00.
アーセオン大陸北西部のキネイゼン大湿原には竜がいる。
古い時代の古い言葉で「ネルグル・ガロ」と呼ばれた古い竜が、今もまだ。
かの竜は人々にとって死の象徴に他ならなかった。挑むことは自殺を望むも同然であり、かつては迂遠な死刑としてネルグル・ガロの討伐が命じられたこともあった。言いつけを守らない子どもに対して「悪い子の所にはネルグル・ガロが来るよ」と脅す親もいた。
生きとし生けるものを殺す竜。
見ては帰れない絶死の竜。
人々は今も昔も、ネルグル・ガロを恐れている。
――いいや、恐れていた。
風向きが変わったのは近年に起きた戦争によるものだ。北西部における主要な二か国の対立によるその戦争は近隣の小国を巻き込んで大きく発展していき、最終的にキネイゼン大湿原を挟んだ東西国家の戦争へと変わっていった。
ネルグル・ガロの存在によってこの大湿原が不可侵領域となるのは自明の理ではあったが、最終的にこの大湿原が戦地として巻き込まれるのもまた時間の問題ではあった。
人々は竜の存在に恐れながらも戦争を続けた。幸いなことにネルグル・ガロは大湿原の中心部に居座り続けており、近寄れば命を奪われるものの、遠目に見える程度の距離であればネルグル・ガロの方から人々を襲いに来るという事は無かった。
そうなると、人は慣れる。
「行けば死ぬ場所」などと言うものは大湿原に数多ある底なし沼と同じであり、戦争において敵兵を底なし沼に誘導して殺す策を練った人が、命を賭してでも敵兵を倒して自国を守ろうとする人が、「敵兵を誘い出してネルグル・ガロに殺させよう」と考えるのも当然の帰結だったのだ。
かくして人々はネルグル・ガロを戦争に巻き込み、利用した。
畏怖すべき災害ではなく、触れれば殺せる装置として。
そしてネルグル・ガロは殺した。東も西も関係なく人々の思惑のままに殺し、東も西もより上手く竜を使えば大打撃を与えられることを覚え競うように作戦に起用して。
第一次キネイゼン大湿原攻防戦における生存者はゼロとなった。
人は勿論、竜すらも姿を消した。
そして補給のために大湿原へ赴いた軍人たちは口々に言う。
「あの日、空を飛んでいたバカでかい鳥は、鳥じゃなくて竜だったのかもしれない」と。
南の空へと消えていった死の竜の思惑を知る人は誰もいない。
報せが噂として流れ始め、死が訪れると不安を抱く人々のうち、一体だれが予想できよう。
かの竜が「迷惑そうだから引っ越すか」などと呑気な考えでいたことを。