「はははははっ」
ネルグル・ガロの哄笑が森に響く。
対して少女は唇を尖らせて、「ほんとに怖かったんですからね……っ」と抗議する。
遭遇した当初は怪しかった男だが、「なまえなまえ……なんじゃったかの」「ね、ねーうー? ネーウーグル?」などと頓珍漢な事を言い始め、少女が思いついて「ネルグル・ガロ?」と聞いた言葉に「そうそれじゃ!」と指をさして笑う男を見て、少女はすっかり毒気を抜かれてしまっていた。
褐色の怪しい男が名乗った「ネルグル・ガロ」という名前が、偽名にしたって物騒なものであることを少女は知っていた。あるいは賊の中でも凶悪な人物なのかとも疑った。だが鉈を使って道を切り開くさまを見て「賢いのぅ!」と称賛する男からはおよそ森に住む知恵が無いようにも思えて、徐々に疑いが薄れていってしまった。
世の中には頭を強く打って記憶を失う人もいると言う。
少女はもしくは男もそういった人の一人なのではないかと考えた。「ネルグル・ガロ」という名前もまた、彼が思い出したか唯一の記憶か、あるいは何かを見てそう思い込んでいるだけなのだろうと。
まさか正真正銘の本物だとは思わずに、少女はネルグル・ガロの同行を許したのだった。
「しかしそうか。儂はそんなに怪しいか……。どこかおかしなところがあるかの……?」
そう言って両手で額を抑えたり、じっと手の甲を見つめたり、腰のあたりをさすったりする男の姿は間抜けであり、少女は「なんでこんな人を怪しく思ったのだろう?」と自分を不思議に感じていた。
実際のところは角が生えていないこと、爪と鱗がでていないこと、尻尾が伸びていないことを確認する竜の仕草であったので、彼女の直感はかなり正しかったのだが。
「それで、おぬし……あー」
「ロシェルです」
「そう、ロシェル。ロシェルは儂を街道まで連れて行ってくれるそうじゃが、里に帰るには回り道にならぬか?」
「それは、まあ、ちょっと。でも、あの。知らない人を村に連れ帰ったら怒られちゃいますし……」
「ふむ。危機意識があって結構。聡い子じゃな。でもそうではなく、街道がどちらにあるのか教えてくれるだけでもいいのじゃぞ? 案内してくれるのは有難いが、帰りが遅くなっても困るだろう」
「それは……でも、困ってる人を見捨てるのもだめですから」
ネルグル・ガロの提案に、少女ロシェルは頷く様子を見せない。人の良さは好ましく、実際助かりもするのだが、こんな子供に恩を受けるばかりと言うのも竜の名が廃る。
「ふむ。ではせめて、おぬしの仕事を手伝おう。その籠に入っているのと同じ草を集めればいいのかの?」
「あっ。この薬草、葉っぱが似ているただの草も多いので……その、見分けがつくのなら、有難いんですけれども……」
「なるほど。出られる幕は無さそうじゃ」
ネルグル・ガロの名は廃れた。
殺す事しか能の無い役立たずとして後世にまで残るだろう。
「あるいは、すでに――」
「ネルグルさん?」
「おっと、すまんな。こちらの話じゃ。それでなんだ、ロシェルは薬草を摘みに森のこんな所まで立ち寄ったのか。偉いのぅ、そして勇気がある」
「いえそんな! ただ、近所のお婆ちゃんが辛そうにしてて……わたし、いつもお世話になっているから、何かしなきゃって……」
しかも口振りからするに薬師というわけでもないらしい。
より詳しく聞いてみると、どうやら彼女の集めている薬草は腰痛を抑える効能があるらしいが、村の近辺ではもう見かけなくなってしまったので、森の奥まで足を踏み入れてしまったのだとか。
まともな人であれば彼女の危うい行いに叱責の一つでも送るのだが、残念ながらここにいるのは危うい竜であるがゆえ、ただただ感嘆の声をあげてしまうのであった。
「私のことはいいんですよ。それより、ネルグルさんは? どこか行くあてとか、あるんですか……?」
ネルグル・ガロの褒め殺しに耐えきれずロシェルがそう話を逸らすと、彼は「うむ?」と首をかしげてから、「あちらの方じゃ」と魔力溜まりがあると感じた方向を指した。
「なんぞ人里になっとる溪谷があるじゃろう? ひとまずはそこに向かおうと思うておる」
「……と言うと、竜都の方ですね? それなら大丈夫かな?」
ロシェル自身は竜都に赴いたことはないが、それでも人伝に評判を聞いたことくらいはある。人が多く、治安の良い街。だとしたら、この奇妙な男が仮に記憶喪失であったとしても、力になってくれる人もいるだろう。
そんな意図のこもった呟きだったが、ネルグル・ガロの興味はロシェルの言葉の前半にあった。
「竜都、とな?」
「はい。あそこは応竜さまが中心となって治めていらっしゃる街で、街の人たちはみんな応竜さまの言葉を大切に暮らしているから、良い人が多いと聞いていますよ」
「ふぅん。応竜、応竜のぅ?」
ロシェルの言葉を聞いて、ネルグル・ガロはようやく尋ね人の居場所に見当がついた。
そして、念のため聞いてみる。
「して、その応竜とやらの名はなんと?」
「あっ、だめですよ。ちゃんと応竜『さま』とお呼びしないと。……お名前は、えっと。フェイム・ミィ・キーンさま……だったと思います」
「なるほどのぅ」
期待通りの答えを聞いてネルグル・ガロは満足げに口角を上げる。
その名は間違いなく、彼の知る追風の竜の名であった。