D.Uシラトリ区 シャーレオフィス P.M 19:30
窓辺から斜陽が差し込み、黄昏れの中で今日という日が微睡みの中に沈んでいく。高層ビルの隙間、地平線まで伸びる空には水彩絵の具が画用紙上で滲んだような茫洋としたグラデーションが掛かっていた。
それは、美しくもどこか混沌とした色彩だった。
まるで、クロード・モネを代表とした印象派が好んで描くような
ふと、その時無意識に吹いていた口笛の曲名が脳裡に浮かび、作業の手を止めた。このどこか懐かしいメロディは『オーバーザレインボウ』。有名なミュージカルである『オズの魔法使い』の劇中歌だった。
どうして『オーバーザレインボウ』だなんて、古くさい曲を思い付いたのかはわからない。だが、とにかく忘れていた題名を思い出せたことで掛かっていた
ちらりと、腕に巻いた青いセイコーの文字盤に目をやると長針はちょうど真下を回るところだった。どうやら、もう十九時半になるようだ。昼休憩に『エンジェル24』で買ったたまごとハムのサンドウィッチを摘まんでから、気付かぬ内に五時間以上もぶっ続けで作業を続けていたらしい。
すっかり日も長くなり、真夏がすぐそこまで迫っているのを感じる。
⇨
大きく溜め息を吐く。そして、全身を脱力しながら軽い上半身のストレッチを挟み、チェアーの背に
天井でシーリングファンが穏やかに回っている。壁際のシェルフには小さな鉢植えが置かれ、その中にバオバブが植えられていた。バオバブは、まるで樹木が天地を勘違いしたままで宙に根を下ろしてしまったような不思議な外見の植物だ。昔、観葉植物として流行ったこともあったが、キヴォトスにも何処かで自生しているのだろうか。そして、このバオバブはいつからオフィスで生活を共にしていたのだろうか……ダメだ、まるで思い出せない。
諦めて視線をゆっくりと下ろすと、デスクの上には限定品でプレミアが付いている『カイテンジャー』の超合金シリーズと、すっかり冷めてしまったインスタントコーヒーがマグカップの中でとぐろを巻いていた。そして、既に半分ほど燃え尽き――今もなお燃え続けている――ラッキーストライクと、銀色の灰皿。
それぞれをなぞるように視線を彷徨わせると、やがて乱雑に積まれた書類の山々に辿り着く。その山脈は既に押印の済んだものが約三割で、残りの全ては手付かずだった。初めは、このハイテクノロジーなキヴォトスで紙媒体とはこれ如何に……と、首を傾げたものの、ミレニアムハイスクールの生徒たち(主にヴェリタスの面々)による高度なハッキング技術を目の当たりにしてしまうと敢えてデジタル化しないことで、キヴォトス中枢を司る連邦生徒会という組織の情報漏洩を防ぐ策なのだろうと合点がいった。それが果たして有効かどうかはさておき。
⇨
しかし、だ。僕は煙草を一口吸い、そして苦々しい気持ちで――その墓標じみた書類の山々を見つめ――煙をゆっくりと吐き出した。
古くなったやり方には、当然それが廃れた理由がある。例えば、電子管理であれば済んだものは逐一データ送信すればいいが、紙だと移動と確認に手間がかかる。そうして、デスクが整理されるよりも早く追加されていく紙束は例えるならば、わんこ蕎麦でお椀の蓋を閉じる前にお給仕さんが「はい、じゃんじゃん」なんて掛け声と共に蕎麦を継ぎ足すのを止めてくれず、想定よりも多く食べさせられることになってしまった時のような、ある種の洗礼じみた苦しみを想起させられた。
まあ、幾ら愚痴を溢してみたところで仕方がない。
それに、この殆どは滞ったとて大した支障のない書類だ――現代社会でのあらゆる営みが、多少滞ったところで表面上は大きな問題が生じないのと同じように――なので、別に作業の進捗具合を気に病む必要はない。
それは、失踪してしまった現連邦生徒会会長の
ただ、だからといって、与えられたタスクを真面目に
そういった理由でまた一枚、書類の束から紙を拾い上げさらりと目を通す。
……そこには、失踪した飼い猫の捜索依頼について受領と完了の経緯が簡素に纏められていた。書類の下部には、防衛室長である『
それにしても、こんな雑用までが連邦生徒会……と、それに属するシャーレの業務に含まれているとは、赴任した直後は驚いたものだ。これもある種、シャーレの活動を錯乱するカモフラージュなんだろう。実際、こういったブラフのお陰でシャーレは民間からゲヘナ生の『
しかし、この件は先生である僕の所へ持ち上がる前に、防衛室直管であるヴァルキューレの生活安全部が事前に解決してくれたようだった。きっと、『
今度、ヴァルキューレに用事がある時は差し入れにドーナツでも持っていってあげよう……などと、二人の顔を思い浮かべながら、書類に押印をする。
⇨
それからもひたすらに、取るに足らないような内容の書類を隅々までチェックし、押印し、それを十回は繰り返したところで、両手を天井に向けて上体を反らし大きな伸びをする。随分と疲労が蓄積していたようで、身体のあちこちから生乾きの薪木が火に当てられて弾けた時のような高い音が響いた。
最近は、こういったデスクワークばかりで運動不足が続いている。日課にしていた、シラトリ近隣公園での散歩を怠っているのも大きいだろう。このままではやがて全身が大理石のように凝り固まり、有名なミケランジェロの彫像のようになってしまいそうだ。確かに、キヴォトスにおける
そんな縁起でもないことを考えながら、煙草を灰皿に押し付け、重たい腰を上げる。鬱陶しい西日を遮る為にブラインドを下ろそうとした。
――その時だった。
「先生っ!どうしよう……私っ!」
オフィスの両開き扉が壊れるような勢いで開け放たれたのと同時に、部屋中に明朗な声が響き渡る。顔面蒼白で飛び込んできたその少女は――敢えて
余程のっぴきならない事態だったのだろう。いつもは、年頃の乙女らしく細部まで徹底的なまでに整えられている身嗜みは酷く乱れていた。それに、彼女の持ち物としては見慣れない人一人は入りそうなほどに大きな黒いスポーツバッグを下げているのも、印象が違う原因だろうか。中が膨れ上がった荷物は細身なミカとの対比で余計にその異様さが強調されている。とはいえ、なんだかんだでその立ち姿からは気品を感じるのだから流石は名家のお嬢様といったところか。
しかし、その華奢な体からは想像も付かないような膂力で放たれた衝撃により――オフィス全体がちょっとした地震のように小さく揺れ――溢れたコーヒーが書類を何枚か湿らせてしまった。あぁ、これは後で
「あのね、先生。驚かないで聞いて欲しいんだけど……」
そう言いながら、一度ミカは深く深く息を吸った。その控えめに伏した視線からは、ピリピリとした極度の緊張状態が感じ取れ、釣られるようにして僕も息を呑んだ。しばしの沈黙――それは時間にすればたった十秒にも満たない間だったが――薄く引き伸ばされた十秒が、互いにとって気の遠くなるような空白に思えた。そして、やがてミカは握りしめた拳を震わせながら、恐る恐る言葉を絞り出す。
「……私ね。今、人を殺した疑いで追われてるの」
「え?」
――それは、まさしく青天に轟いた霹靂だった。
思わず布巾を動かす手が止まり、ミカの蜜色の双眸をじっと見つめることしか出来なくなるぐらいには。
「人を……何だって? ごめん、僕の聞き間違えかな?」
「ううん、間違いじゃないよ。全部、何かの間違いだったら良かったんだけどね」
諦めたような口調で小さく言葉を零しながら、彼女は徐ろに室内へと歩みを進めた。どさりと重そうな音を立て、大きなスポーツバッグを床に置き、そのまま重みを感じさせない身体を黒いリネンのファブリックソファに沈ませる。
ことシャーレにおいては、問題を持ち込んでくる生徒の存在など日常茶飯事だった。しかし、どうやら今回はいつもより喫緊の事態らしい。
……聖園ミカが、人を
一瞬いつぞやの事件が脳裏を過ったが、静かに頭を振って、直ぐにその考えを追いやった。蛍光灯が一度弾けるような無機な音を奏でて、その後はただ冷たい沈黙だけが部屋を包む。
「ねえ、私、どうしたらいいんだろう。こんなことで本当に先生を頼っていいのかな。また、困らせちゃうんじゃないかな。そうやってね、いっぱい悩んだんだけどね。もう、一人じゃ頭の中ぐるぐるこんがらがって、わけわかんなくなっちゃって。ごめんね、結局来ちゃった」
ミカは沈黙を破ると、堰を切ったように捲し立て、堪えられないといった様子で端正な顔立ちをぐしゃぐしゃに歪める。
こうして泣き崩れる姿さえ、まるでオペラのワンシーンかのように見えてしまうのは、神から与えられた、その美貌――目と眉の間隔が狭く、ぱっちりと開かれた瞳に並行で幅の広い二重、色素の薄い蜜色の瞳に、上を向く長いまつ毛、卵型で掌に収まってしまいそうなほど小さな余白のない顔、少女らしいあどけなさを残しつつも、全てのパーツが完璧なまでにあるべき場所に存在している――が為せる技なのだろう。
一拍置いてから、自分がじっと彼女を見つめたままで立ち竦んでしまっていることに気が付き、慌ててミカの隣に腰かけた。その矮躯を優しく両腕の中に手繰り寄せると、薄桃色のつむじからふわりと果物のような甘い香りが鼻をくすぐった。
「ミカ、一旦深呼吸しようか。落ち着いたら、何があったのかを聞かせて欲しいな。君の力になりたいから」
「……」
彼女は何度か嗚咽した後で、無言のまま頷き、僕の身体に縋ると呼吸を整え始める。小さく艶やかな唇が引きつりながらもゆっくりと空気を吸いこみ、それに合わせてあばらが膨れ上がり、吐き出すと共に萎んでいく。その間も遠慮がちにこちらを見つめている蜜色の瞳は揺れて潤み、眉下で切り揃えられた前髪が冷や汗で額に張り付いている。
暫く、そうしてミカの呼吸を感じ取りながら、固まったその身体を解すように抱きしめていた。
⇨
やがて、彼女はか細い声でぽつりぽつりと言葉を溢し始める。
「勿論ね、そんなつもりはなかったんだよ? ホントに
「そんなことないよ。何があったのか、もうちょっとだけ詳しく教えてくれるかな」
尚も腕の中で小刻みに震えていたミカを安心させる為、柔和に微笑みかける。すると、少しは落ち着いたのか、先ほどより血色の戻った顔色で彼女は頷いた。
……ふとその時、街のどこかから救急車のサイレンが鳴り響いた。
誰もが知っている、あの
次に彼女が口を開いてくれるまで、僕は遣る瀬もなくシーリングファンの羽が回転するのをじっと目で追いかけていた。無性に煙草を吸いたい気分だったが、生徒の前では控えている為にポケットの中からレモンキャンディを一つ取り出して口の中に含む。
「先生にはまだ話せてないことも沢山あるから、長くなっちゃうんだけどね……」
「時間は幾らでもあるから全然構わないよ。そうだ、折角だし紅茶でも淹れてこようか。ティーパーティーのお茶会ほど立派にってわけにはいかないけどね」
「気を遣ってくれてありがとうね、先生。その間にちょっと頭の中を整理しておくね」
僕は半ば逃げるようにして重たい空気の充満するオフィスから出て、ぼんやりした白い壁が続く廊下の先にある給湯室のスライド扉を開いた。
四畳ほどの狭い空間にIHコンロや電気ケトル……それから、当番の生徒たちが持ち寄った様々な飲み物やインスタント食品などが所狭しと乱雑に置かれている。それでも、最後に利用した生徒が几帳面な性格だったのか、いつもよりは整然としていた。
一度、換気扇の下で深呼吸をしてみたが、ここにもオフィスと同じく湿ってとろみがついたような重たい空気が漂っているようだった。或いは、今の僕の気管には低品質なフィルターが取り付けられていて、どんな清浄な空気であっても澱んだ悪い空気に変えてしまうのかもしれなかった。
とにかく、棚から来客用に買った――値段について『
そうした数分の間に先ほどまで貧血を起こしたかのように青白かったミカの肌も幾らか健康的になり、リラックスした姿でソファーに体を預けていた。
「このお紅茶、いい香りだね」
「そう言ってもらえてよかった」
「それでね……」
彼女は、紳士淑女がそうするように、ごく自然な姿勢でティーカップの取っ手を指で摘まみ、優雅に葉の香りを確かめた後で一口だけ紅茶を啜った。そして、ミカの口から事件の概要が訥々と語られ始める。
⇨
「順を追って説明しなきゃだよね。事の発端はさ、エデン条約締結の後も未だに燻り続けているトリニティ内部の政治的な対立だったんだ。『浦和ハナコ』ちゃんが、いつか嫌味を言っていたみたいに、トリニティ総合学園っていうのは毎日飽きもせずにくだらない派閥闘争ばっかりしてるわけなの。……学園の意思決定を担うティーパーティと、それに連なるシスターフッドや救護騎士団を初めとした大小様々な組織。そういうのがね、雨が降る前の蟻の行列みたいにわんさか居て、学園内での権力を強める為に虎視眈々と機会を窺ってるんだよね。『マックスヴェーバー』が言うには、政治勢力の群雄割拠は近代民主主義にとって最良の環境だなんて言うけれど、そういう
時折、大きく身振り手振りを交えながら語られたミカの話は、そこでぴたりと勢いを失ったように打ち切られた。
つまりは、そういう事のようだ。
⇨
「なるほど、よく分かったよ。それじゃあ僕も一緒に出向くから、今からでもトリニティに戻って皆に説明しよう。僕はミカが誰かを殺めてしまったなんて噂は、証拠が出るまでは信じない。ナギサやセイアや他の子たちだってそんな馬鹿げた噂は信じていないと思う。きっと、すぐに理解してくれるさ」
しかし、僕の提案にミカは静かに首を横に振る。半分ほどまで中身の減ったティーカップをソーサーの上に戻すと、その蜜色の透き通った瞳を伏したまま小さく言葉を紡ぎだした。
「どうだろう。少しだけ暴れたって言ったけどね、本当は喧嘩した時のことあんまり覚えてないんだ。昔から、カッとなるとつい頭に血が上って、自分が何をしてるかわかんなくなっちゃうの……。そういうのをコントロールしなくちゃいけないことは、ちゃんとわかってるんだけどね。それにさ、『反聖園ミカ』の子たちが『今こそ、大罪人である魔女を処刑して罪を償わせる時だ』って息巻いてた。広場にわざわざ時代錯誤なギロチンまで用意しちゃってさ、フランス革命か!って笑っちゃうよね。だから、きっとトリニティに戻っても話しなんて聞いてもらえないと思う。下手に庇おうとしたら先生まで酷い目に合わされちゃうかもよ……ルイ16世みたいに」
広場にギロチンか、なんて物騒な話だろう。
トリニティは校舎の造りからして風俗が中近世ヨーロッパ的ではあるとはいえ、まさかそんなものまで存在するとは。かつて『アリウス派』を筆頭に、異端として他宗派を破門し追放していた頃の名残だろうか。
そういえば、未だにトリニティ自治区の外縁には荒廃した様々な文明の痕跡が窺える廃墟群が佇んでいる。それらは信仰を守るためにトリニティという強大な組織に歯向かい、そして無残に殉じていったマイノリティたちの成れの果てだと、アリウススクワッドの『
そういう歴史的経緯を鑑みると、ミカが言っていたように学園の構造が一朝一夕で変わることはないのだろう。何故なら、そのような歴史の残滓が既に『エデン条約事件』よりもショッキングな出来事を通過しても尚、派閥闘争に付随した暴力と排斥が変わらず受け継がれていることの証左だからだ。
ミカの深い溜め息を聞きながら、暫く瞑目して思考を巡らせていた。
確かに、既にそこまで状況が荒れているのなら彼女を連れてトリニティに戻るのは危険だろう。熱狂の渦中にある民衆の暴走は舐めてかかれるものではない。その末路はそれこそ歴史が重々証明しているのだから。
それならばと、別の提案をしてみることにした。
「そうだな、一旦ナギサやミネやサクラコたちに場を収めてもらえないか頼んでみるよ。学園全体が混乱している時こそ、外部の存在である僕よりも、内部でカリスマ性のある彼女たちの力を借りた方が良さそうだからね」
幾ら殺伐としたトリニティとはいえども、まさか殆どの生徒が
……もしそうでなければ、どのみちミカの居場所をトリニティ外部に作る必要がある。例えば、一時的にシャーレで身柄を預かるとか、何処かの学校と話をつけて転入の手続きをするとか。
そんな前例が存在するのかはわからないが。
しかし、それを聞いても尚、ミカの不安は拭えないようだった。彼女は白魚のような指で毛先を弄りつつ、僕の話を心ここにあらずといった様子で聞いている。
「どうだろう……難しいかも。
そこまで言うとミカは、力なく俯き「助けるなんて言ってられないもんね」と、呟いた。
⇨
……正直なところ、その仮定に僕はどう返答して良いものかわからなかった。前に居た場所は勿論、この物騒なキヴォトスに来てからだって、殺人の過去を持つ人間と接した事なんてない。そもそも、生徒が死ぬとはどういうことなのだろう。それが意味するところはキヴォトスの
キヴォトスへ来てから、死を間近に感じたのは『プレナパテス』の一件くらいなものだが、あの一連の事件はそもそもが漠然とした白昼夢のようであまり実感がない。
とにかく、聖園ミカは僕の大切な生徒だ。それは例え、天地がひっくり返ろうと変わる事はないだろう。
しかし、仮に事故とはいえ、怒りに任せて殺人を犯してしまった生徒と、以前と同じように接する事なんて果たして可能なのだろうか。意識的にせよ、或いは無意識にせよ、そこには恐怖による距離感が生じてしまうのではないか。そして、その態度の違和感はミカにもはっきりと伝わってしまうだろう。それは先生と生徒という関係性に於いて、取返しのつかないような溝になるに違いない。
しかしだ、普段は麻痺してしまっているが、ここキヴォトスでの僕の命は吹けば簡単に
どれだけ、生徒たちの前で大人としての虚勢を張ろうと、僕は元々何物でもない小市民。死の気配を感じて恐れを抱かない筈もない。
色々な想像が鎌首を
その彼女の敬虔な表情に呼応して「おい」と、頭の中で自分自身が言葉を投げかけてくる。「お前はシャーレの
それに対して「そんなことを言ったって、僕は
「いや、こんな仮定に過ぎないことは、今ここでどれだけ自問自答したところで無駄だ」と、更に冷たく現実主義的な思考が口を挟んでくる。
「そんなことは、全てが明るみになってから嫌という程悩めば良いじゃないか。とにかく、今は目の前の現実とだけ向き合うべきだ。聖園ミカは生徒を殺している
目の前の現実とだけ向き合う。それは結局のところ、何の解決にもならないリアリズムという名の現実逃避にしか過ぎない。それでも、悩んで時間を無駄にするよりかは幾分マシに思えた。僕は、不毛な脳内会議をそこで打ち切ると、気を取り直してミカの両肩をそっと抱き、瞳を覗き込むようにゆっくりと告げる。
「まだ、何も決まった訳じゃない。今はただ、時が経つのを待つべきだ」
「うん……そうだよね。ありがとう、先生」
そうして、何とか捻り出せたのは……まるで地に足の付かない台詞だった。
それでも、放心状態でそれを聞いていたミカは、天から宣託の下った信徒のように瞳に光を輝かせながら頷いた。どうやら、彼女にもう一度立ち上がるだけの材料を与えることには成功したらしい。たとえ、何の解決にもならないその場凌ぎの気休めでも、時にはそういった前向きな言葉をかけること自体が重要な意味を持つこともある。
しかし、そんな僕らの弱々しい奮起を吹き飛ばすように、再びオフィスの扉が勢いよく開かれた。
⇨
「そんなに悠長なことを言っている暇はないかもしれませんね、あなた様」
「ワカモ?」
「……狐坂ワカモって、あの七囚人の?」
「大丈夫、彼女は僕たちの味方だよ」
腰まで届く黒髪を棚引かせながら現れたのは、一風変わった見た目の少女。……その姿を見てミカは大層驚いた様子だった。
ワカモの風貌は、傾奇者とでも云うべきだろうか。顔を狐の面で覆い、黒のセーラー服を大胆に桜柄の和装へと改造した上着に、華美な丸帯を腰に巻き、スリットの入った白いプリーツスカートは煽情的なまでに短く、健康的ですらりと長い足が太腿まで露わになっていて、首元にはチョーカーが、そして頭頂部には長く尖ったイヌ科を思わせる動物的な耳と、紅蓮に輝くヘイローが浮かんでいる。
彼女は、元々キヴォトスで何かしらの大罪を犯したことにより矯正局に幽閉されていた。なんやかんやの末に、いつの間にやらシャーレに住み着いてしまっているが、現在も脱獄中の身分である。ある意味では、今のミカと似たような境遇と言えるだろう。
趣味は『破壊』と『略奪』。それを公言して
そして不思議と僕は、彼女に恐怖を抱くことなくその存在を受け入れている。そういえば、ワカモが神出鬼没な故か、今までシャーレに訪れるミカと顔を合わせることはなかった。
つまり、これが彼女たちの初対面になる訳だ。
しかし、生憎タイミングが悪かった。ワカモは何故か盲目的といえる程に僕を慕ってくれていて――おまけに嫉妬深い。不可抗力であるとはいえ、僕がミカを抱きしめている姿を見てしまった、ワカモの仮面の下は今どんな表情になっているのだろう。そのことについてはあまり考えたくはない。
そんな、僕の焦りを知ってか知らずかワカモは平坦に言葉を続ける。
「意思を持たぬ権力の犬……ヴァルキューレ警察学校を名乗る者たちが、手配犯の引き渡しを求めてこのオフィスビルを取り囲んでおります。狙いははっきりしていますし、そこの『先生がお好きそうな、可愛らしい生徒』さえ差し出せばこの場は丸く収まるでしょう。ですが、あなた様といえば、まるで抹茶に添えられる落雁のように甘くお優しいお方。どうせ、公組織を敵に回すとしても、助けを求め縋り付く生徒を見捨てたりはしないのでしょう?」
「……うん、そうだね」
少し棘のある皮肉に図星を突かれた僕は、頭の後ろを掻いて誤魔化すしかなかった。困ったような乾いた笑みを浮かべてワカモをじっと見つめていると、彼女はやれやれと肩をすくめる。
……それにしても、もうヴァルキューレのお出ましか。幾ら、キヴォトスを揺るがすような重大事件とはいえ、トリニティの自治区内で起こった事件への対応にしては些か動きが早すぎるような気がする。その辺りの事情は、後でそっとカンナに探りを入れてみるか。
「皆まで言わずともわかっております。このワカモ、あなた様の
彼女はそこまで言うと、静かに面を外して口元に微笑みをたたえる。常々『素顔を見せるのはあなた様にだけでございます』とワカモは語っていたので、ミカがいるこの場で素顔を晒したことには驚いた。
そして、ワカモはすらりとした長い足でゆっくりとこちらへ歩き、僕たちの向かい側へと腰を下ろす。そのまま、切れ長で三白眼気味の艶やかな視線を向けてミカと言葉を交わした。
「そこの貴女、お名前はなんとおっしゃるのですか」
「……聖園ミカ、だけど」
互いを試すように、二人の双眸がぶつかりあっている。
緊張したミカの手先が、そっと僕の掌を探り当てて握りしめた。
「聖園ミカさん……なんとまあ、いじらしいお方。まるで、穢れを知らぬ純真無垢な乙女のようでありながら――その内からは凶暴な『獣』の香りが致します。ああほら、すぐここにまで……その身に秘めた破滅を渇望する
誘うように探るように紡がれる言葉の中から、ぞくりとした悪寒を感じる。それは、もはや殺気と形容してもよく、しかしそれとはまた違う、いわば強烈なプレッシャーのようなものだった。
……ワカモは、少なくとも僕の前では一人の良い生徒で居てくれている。しかし、それと同時に、僕以外の殆どの生徒たちにとっては
一体、そのどちらを彼女の本性と呼ぶべきかはわからない。いや、きっとまたどちらも分けて考えることの出来ない、狐坂ワカモという少女を形作る本質なのだろう。善性と邪悪は、人間の中で矛盾せず両立し得るものだ。或いは、人間の精神の複雑性は矛盾をも包括し得ると云うべきだろうか。
少しの空白の後で、ミカはその言葉を噛み締めるように大きく首を振った。
「あのね、ワカモちゃん。私はもうそれ一回やってみたの。散々好き放題に大暴れして、足りない頭も使って、気に食わないものを全部片っ端からぶっ壊そうとした。私を閉じ込める檻みたいなトリニティも、そこに巣食う寄生虫みたいに醜い奴らも、品性の欠片もないゲヘナの奴らも、皆みんな大嫌いだった、全部ぶっ壊れちゃえって思ったの。だから、あんな、誰にも理解されないような馬鹿みたいなことをしたんだ。ねえ、自治区の違う――その制服は百花繚乱のだっけ――ワカモちゃんもエデン条約に纏わる事件くらい、流石に知ってるよね。私はね、あの
喋りながら、時折強く、そして弱々しく。ミカは心中を垂れ流すように、素直な言葉をワカモに返した。その蜜色の瞳は一種の決意を宿しているように、毅然と注がれていた。
「そうですか。それだけはっきりと仰られるのであれば――この私の予感は恐らく気のせいだったということなのでしょう。ええ、申し訳ありませんが、私は少々貴女を疑っていました。貴女の本性は既に『獣』に堕しているのではないか――と。しかし、それは、余計なお世話だったようですね」
「……」
ミカは、それ以上は何を言えばいいか考えつかないというように、ぶつけられた視線と言葉を俯いてそっと切った。ワカモはちらりとそんなミカの表情と足元の大きな荷物を見て、再び口を開く。
「それでは、ミカさん。貴女は私のようにならないよう、気をつける事です。矯正局に送られるということを貴女がどう解釈しているかはわかりませんが……少なくとも、ミカさんが行った
彼女は、話しながら、主に僕に向かって微笑みかけていた。……その昏い瞳に、何か暗示めいたものを浮かべながら。ワカモは、ミカとの会話の中で僕に不自然なまでに何かを伝えようとしていた気がする。しかし、そのメッセージはあまりに抽象的で、上手く掴めずにいた。
――その時、オフィスのある階の下から騒がしい音がし始めた。
「さて、少しお喋りが過ぎたようですね、洋風に言えば『たいむりみっと』という奴でしょうか。では、今から私が外の連中を引きつけます。戦闘の始まる音が聞こえたら、それを合図にすぐ裏手の非常口からお逃げください。私があの間抜けどもを相手に大捕物を演じ、きっかり一時間……いえ、あなた様への愛を思えば三つは刻を稼いで見せましょう」
逡巡を断ち切るように、ワカモは作戦を手短に述べて、愛用のライフルを構え、背を向けた。濡れ鴉のように美しい長髪がふわりと舞い大和撫子と呼ぶに相応しい彼女は、そこが戦場となれば目に映るもの全てに『破壊』を齎す修羅と化す。
敵にすれば厄介なことこの上ないが、味方となった今はとても心強い。
「ワカモ、こんな危険なことを任せちゃってごめんね」
「いいえ、この程度はお安い御用です。あなた様の為であれば、例え火の中水の中……相手が鬼でも仏でも、私は
事もなげに、彼女はそんなことを言ってのけた。
その確信に満ち溢れた表情から察するに、恐らく大言壮語の類ではなく、本心から湧いて出た言葉なのだろう。それ故か、本来は僕よりもずっと小さな筈の背中が不思議と大きく逞しく見えた。
僕は、その後ろ姿へ心からの感謝を述べる。
「ワカモ、この埋め合わせは今度必ずするよ。何でもするから何がいいか考えといて」
「……なんでも? うふふ、そのお言葉!
一連のやり取りで機嫌を良くしたらしいワカモは、そのまま軽快な足取りでオフィスの扉を開けて出ていった。
しばらくして、ヴァルキューレの生徒と思われる
「あ~あ、目の前でそんなにいちゃつかなくてもいいのに。なんだか妬けちゃうな?」
「ははは」
ミカはしばらくの間、僕たちのやりとりを借りてきた猫のように大人しく聞いていた。いつもはどんな事にも首を突っ込み、茶々を入れたがる彼女だが……我慢して空気を読んでくれたのだろう。とはいえ、その咎めるような言葉には、乾いた笑いを浮かべることしか出来なかった。
「まぁ、とにかく強力な助っ人が手を貸してくれたのは有難い限りだよね。あの『災厄の狐』が、腑抜けたヴァルキューレの子犬ちゃんたちなんかに負けるとも思えないし。さぁ、折角の好意を無駄にするわけにも行かないじゃんね。私たちは、今のうちに逃げよっか」
ミカはそう言いながら、今度はしっかりと僕の手を引く。
「ワカモちゃんが
「あんまり王子って柄ではないんだけどな」
「もう、いいの!男の子はね、自信がなくてもしゃんとしてるほうが格好いいんだよ」
「……わかったよ」
その瞳をしっかりと見つめ返し、僕は手を握り返した。
⇨
外の非常階段へと繋がる扉を開くと、むわりとした初夏の湿った熱気が体に纏わりついてくる。
たった数秒そこに居るだけでシャツが張り付くような暑さに、うんざりとした気分だったが、立ち止まっているわけにも行かないので足早に階段を下りていく。
手入れの怪しい古錆びたスチール製の踏板の上に足を乗せる度、カランカランと頼りない高い音がたった。時折、強く横風が吹きつけては、何処かの部品が軋んで階段が揺れている。
下りている間はとにかく互いに無言だった。ミカは喋り疲れたのか、ただもの静かに浅い呼吸を繰り返しながら、汗ばんでぬるついた手をぎゅっと握りしめている。久しぶりの激しい運動の所為で、階段の中ほどまで下りた頃には随分とふくらはぎが張ってしまった。
そうして、少し呼吸を整えていた時だった。突然、どこかで喧しくカラスが叫ぶ声が聞こえた。
それを皮切りに、まるで呼応するように何羽ものカラスが低い
先を走る僕が突然止まったことで、ミカは僕にぶつかり彼女の柔らかい感触が伝わる。
「どうしたの、先生。急に止まったら危ないよ?」
「いや、月の色がさ。ほら、凄く不気味で……」
「月?」
そう声をかけられた瞬間に、気が遠くなるような眩暈に襲われた。不意に蝉時雨が煩く鼓膜を揺らし、そして再びカラスの野太い警告じみた声だけが聞こえる。
「―――?―――?」
鈍い痛みがこめかみに走り、ぐらぐらと視界が揺れていた。
遠くから、ミカが僕に向かって必死に喋りかけてくれているのがわかる。しかし、その肝心な内容は一切聞き取れない。彼女は一体何と言っているのだろう。返事をする為に口を開こうとして、上手く舌が回らないことに気が付く。喉が寝起きのように恐ろしい程からからで、声がどうにも絞り出せなかった。
「ーーー!ーー?ーー!!」
その内にどうしたものか緩やかな眠気のようなものがやってきて、意識を保っているのがやっとになってしまった。例えるなら、底のない深い沼か何かにゆっくりと沈み初めていて、その縁からミカが必死にこちらへ手を差し伸べているような感覚だった。僕も慌てて手を伸ばし返すが、ミカの腕まで届くことはなく、そのまま何処までも深い所まで沈んでいってしまうようだ。
「せーーい?ーーの?ーーよ。もうーーーーよ」
イメージの中では既に身体は生温い泥に首まで浸かっていて、もはや助からないといった所だった。頭上から、赤く丸い月が不気味に僕を見下ろしていて、してやったりとばかりに意地悪そうに微笑んでいるように見える。不思議とこうなったのは全てはあいつの所為なのだと感じた。
あいつが今まさに僕を何処かへ引きずり込もうとしているのだ。
「もうだいじょうぶだよ」
最後にどうにか聞き取れたのは何処か幼さを残した声だった。それが聞き取れたからといって、どうということもなくそのまま僕の視界は滲んでぐるんと勢いよく暗転する。
大丈夫? 一体、何がどう大丈夫だというのだろう。
⇨ 続く