1.お兄ちゃん
「お兄ちゃん」
――って、呼べるのは私だけ。
私だけの、特権。
***
夕方、日も暮れ始めた頃。いつもなら学校帰りの学生や仕事帰りのサラリーマンなんかでお店がちょっとばかし賑わう時間帯。今日はどうも閑古鳥が鳴いている。なんでかな。
「まあそんな日もあるかぁ」
私がそうぼやけば、「何が?」と隣から声がする。どうやら次の仕入れリストをチェックしていたらしいお兄ちゃんが棚にそれを戻してこちらを見ている。
「暇だな~って!」
「ああ、そうだね。……せっかくだし少し外でも行って来たらどうだい? 最近は店も忙しくて碌に遊びにも行けてなかっただろう」
「んー、それもそうかも。じゃあちょっとルミナスクエアの方まで行っちゃおっかな~? ね、おみやげ買ってきてあげるよ! 何がいい? ティーミルク?」
「今はティーミルクの気分じゃないなぁ……いや、何でもいいよ。リンが好きなものを僕の分も一緒に買っておいで」
「ええ~? うーん……じゃ、ぼちぼち考えながら行ってくるよ~。あ、もし忙しくなったら連絡して! すぐ帰ってくるから!」
「わかったよ」
「じゃ、いってきまーす!」
お財布をしっかり右手に持ち、もう片方の手でお兄ちゃんと店番の18ちゃんに手を振るとすぐさま扉を開けた。外気に肌が触れると、少しばかり鳥肌が立つ。寒くなってきたようだ。さらにはお隣の滝湯谷のラーメンのいい香り……
「はっ、だめだめ! 今はラーメンに絆されてる場合じゃない! ルミナスクエアでいっぱいお買い物しちゃうもーん♪」
こないだ発売されたばっかのネイルも見たいし、ティーミルクも新作が出たって聞いたし、お洋服も新しいの欲しいし、あとあとー……
ルンルン気分で地下鉄に乗り込めば、思わずにやけた顔をしっかり平常運転に戻した。
「あれ、プロキシじゃん」
思わず「えっ」と声を上げそうになる。声のした方を振り返れば、反対側のドア近くに立つサメの尻尾が目立つ女の子。エレンだ。ちゅぱ、と舐めていた棒付きの飴を口から離すとひらひらとこちらへ手を振った。
「ごめん、呼び方悪かった?」
「あ、ううん!」
呼び方というのは、自分たちが生業としているその職業名とも言えるそれだ。誰が聞いているかわからないところで、言われると少々困るものなのだけれど。
「あー……リン、何してんの?」
「っとねぇ、お店がちょっと暇だから一人で遊びに行くところ」
「ああ、だからアキラはいないんだ」
アキラ。
「うん。お兄ちゃんはお店見ててくれるって。だからおみやげ買って行ってあげるんだ~。何がいいと思う?」
「ティーミルクは?」
「気分じゃないって言ってたんだよねぇ。もーわがままだよね~」
普段通りに返せたはず。
それなのに耳にこびりついて離れないその言葉に心臓が高鳴る。
「じゃ、あたしここで降りるから」
「うんまたね~!」
プシューと音を立てて開く扉の向こうへエレンは消えていく。
それから今吐き出した人数と同じだけの人々をまた飲み込んで地下鉄は走り出す。
「………」
小さく口を開いて、何の音も出せずに閉じた。
***
カラフルでキラキラとした小さな小瓶を見つめては口をすぼめて唸ってしまう。高い。わかっちゃいたけどお高い。いつもなら即決で買うネイルだけれど、今日は他にも買いたいものがある。どうしようか。
「悩ましいなぁ~。こっちの色も綺麗だし、でもこっちも使い勝手が良さそうで……あーもう困る~」
「何かお困りですか?」
店員さんに声をかけられた! と思って振り返るとそこに立っていたのは少しイタズラっぽく笑う朱鳶さん。私服なところを見ると今日は非番らしい。
「朱鳶さん! 朱鳶さんもお買い物?」
「ええ。といってももう帰るところなの。リンちゃんは?」
「私もお買い物!」
「そう……今日は一緒じゃないのね。アキラくん」
そう言ってきょろきょろと見回す。ここにはいない人物を探している。
アキラくん。
「えへへ、お兄ちゃんはお店で留守番でーす」
「ふふっ、そうなのね。それじゃまたね、リンちゃん」
「はーい!」
ひらひらひら。手を振る。
ネイルをちらりと見て、その場を離れた。
今日はいいや。
お洋服を見て、
ベンチに座って、
ティーミルクを飲んで、
ぼんやりと空を見上げる。
もう暗い。街灯のせいで空の星なんて見えやしない。
多分、六分街に戻って<Random Play>の屋上から見上げた方が綺麗なはずだ。
「なーんか、楽しくなくなっちゃった」
おみやげを約束していた癖に、今自分が飲んでいるティーミルク以外は何も持っていない。
お兄ちゃんはなんて言うだろうか?
少し考えたけれど、特に何も言わないだろう。
『おかえり』
それだけ。
ちぅ、と音を立ててストローを吸う。
星が見えない空を見つめ、空になったティーミルクのカップをカラカラと振った。
***
随分と遅くなってしまった。ほとんど閉店の時間に等しい。
静まり返った六分街の通りを歩き、<Random Play>の扉を見れば『CLOSE』の札がかかっていた。
「ただいまぁ」
私の声に18ちゃんがお耳をぴこっと揺らして出迎えてくれた。
「おかえり」
声だけが奥から聞こえる。お兄ちゃんはまだ何か作業中みたい。私も手伝わないとかな。
開いたままになっているSTAFF ONLYの扉を抜け、中に入るとソファに座ったお兄ちゃんがボールペンを口元に当てながら書類と格闘しているようだった。
「何してるの?」
「今度何かキャンペーンでもやろうかなって」
「お兄ちゃんそういうの考えるの苦手じゃなかった?」
「あまりにも暇だから考えてた」
苦手なことをしてしまうほどに暇だった、と。
「私も一緒に考えてあげるよ」
「うーん」
真剣に考えているのか、生返事だ。
「一回借りに来るごとにクーポンあげるとかは?」
「んー」
「あとはー、あ! フェアやるとか! ホラーフェアとか! ホラー作品集めて~」
「んー……」
「………」
「………」
「お兄ちゃん」
「ん?」
「おみやげ、買ってくるの忘れちゃった」
「いいよ、気にしなくて。楽しめた?」
「んー……」
「……?」
落ちていた視線が、こっちを向いた。
お兄ちゃんの目に私が映る。
今私、どんな顔してる?
「………」
「……疲れたんなら早く寝たらいいと思うよ」
「……うん」
「……リン?」
ぽす、と音を立てて私もソファに座った。
少しばかり狭いソファのせいにして、お兄ちゃんの肩に私の肩が当たる。
「……ラ」
「え?」
「アキラ」
名前を口にして、横を見れば。
お兄ちゃんはきょとんとした顔で私を見ていた。
何故だか胸が急に苦しくなって、泣きそうになる。
名前を呼んだだけ。
それなのに。
呼んじゃいけない気もして。
「……何だい、リン」
お兄ちゃんの真面目な顔。
きちんと私に向き合って、言葉が出てくるのを待っている。
優しいお兄ちゃん。
「……みんな、アキラって、呼ぶから」
「……………え?」
またきょとんとした顔。それから「みんな?」と呟きながら首を傾げ明後日の方向を見ている。
「今日出かけてた時に出会った人たちの口から『アキラ』って名前が出てくるの。思えばこの街に住んでる人たちだってみんなアキラって呼ぶ。そりゃそうだよね、お兄ちゃんの名前はアキラで、同じ苗字の私たちを区別して呼ぶなら下の名前しかないもん」
「うん、そうだね……?」
「でも!」
でも
なんだか
悔しくて。
「……私は、お兄ちゃんって、しか、呼べないから」
私はお兄ちゃんの妹。
お兄ちゃんって、物心ついた時から呼んでいる。
ずっとずっと、目の前のこの人は私の「お兄ちゃん」なの。
「……え、っと」
お兄ちゃんは小さく口を開いて、それから、恥ずかしそうに笑った。
「リンも、アキラって、呼んでくれていいけど」
えっ、と思わず声を上げる。
「いや、お兄ちゃんって呼ぶの恥ずかしくなった? のかな、って。ほら、リンももういい大人だしね」
「………」
そうじゃない。
と、言うこともできず。
でも少しだけ頭の中で考えてみる。
私がお兄ちゃんのことを「アキラ」って呼ぶようになることを。
多分くすぐったさは数日もすれば慣れて、
お兄ちゃんもなんてことない対応をしてくれるようになって、
それで、
……それで。
「……でも、お兄ちゃんが私のお兄ちゃんであることは、変わんないよ」
「うん、そうだね」
「それなら、お兄ちゃんって、呼ぶよ」
「え? いいのかい?」
「……うん。いいの」
だって、
「お兄ちゃん」
――って、呼べるのは私だけ。
私だけの、特権だから。
「私だけのお兄ちゃんだもん」
その呟きが聞こえたかはわからないけれど、お兄ちゃんはぽんと私の頭を撫でて笑った。
「――リンも、僕だけの妹だよ」