いてしまっている。隣に自分以上に感情的な人がいると相対的に落ち着く現象ってなんなんだろうね。
「ボッチガンバレボッチガンバレボッチガンバレ……」
とはいえいつまでもこんな場所でひとりの気の済むまで待っていたら店に入れないし虹夏さん達にも迷惑がかかる。ひとりには悪いが無理やり開けるか。せーの
「チケットの販売は五時からですよ」
ひとりの手を振り切り扉を開けようとするも、階段から誰かに声をかけられ阻まれた
「まだ準備中なんで」
そこにはむすっとした顔の少しガラの悪そうな女性が立っていた
「ヒィッ!?」
あ、こういうヤンキーっぽい人はひとりの苦手なタイプだ。ひとりは女性を見るやいなや僕の背中に身を潜めてしまった。
ん?この人雰囲気こそ違うけど髪の色、それに頭に乗っかってる…というか浮いてるようにも見えるハネ毛、虹夏さんと同じ特徴だ。つまりこの人は
「スターリーの店長さんですか?」
「ん?そうだけど、君ら客じゃねーの?」
「今日から働かせていただきます、後藤といいます」
「ああ、虹夏が言ってた……なんで店入らないんだよ」
「すみません初めてのバイトなもので、緊張して入りにくくて」
「……ま、いーや。話すっから、中入りなよ」
結局店長さんに促されてようやく入ることになった。
「双子の兄妹がバンドに入ったってのは虹夏から散々聞かされたけど……こりゃ見分けつかねーな。特に兄貴、お前本当に男か?」
「よく言われます」
スターリーにいる時は髪型をひとりとお揃いにするというのが結束バンドの方針だ。店長さんの目には髪留めが逆なだけの顔はほぼ同じ人間が二人並んでいるように見えているだろう。服装は片やカッターシャツと制服ズボン、片やピンクジャージとスカートなら男女のどちらかであるかは一目瞭然ではあるが。
「虹夏のバンドでギターやってたマンゴー仮面はどっちだ?」
「それはこっちですね」
「まっ、マンゴー仮面です!うへへ……」
よかったね、また新しいあだ名貰えて。お兄ちゃんは喜んでいいのか分からなくて複雑な気持ちだけど。
「お、ゆうちゃんぼっちちゃん早いね。お姉ちゃんもおは〜」
「ここでは店長って呼べ」
「えへへ、ごめ〜ん」
姉妹といえども仕事場では店長とバイト、公私混同せずきっちり分けるということか。リョウさんはシスコンと言っていたが、意外と厳しい人みたいだ。気を引き締めなければ。
「ま、あんま緊張せずゆっくりやりなよ。分からないことは虹夏とリョウに聞けばいいから」
「はい、頑張ります」
「が、がんばりましゅ……!」
「リョウとゆうちゃんは床掃除、ぼっちちゃんはあたしとカウンターでドリンク覚えよっか」
「ゆ、ゆうちゃん……」
「言ったでしょ、ずっと付いてるのは無理だって。虹夏さんに優しく教えてもらいなよ」
「は、はひぃ……」
「リョウ!めんどくさがらずにちゃんと教えてあげること!いいね!?」
「了解」
「まずはテーブルと椅子をどかそう」
「分かりました。……っしょっと」
「え、一人で持てるの?」
「え?あ、はい。いけますよ」
「さすが男手。これなら私の出る幕は「サボんなら給料いらねーよなー?」……ちっ」
この距離からの店長さんの反応の早さ、さてはリョウさん常習犯だな
「私はここの床掃除するから、ゆうはあっちのトイレ掃除ね。道具は置いてあるから、新品のごとくピカピカに磨くこと」
「分かりました。洗面台に使っていい雑巾ありますか?」
「……」
「リョウさん?」
「いや、素直すぎて拍子抜けした。いつもは虹夏とジャンケンして決めてるから」
「仕事なんですから言われたことは素直にやりますよ。そんなにトイレ掃除嫌ですか?」
「私が負けたらゴネにゴネて10回勝負までもつれ込む時もある」
「あんた仕事をなんだと思ってんだ」
確かにトイレ掃除は気分の良いものではないが、ここはライブハウスのトイレだ。お客さんがせっかくライブを観て気分が良くなっても入ったトイレが汚ければ興が醒めることは想像に難くない。それにライブハウスは飲食店カテゴリに入ると聞いたことがある。衛生が命の飲食店のトイレならなおさらだ。僕のせいで「スターリーはトイレが汚い」なんて悪評ある箱にするわけにはいかない。さて、気合い入れて始めるか
<カクテルは〜棚右から〜てき〜ら〜ウォッカ〜
<ぼっちちゃんなんで急に弾きだしたの!?
なんかやってるな……
ドリンクの場所が覚えきれないから歌詞にして歌って覚えるというわけか。どうやらひとりもひとりなりに仕事を頑張ってるみたいだ。僕も負けてられないな。
そうだ、この歌をBGMにして聴いていれば僕もドリンクカウンターに入った時にスムーズに仕事ができるかもしれない。酒類は棚右だな。ジュース類は…
ーーーーーーーーーーーー
「どうですかリョウさん」
「誰がここまでやれと言った」
「え?」
「ううん、なんでもない。ここは十分。次は受付教えるからこっち」
「はい」
気になることを言われたが、合格みたいだしまあいいか
「なんだこれ……改装したのか……?店長のあたしに黙って……?」
「お客さんがチケットを持ってたら半券をもぎって渡す。持ってなかったら目当てのバンドを聞いて二千円もらってそのチケットを渡す。ドリンクチケットは500円」
チケットもぎりか……ライブスタッフらしい仕事になってきたな。ライブハウス運営はここからが本番のようだ。
「五時になったら開場してお客さんが来る。そしたら笑顔で挨拶」
笑顔で挨拶か。表情が硬いリョウさんがやってる想像がつかないが……意外と仕事と割り切ってちゃんとやってたりするのかな
「リョウさんちょっとお手本としてやってみてくれませんか」
「……」
「……」
「……開場まで暇だから寝る」
「え、ちょ、リョウさん!?」
リョウさんはカウンターに突っ伏して寝てしまった。絶対やってないわこの先輩。さっき机どかしてた時もそうだが、かなりマイペースで仕事してるなこの人。社内ニートと呼ばれても堂々と会社に居座って給料泥棒してるのが目に浮かぶ。
それにしてもどうしよう、指導役が寝てしまうとは。開場時間も迫ってるし、ここでお客さんが来たらバイトの初接客をぶっつけ本番でやることになりそうだ。頼む、リョウさんが起きる前に来ないでお客さん
「こんにちは〜」
ほら来た来なさった。開場一番乗りは二人組の女性だった。
「あれ?新しいバイトの子?」
「は、はい。今日から入りました……」
「へぇー、かわいいね!これから頑張って!」
「ど、どうも……」
分かってはいたが、やはり初見で男とは見られないようだ。
「ぐぅ……」
「ちょっとリョウさん!お客さんに失礼ですよ!」
「あははっ、気にしないで。山田ちゃんはいつもこうだから」
「すみません……」
どうやら慣れてる常連さんのようでよかった。そうだとしてもリョウさんの態度は許されるわけがないのだが
「ね、受付初めてでしょ?私たちなら大丈夫だから、練習のつもりでやってもいいよ」
「は、はい」
笑顔で挨拶、笑顔で挨拶……好印象を持たれるような、たとえばファミレスの女店員さんのようなイメージで……
「いらっしゃいませっ!」
「「!?」」
明るさを意識した高めの声で挨拶。指導者がコレなんだから結局は自分で最善と思うやり方を模索するしかない。お客様に感謝とおもてなしの気持ちを込めて、優しく、自然な笑顔で向き合って
「チケットはお持ちですか?」
「あ、は、はい……これ……」
女性たちはチケットと一緒に500円玉も渡してきた。この半券をもぎ取って、ドリンクチケットを渡せばいいんだな。
「ありがとうございます、ではこちらの券を無くさないようにお願いします。ドリンクカウンターは入って右側にございますので、このドリンクチケットを持ってご利用ください」
ちゃんと両手を添えて券を手渡す。常連の人なら言われずとも分かってるとは思うが、お客さんも練習のつもりでいいと言ってくれたのだし、お言葉に甘えさせてもらおう。できる限り丁寧にやって間違いはないはずだ。
ライブを楽しんでいってほしいから、最後に目を見て笑顔で……
「素敵なライブをお楽しみくださいっ♪」
「あ、ありがとう……」
これでいいよね?女性客二人はチラチラとこちらを見ながら会場に向かっていったが、どうしてかな。粗相はなかったと思うんだけど。
ふう、思ったより緊張する。これじゃひとりに偉そうなこと言えないな。
「……」
「あ、起きたんですか?新人の僕が言うのもアレですけどさすがにお客さんが来て寝てるのは駄目だと思いますよ」
「……」
「リョウさん?」
リョウさんはいぶかしげな顔でこちらをじっと見つめてくる。もしかして新人の後輩にこんなことを言われて癪に触っただろうか。だとしたら謝らなければ
「すみません、先輩に対して失礼なこと言いました」
「いや、それは全然気にしてないから安心していい。ただ改めて気になった」
「なにをですか」
「お前は本当に男か」
「店長さんの真似ですか?」
「ねぇあの子……」
「分かる。可愛すぎてヤバい」
そういえばでスターリーでは女子として振る舞えってことは、ここでバイトしてる間もずっとってことだよね。あれ、なんか思った以上に大変そうじゃないか?
ーーーーーーーーー
開場してからしばらく経ち、来場する人も増えてきた。何人ものお客さんを笑顔でお出迎えし、チケットをもぎり、見送る。まだどんなバンドが演奏するのか把握していないためチケット販売はリョウさんに任せて役割分担した。そうやって何度も同じことを繰り返すとだんだん慣れてきた気がする。笑顔を向けると笑って返してくれるお客さんもいるため、そういう時は結構嬉しい。なんだか楽しくなってきた。
ひとりのほうもドリンクの仕事はちゃんとできているのだろうか
「ぼっちちゃんお客さんに失礼でしょー!」
「し、しゅみましぇん……っ」
……苦手意識が強くならなければいいが
開演も間近に迫り、お客さんの数も今がピークだ。今日はどれも人気のユニットが演奏するらしく、ステージ前は人でほぼ一杯に埋め尽くされている。すごいな、この集客力ならノルマクリアどころか一人が得られる収益もかなりの額になるだろう。それほど魅力的な演奏ができるというなによりの証明だ。結束バンドもいつかはこうなれる日が来るのだろうか。その頃にはひとりも視線を受けても大丈夫に───
「あれ?キミさっき受付にいなかった?」
「ひゅいっ!?」
「似てますよね?この子たち双子なんですよ〜」
「マジで!?顔よく見せて!すごーいそっくり!」
「あ、あひぇぇぇぇ〜……」
ヤバいな。ひとりが限界に近い。双子のバイトが珍しいのか必要以上にお客さんに構われている。ひとりと顔を見比べにわざわざ僕のところまで来た人もいた。
慣れない環境、初めての仕事、そして人からの興味の視線。これ以上構われると小動物並みのひとりの神経がショートしてストレス死しかねない。
文化祭の黒歴史再来という最悪な事態が起こる可能性もゼロではない。今のひとりには助けが必要だ。
やろう、あれを
「リョウさん、3番」
「ん、いってら」
3番とはスターリースタッフの間で使われる暗号だ。意味は「トイレ」である。お客さんの前で言うのが憚られる言葉はこうやって暗号にして伝達される。他にもゴミとか迷惑客とかを意味する暗号がいろいろあるらしい。
観客の後ろを歩きながらひとりに向かって視線を飛ばす。ひとりと目が合った。僕はひとりに伝わるようにトイレのほうに視線を向けた。
「虹夏ちゃん、3番……」
「いいよー」
無事ひとりにも伝わった。トイレに行く振りをしてスタッフルームへ行き、ひとりと合流する。
「ゆうちゃぁぁぁぁん………っ」
不慣れなものに囲まれながら僕と長時間離れていたせいか、まるで長年生き別れた兄と再会した時のような声で僕に張り付いてきた。
「怖かったよぉ……やっぱりお客さんと目を合わせるなんて無理だよぉ……コミュ症にはキツいよぉ……」
「よしよし、よく頑張ったね。ちゃんとドリンク出せてるだけでも偉いよひとり」
ひとりには悪いが、感動の再会を噛み締めている時間はない。ひとりに呼び出した理由を手短かに伝える。ひとりが意を理解すると僕とひとりは
お互い着ていた服を脱ぎ、交換して身に着けた。ひとりは僕のシャツとズボン、僕はひとりの上下ピンクジャージとスカートを
ひとりのジャージは大きめだから男の体格の僕でも入る。ひとりは少しダボついている上に決して小さくない胸が山を作っているが、猫背にして目立たないようにするしかない。
受付のやり方を教え、開演間近になれば入ってくるお客さんもほぼいなくなるから今のひとりにもできると伝えると、ひとりは安心したのか一息ついて落ち着きを取り戻した。
「ひとり、僕は掃除中にひとりの歌を聴いたからその部分だけは分かる。その歌詞になかったところをできるだけ教えて」
「わ、分かった……えっと、ビールは……」
ひとりからドリンクの仕事を一通り教わり、イメージを掴む。たとえ分からないことがあっても虹夏さんなら怒らず教えてくれるはずだ。その前にひとりがその仕事を何度もミスしてなければだが
お揃いの髪留めも逆側に付け直す。準備はできた。今この間だけ僕は後藤優一ではなく後藤ひとりとして生きる、成り変わり人生だ
「お、お待たせしてすみません……」
「いいよ〜。ライブ始まったら仕事も少なくなるし、もうちょっとの辛抱だからね〜」
「あっ、は、はい……」
ひとりとの身長差は猫背と僅かに中腰になることで誤魔化す。スターリーは雰囲気のために照明は薄暗い上にひとりは普段から猫背であるため虹夏さんに違和感を与えることなく持ち場に戻れた。あとはドリンクの仕事が思い描いたものと同じであれば良いのだが
「すみませんコーラください」
「は〜い、ぼっちちゃんよろしくー」
「あっ、は、はい……っ」
ソフトドリンクは簡単だ。サーバーからカップに注ぎ、蓋をしてストローを差す。これでいい。
あとはひとりらしく……目を泳がせ、顔を引き攣らせ、挙動不審で、上擦った声で……
「お、おおお待たせしまひたぁ〜……」
「あ、ありがとう……」
いやこれ駄目だろ。お客さんに失礼なもの全部盛りだよ。現に今の人ちょっと引かせちゃったし
それにいくらひとりらしくとはいえ流石にやりすぎたか?接客態度にも虹夏さんの指導が入っていると思うし、それを全部忘れたような演技をするのはまずかっただろうか
「う〜ん、ちょっとマシになったけどまだまだ硬いよぼっちちゃん」
ウソでしょ?これでマシになったように見えるの?ということはこれを超えるキョドり接客をしていたのひとりは?バイト始まってから結構時間経つのにあの子全然慣れてないじゃん。想像を超えるコミュ症具合でお兄ちゃんびっくりだよ
「ビール」
来た……!酒……!しかも何度も泡だらけにして虹夏さんに怒られたというビール……っ!
「はーい、ぼっちちゃんビールだけど……やってみる?」
「は、はい……っ」
「落ち着いてやればいいからね」
カップを傾けてレバーを手前に引いて泡立てないようゆっくりとビールサーバーからビールを注ぐ……8割ほど満たしたら今度はレバーを奥に倒して泡を膨らませ、かつ溢れない程度に……
これでどうだっ!?
「おお〜ぼっちちゃん上手!やっとコツ掴めてきたね!」
よかった、上手くいったみたいだ。しかしビール一杯注ぐだけでこんなにも神経を使うとは、ひとりが憔悴するわけだ。帰ったらよく褒めて労わってあげよう
「さっ、お客さん待ってるよ。ビールは上手くできたんだから、渡す時もしっかりね」
ビールを溢さないようにカウンターへと運ぶ。そしてお客さんへと手渡し
「お、お待たせしました〜…」
「ありがとう」
お客さんに失礼のない、かつひとりでもギリギリできそうなラインで接客する。緊張して慣れてないと思わせる声、しかし目だけは合わせるように
これ普通に接客するより倍以上疲れるんだけど。受付みたいに笑顔でできたらどれだけ楽だっただろうか
「すごいよぼっちちゃん!今日イチいい顔してたよ!成長したね!」
「ど、どうも……」
上手くできたご褒美にいっぱい褒めてくれる虹夏さん。本当はひとり本人に聞かせたい言葉だったけど、やっぱり優しいなぁこの人。
そもそもなんでこんな苦労してるんだっけ。ひとりが疲れたならわざわざ入れ替わらずとも普通に休ませてやってと頼めばよかったじゃん。虹夏さんなら無理やり働かせるなんてことはしないだろうし。
これ判断を誤ったんじゃないかな……
「ちちちちちっ、チケットはお持ちですか……!?」
「……」
「あっ、こ、これドリンクチケットです……っ」
「……」
「ご、ごゆっくり〜……」
「……ゆう」
「はっ!ひゃ、ひゃいっ!」
「どうしたのゆう、3番から戻ってから様子が変」
「あ、い、いえ……わたっ、ぼ、僕はなんともないですよっ!?」
「……ほんとに?」
「は、はいっ!僕、元気ですっ…!」
「……」
これ、ぼっちだ
服を着替えて、髪留めも逆にしてゆうのふりしてるけど、ムーブが完全にぼっちだ。
あれだけ女顔負けの愛想振り撒いてたゆうがいきなりこんなキョドりまくるコミュ症になるとは思えない。ここにぼっちがいるということは、ドリンクの方には
「お、お待たせしましたぁ〜」
「その調子だよぼっちちゃん!」
なるほど、ゆうはぼっちになれるが、ぼっちはゆうにはなれないというわけか。
初対面の時は見事な分身の術とお見受けしたが、実は変わり身の術の使い手だったとは。いや、この場合身代わりの術か?どちらにせよ後藤優一、あなどれん。
「ゆう」
「あ、はいっ、なんでしょうっ!?」
「ぼっちのスリーサイズは分かる?」
「えっと、上からはちじゅ、はっ!?」
「……」
「や、やだなぁ〜リョウさん、妹のスリーサイズなんて知らないですよ〜」
……
これ、遊べるわ。
先輩を出し抜こうとした罰として、ちょっとくらいおもちゃにしても許されるはず。そう、これは好奇心ではなく、後輩へのお仕置き。他意はない、断じて
「ゆう……」
「えっ、ちょ、リョウさん!?どうして急に腕を、その……当たってますよ……?」
「当ててんのよ」
「な、ななななぜ……っ!?」
「だってこれくらいやってもいいでしょ?」
「ゆうは私の『彼氏』なんだから……」
「…………えっ」
「ホア゛ァァァァァァァァァァッッッ!?」
おもしれぇ〜
これだけ良い反応してくれると遊び甲斐がある。後藤兄妹、虹夏はなかなか面白い拾い物をしてきたようだ。
「りょっ……りょりょりょリョウさん……っ!それどういう……っ!?ゆうちゃんと付き合っっっ……!?」
でもぼっちはあまりやり過ぎたらいけないタイプだ。漫画なんかではブラコン妹から兄を奪うと妹がヤバいことになる展開になることが多い。もうちょっと遊びたかったが、後輩から不信を買うのは本意ではない
「嘘」
「あばばばばばば……えっ?」
「全部嘘だよ、ぼっち」
「よ、よかった……あっ、えっと、その……」
「入れ替わってるのはとっくに気付いてた。私を出し抜こうとは良い度胸だけど、そうはいかない。私は虹夏ほどチョロくはない」
「す……すみません……」
こっちに来たのがゆうのふりしたぼっちだからこそ気づけたが、逆だったら正直私でも見破れたかは怪しい。カウンターにいるゆうは遠目からだが完全にぼっちになりきっている。すぐ近くにいる虹夏も気付いていない。それはあの子がチョロいからか
「でも双子入れ替わりとはなかなか面白いものを見せてもらった。それに免じて一食ご飯を奢ってもらうことで手打ちにしてあげよう」
「あ、ありがとうございます……?」
よっしゃ、食い扶持確保。金欠でも食べたいものがあった時に出してもらおう。
「おう、お疲れ」
「店長」
「あ、お、お疲れ様です……」
「ん?なんだ優一、雰囲気変わったか?」
「あっ、ちょ、ちょっと疲れちゃって……」
「ま、初めてならしゃーねーか。ここはあたしが代わるからお前らライブ観てきていいぞ。今日のバンドはみんな人気あるからちっとは学ぶこともあんだろ」
「ゆう、行こう」
よかった、仕事から離れられる。ゆうちゃんが言ってた通り受付にお客さんは数人しか来なかったけど、それでも私のコミュ症精神にはかなり堪えた。今来てるお客さんみんなに笑顔で出迎えてたゆうちゃんはすごいな。私には無理だ
「ああ、優一」
「は、はいっ!?」
「3番の掃除、良かったぞ。今後も頼む」
「ひゅえっ!?は、はい……分かりました……」
これ知ってる!掃除当番でヤンキーにトイレの掃除を押し付けられるやつだ!?
わ、私やっちゃった!?私のひどい接客態度でお客さんからクレームが入って店長さんを怒らせちゃったんだ!しかも今はゆうちゃんに扮してるせいでその責任がゆうちゃんに被せられてる!本当は私が悪いのに!
ゆうちゃんごめんなさいぃぃぃぃ!
「お疲れ」
「お疲れ様です……」
始まったライブを虹夏さんとカウンターで観ているとリョウさんとひとりがやってきた。ひとり、かなり神経を擦り減らしてるな……
「お疲れ〜、あれ?受付は?」
「店長が代わってくれた。今日のバンドはどれも人気あるし、勉強になるから見とけって」
(ひとり、大丈夫?)
(ごめん、リョウさんにバレた……)
(あー、まあ仕方ないか)
(あともう本当にごめんなさい……)
(……?)
僕はひとりの真似をできるが、ひとりに僕の真似はできない。まだ虹夏さんにはバレていないしリョウさんは乗ってくれてるようだ、虹夏さんには悪いがこのまま続けさせてもらおう
ーーーーーーーーー
「あたしね、この店が好きなの」
ライブを眺めていると、虹夏さんが呟いた
「お客さんには良い箱だったって思ってもらいたい気持ちがいつもあってね。だからこのお店のために頑張れるし、やっててすごく楽しいの」
バンドメンバーも観客も楽しそうに音楽に興じている。単なる演者と客ではない、箱全体が一つになってライブが盛り上がって完成している。スターリーという箱の魅力がここに集まって、輝きを発していた。
楽器が上手いだけじゃ絶対に得られないものがライブにはある。ひとりだけじゃなく、僕にも、足りないものが多すぎて何が足りないのかも分からない状態だ。
「ゆうちゃんとぼっちちゃんにも良い箱だったって思って欲しいんだ。楽しくバイトして、楽しくバンドしたいの。一緒に」
そんなことを言われたら、ジーンと感動してしまうじゃないか。虹夏さんは本当に優しい人だ。
頑張ろう。バイトもバンドも、これから結束バンドのみんなで。頑張っていれば、見えないものもそのうち見えてくると信じて
「すみませんオレンジジュース」
「あ、は「は、はいっ」え…?」
「お、ゆうちゃんもやってみたくなった?やり方分かる?」
「は、はい…分かります……」
ひとりが自分から仕事を申し出た
虹夏さんの話を聞いてひとりも思うところがあったんだろうか。どうやらひとりも変わろうとしているようだ。ここは信じて見守ろう。
「ど、どうぞぉ……」
「いや目!目!受付の時の愛想はどうしたのゆうちゃん!?」
うん、ひとりはよく頑張ってる。他人に笑顔を向けようとする姿勢は偉い。その笑顔は僕には満面の笑みに見えるよ。ただ僕の評価が落ちるのは勘弁してもらいたいけど
予定されていたライブが全て終わり、お客さんもみんな帰ってからスターリーは閉店。後片付けをしたらようやく今日の業務は終了だ。服は唯一気付いているリョウさんの助けを借りてみんなに気付かれないようにひとりと交換して着替えた。
「今日はお疲れ、気をつけて帰れよ」
「二人ともまた明日ねー」
「はい、お疲れ様でした」
「は、はいっ…あ、あのっ……また明日っ…よろしくお願いします……っ」
「……うんっ、よろしくっ!」
「成長したね、ひとり」
「そ、そう?うへへ……」
「どう?やっていけそう?」
「うんっ……明日も頑張る……!」
「そっか、よかった」
横を歩くひとりの頭に手を置いて撫でる。
「ふへへ……」
ひとりも嬉しそうな顔をしてされるがままに僕の手を受け入れた。
バイト前にあれだけ怖がっていたのが信じられないほどひとりは自信を付けた。歩んだ数は少ないが、ひとりは確実に前を進もうとしてる。見守っていこう、ひとりの成長を、これからも
「あ゛っ」
「ん?」
「ゆうちゃんごめん、本当にごめん……!」
「どうしたのいきなり」
「私のせいで店長さん怒らせちゃった……ゆうちゃんがやったことになって、ゆうちゃんに永世トイレ掃除させることになっちゃった……!」
「ええ……一体なにしたの……」
「私が挙動不審でお客さんに不快感を与えたからだ……本当は私が死刑になって詫びなきゃいけないのに……」
いやいや、いくら挙動不審だったからって初バイトにそこまで重い罰を与えるものかな。なにか勘違いしてる可能性がありそうだ。虹夏さんにロインで聞いたら分かるかな……
「本当にごめっ……くしゅっ……!」
「……ひとり?」
「二人とも頑張ってたね」
「そだねー、また明日って言ってくれたし、入ってくれてよかったよねー…」
「うん、二人ともきっとスターリーを好きになってくれたと思う」
「ぼっちちゃんの成長も見れたし、あたしちょっとワクワクしてるんだー」
「……あの兄妹がいれば、きっと結束バンドは面白いユニットになる」
「珍しいじゃん、リョウがそんなこと言うなんて。そんなにあの二人が気に入った?」
「……まあ、そんな感じ」
「あ、そういえばゆうちゃん初めてなのにオレンジジュース出せてたけど、リョウが教えたの?」
「……うん、そんな感じ」