「あなたを想うなら、今夜」の前日譚にあたるお話です。
『今日がどんな日でも 何をしていようとも』
「僕はあなたを探してしまうだろう~♪」
お気に入りの歌を流しながら、積み重なった食器を一つひとつ洗っては整理していく。かちっ、かちっ、とメトロノームが鳴るように、皿の重なる音に合わせて尻尾が揺れる。
トレーナー室の一角で、彼女たった一人しかいないこのトレーナー室の一角で、あたたかな幸せを噛み締めるように、あるいはやさしく抱き締めるように、彼女の金の尾はゆったりと揺れる。それは、冷え込む冬の中、まるで彼女のあたりにオレンジの空気が漂うようだ。
トレセンのトレーナーというのは忙しいもので、中央である府中のトレーナーともなればもはや仕事とプライベートは癒着してしまう。中央で結果を残すために彼ら彼女らは自分の時間を削ってもその業務に取り組もうとするが、その内にほとんどはわざわざ自宅に帰る時間をもったいなく感じてしまう。トレーナー室一つひとつにキッチンやらベッドやらシャワー室やらがあるのは、学園側がそんな、あまりにも働く、あまりにも働きたがるトレーナーたちに寄り添った結果だ。
キッチンで尻尾を揺らす彼女のトレーナーもまたその例に漏れず、唯一の担当であるゴールドシチーがレースで活躍できるように、平日はほとんど家に帰らず、一日の全てをこのトレーナー室で過ごしてまで仕事をしている。融合してしまった彼の仕事とプライベートを象徴するように、この部屋は彼の香りで満ちて、ベッドにはいい加減に放置された毛布、枕、彼の私服や仕事着が寝転がっている。洗濯機のわきの洗濯かごには雑に突っ込まれた靴下や肌着なんかがあって、でも冷蔵庫には丁寧に整理された食品がぎっしり詰まっている。ここは正しく『彼の部屋』なのだ。
この食器棚もそうだ。柄物を好まない彼の内面を映すように、白と黒の皿、小鉢、茶碗に、いくつかのガラスのグラス、そして大事そうにしまってある二つのマグカップ。片方に小さく「シチーの」とだけ書かれた真っ白のその二つに、シチーはいつも見惚れては、彼のシルエットを思い起こす。
「食器、洗ってくれてたんだ。ありがと」
ドアが優しく開かれて、彼の声が聞こえる。
「どういたしまして。アンタ、最近忙しそうだし」
「シチーだって大変でしょ」
彼の微笑みながら話すのが分かる。顔は見ずとも、そんな雰囲気が彼の周りに漂っている。
「そんなことないよ。流石に中央のトレーナーには敵わないし」
「じゃあ、ありがたく甘えるよ。洗うのは俺に任せて、洗い終わったやつを拭いてほしいな」
「わかった、お願い」
彼はシチーの隣に立って、シンクに溜まった食器を洗う。泡を纏うスポンジで、多彩に汚れた皿を磨いて、米のこびりついた茶碗を擦って。その横でシチーは、水切りバスケットに並べた食器をタオルで拭いて、キッチンの空いたスペースに重ねていく。やがてバスケットが空になると、彼が洗って、シチーに食器が手渡される。洗っては拭いて、洗っては拭いて。彼からシチーに流れて行われるその作業はなんだか、トレーニングの時のよう、同じ道を辿って二人で歩く、あの寂しさを拭うあたたかな空気に包まれて、シチーは幸福感を覚える。それはきっと、彼も。自動再生に設定したサブスクの音楽が、やがてアウトロになれば、いつか二人でイヤホンを共有して聴いたあの曲になる。
『この曲、おすすめって言われたんだ。トレーナーも一緒に聴いてみようよ』
もういつ頃か分からない。ある日友人にすすめられて、その曲を検索したはいいものの、自分にとって未知の音楽に手をつけると言うのはとにかく勇気のいるもので、再生するのが怖くて、でも信頼を寄せるクラスメイトのすすめだから聴いてはみたい。そこで、他人を巻き込んでしまえば踏ん切りもつくかと、一番関わりの深かったトレーナーにイヤホンの片耳を分けて、トレーニング前に無理矢理聴かせたことがあった。
『……この曲、めっちゃ良くない!?』
『うん、良いね。チヨノオーさんがすすめたんだっけ、気にいった』
『お気に入りのプレイリストに入れちゃお。アンタはサブスクとかやってる?』
『うん。多分シチーと同じやつだよ』
『じゃあさ、アタシのお気に入りのプレイリスト送るからさ、アンタの好きなやつも送ってよ! アンタがどんなの好きか気になるからさ』
そうして互いのプレイリスト欄に、それぞれの名前を刻んだ。ゴールドシチーと、トレーナー。あくまで走ることのみのためのコンビだったのが、これを機に、ビジネスライクな関係から友人に近い距離感になった気がする。今でもたまにシチーは『トレーナーのプレイリスト』を再生して、トレーナーもまた、たまに『シチーのプレイリスト』を再生する。それに共通することがあるならきっと、その日に二人で聴いたあの曲。
「懐かしいな。この曲、チヨノオーさんがすすめたんだっけ」
「そうそう。アタシが無理矢理アンタに聴かせて、そしたら二人ともハマっちゃってさ」
「シチーのプレイリストにも入ったまんまだし」
「アンタの好きなやつって言って、アタシも好きなやつ入れんなし、みたいな! ほんとウケるわ」
「俺は嬉しかったよ。シチーと同じものを好きになったって感覚あって、仲良くなれた気がした」
「まー、アタシもそう思うよ。てか見事にこれ以外全くかぶってなかったじゃん。どっちもミーハーなのばっかなのにさ」
「確かにな」
話が弾んで、水しぶきも跳ねる。少しずつ濡れるスーツにも気がつかぬまま、シンクはゆっくりと片付けられていく。
ぱりん。
足元でそんな音が聞こえる。隣を見てみると、驚いて、何だか気まずそうな、青ざめた顔。その手はタオルを持って丸いシルエットを掴んだよう。音源を見下ろすと、いくつかの白の破片と、粉々に砕けた後の粒。いつかの誕生日に家族から贈られた、お気に入りの一枚。その柄だった。
「……ごめん、割っちゃった」
落ちた声音で一言、そう言うシチーは、親に叱られた子どもに似た顔で、床に臥せる皿だったものを見つめている。
「怪我はないか? 危ないからちょっと離れてて、今ほうきとちりとり持ってくるから」
「あ、アタシがやるよ」
「大丈夫。トレーナー室の掃除はあくまで俺の責任でやることだ、俺に任せて」
彼はまるで怒るそぶりを見せない。
あれは彼のお気に入りだったものだ。食器棚の中で、一つだけ重ねることなく飾るように前に置いて、ことあるごとにあの皿を使ってご飯を食べていた。白を基調として、かわいらしいマスコットキャラクターがワンポイントデザインされた、シンプルながら素敵な一枚。
『これ、良いだろ。家族に誕プレでもらったんだ』
そう言って自慢していた、彼のあの時の顔を思い出す。嬉々として家族との思い出話、デザインされたキャラクターの話をしていた彼はとても生き生きとしていて、そんな彼のことがシチーは好きだった。
怒んないの?
ふと漏れた言葉に彼は顔を向ける。
「アンタが自慢してたお気に入りの皿じゃん。アタシが落として割ったんだから、普通、怒るでしょ」
悪い癖が出た、ふとシチーはそう省みた。納得できないことがあると、納得するまで誰かに問い詰めてしまう。相手の気分を悪くする嫌な癖だって分かってはいるのだけれど、どうしても出てしまうのだ。こんな自分のことが嫌になってしまうけれど。
「怒らないよ。シチーだってそう言うミスくらいするだろうし、俺だってもちろんするから」
彼は優しく、あたたかく、シチーの嫌なところも包み込む。
「……そっか」
「それに、俺もちょうどシチーくらいの頃に両親の結婚記念にじいちゃんがくれたっていう皿を割ったけど、親父は怒らなかったからな。むしろ、じいちゃんから貰ったもんにお前が割ったって箔までついてめでたい皿だ、なんて言って笑ってたな」
シチーは前からきっと、こんな彼の陽気で穏やかな優しさが嬉しくて、たまに暑苦しいけれど、それを愛していたのだ。彼の言葉全てがシチーを安心させる材料となって、また血の通い始めた顔は笑顔になっていく。
「……ふふ、なにそれ」
「だからこれもきっと、俺が家族から貰って、シチーが割ったって箔までついためでたい皿だ! 気にすることはない!」
「じゃあ、アタシがその代わりに新しい皿、買ってくるよ。そしたらもっとめでたいんじゃない?」
「かもな!」
またトレーナー室のキッチンはオレンジの空気に包まれて、二人はいつもの笑顔で声を響かせていた。
*
「めでたいかもって言ったけどさ」
シチーのトレーナーのいるトレーナー室には、食器棚のすぐ隣に、本棚とはまたちょっと違う、ガラスの戸で守られた特別な棚がある。下の方にはこれまでシチーが掲載された雑誌がずらりと並んで、その上にはシチーが表紙を飾った雑誌が、本屋で並べられるように、正面を向いて飾られている。さらに上を見れば、レパートリーの豊富なシチーのぱかプチが整列していて、ちょうど目線と同じ高さの段には、阪神ジュペナイルフィリーズのトロフィーと、額縁に飾られた、優勝レイをまとって眩しく笑って輝くシチーの写真。
シチーのプレゼントした皿は、その隣に飾られている。もしかしたら、同じ段のトロフィーよりも丁寧に。
「せっかくシチーがくれたんだ、大事にしたいよ」
「だからってこんなにおめでたく飾る必要はないでしょ。アタシから貰えたの、そんなに嬉しかった?」
「嬉しかったよ。トレーナーになって初めて担当したウマ娘が、GIを優勝したのみならず、プレゼントまでしてくれたんだ、トレーナーなら誰でも喜ぶよ」
彼は時々、シチーのことを過大評価する。きっとそれが彼の癖で、半ば呆れつつ、でも本音はやはりシチーも嬉しかった。
「本当に、アンタ、アタシのこと好きすぎでしょ」
「ああ、大好きだ」
棚に飾られた皿を見つめて、たまに彼の方を見やる。シチーが贈った皿のはずなのに、優しい微笑みを浮かべて仕事をする彼のぬくもりが投影されているようだった。
アタシも、アンタのそう言うとこ、好きだよ。
まだその言葉は口にしない。それよりも、このオレンジの間隙を噛み締めていたかったから。
「言わなくても、十分伝わってるっつの」
優しく笑って見せた。