ネルグル・ガロは人の世に立ち入れず、人の世に疎い。
そんな彼が人の言葉を知っているのは、ひとえに人から「フェイム・ミィ・キーン」と呼ばれる竜がいたからだ。
人の精神性に惹かれたその幼い竜は、竜の中では異端であった。
力が弱く、自分の土地も無く、他の竜から見下げられていたその竜には、同じく異端に属する腐竜を寄る辺にしていた時期があった。
二頭の価値観は致命的に一致しなかったが、それでも度々腐竜の下に訪れては人と接した時間の事を嬉しそうに伝えていた鳥のような竜のことを、ネルグロ・ガロは今でも覚えている。
人の姿で、人の言葉で、一生懸命に話していたことを。
そんな日が、遠い昔にあった。そういった日々があったからこそ、ネルグル・ガロは人の姿に化ける術について心当たりがあったし、人の言葉を用いることができる。もっとも、それは本当に古い時代であったため、フェイム・ミィ・キーンが教えた言葉も今の時代には古臭い言葉になっていたのだが。
そして、いつからか来訪しなくなったあの幼い竜が、今では「応竜さま」と呼ばれて親しまれているらしい。
ネルグル・ガロは思わず口元がほころぶほど、悪くない気分だった。
「あ、見えてきましたね。あの道を西の方に辿って行くと竜都の方に行けますよ。――よかったですね」
「む? なにがじゃ?」
「いえ、ネルグルさんが嬉しそうにしていたので。よっぽどお友達の方に会いたかったんだな、と」
「そういうわけでは……いや、そうかもしれんの。ああ。確かに、楽しみじゃ」
自分の口元に手を当て、笑顔でいたことを自覚してネルグル・ガロは言う。
そんな彼を見て、ロシェルも嬉しそうな表情を浮かべる。
「お話を聞く限りほんとに竜都にいるかは分かりませんけれど、会えるといいですね」
「そうじゃのぅ」
自分のことのように祝福するロシェルに対して、ネルグル・ガロも笑顔を返す。
ちなみに、ロシェルはネルグル・ガロの言う「古い友人」が指すものが「フェイム・ミィ・キーン」であることを知らない。ネルグル・ガロがその辺りの説明を一切していないからだ。彼女はただ、ネルグル・ガロが「友人」の好みそうな土地として竜都のある溪谷を目指していると思っている。
ネルグル・ガロもいい加減、彼女が自分を竜ではなく「ネルグル・ガロを名乗る奇妙な人」であると思っている節に気付いているが、認識を正したところで得られるものもないだろうとそのままにしている。
せっかく友好的に道案内をしてもらえているというのに、わざわざ怯えさせるような真似をしてどうするというのか。
わずかな時間であったとはいえ、恐ろしい思いをさせることもあるまい。
「ここまですまんかったな。礼を言おう」
町と町をつなぐ、踏み固められた地面を踏んで、ネルグル・ガロはロシェルに言う。
「薬草摘みを邪魔したというのに、礼を言うくらいしか出来んくて心苦しいくらいじゃな」
「いえいえ、ネルグルさんと会うまでに少しは摘めましたし。それにお陰様で私も、ネルグルさんが言った通り、獣や魔獣と会わずにここまで来れましたから」
「まあ、それくらいはの。それこそ礼を言われるまでも無い」
竜は生物でありながら大きな魔力の塊でもある存在だ。だから、獣や魔獣がネルグル・ガロの魔力を恐れて近寄らないのも当然だ。彼はそれを知っていてロシェルに自分を指して「獣避け」と呼んだのだが、彼女にとってはそうではない。遭遇すれば命の危機だってあったそれらが、本当にネルグル・ガロのお陰で出て来なったというのなら充分にお礼を言う理由になる。
「本当に助かりました。……実は、ひとりで森に入ったこと無かったから、ほんとはちょっと、怖かったんですよね」
「まぁ、のぅ。見たところ武芸の心得があるわけになし、魔術の才があるわけでもない。これからは誰かと一緒に来るべきじゃろうなぁ」
「えっ、そうなんですか? 私、魔法の才能とか、なさそうなんだ……。いえ、使えたことありませんけれども、なんだかちょっと、傷付きますね……」
「そんなこと言われてもの……」
ネルグル・ガロの魔力に気付かずにいるのだから、ロシェルの魔術の才能は皆無だろう。
とはいえ失言は失言。別れ際に少し気まずくなってしまった二人は、どちらからともなく話題を変え、立ち話をして雰囲気を入れ替える。
そしてようやく別れの言葉を交わそうか、となったころ。
「ロシェルっ!」
と東の道の先から、男の怒鳴るような声が聞こえてきたのだった。