「調子はどう?」
曙の砲撃による騒動が起こり、天龍が小さくはない怪我を負ってから数日後の朝。第一ドックから出てきた長門と偶然鉢合わせた提督は、経過の確認を兼ねて声を掛けた。
「提督か、見ての通りだ。奴にかじられた腕や脇腹も元通り、少し経過を見守る必要もあるが、然程気にすることもないだろう」
そして長門の状態はといえば、歯形によって欠けていた部位に周囲よりもやや色白な肉が補填され、既に縫合跡もすっかり消えてしまっていた。血色の良い表情を見る限りでは、日常生活に支障は無いようにも見える。
曰く、支障があるとすれば引きこもりの補填部位を他と同程度には健康的な色にしなくてはならない、程度らしい。
「そう、良かった。赤城と曙の方は?」
「赤城は上々だよ。まだ動かす事はできないが、右腕の接合は順調に進んでる。曙は、そうだな」
言い澱む仕草。理由は分かっていた。
五体満足な深雪の姿に逆上し天龍を撃ったその日から、曙の様子は目に見えて悪化していた。
食事を頑なに拒否し、悲しげな視線を『自身が撃とうとした病室』へと向けたまま動こうともせず。夜になれば、罪悪感から涙で枕を濡らす。
味方である筈の艦娘を撃ち、人間をその手に掛けようとした、その行為を罪として背負い、そして自らを罰するかの様に、その身を日に日に衰えさせていた。
「無理矢理食事を摂らせはしているものの、危険な状態だ。天龍を……いや、」
それだけじゃないな、そう小さく息をつく。
「ヒトを自分の手で殺そうとした事実に大分参っているようだ。……なんとかしてやれないか?」
「そうしたいけど、私じゃ無理ね。多分、最上が駄目だったらあの子はもう立ち直れない」
「……随分決めて掛かった物言いだな。同じ『曙』だからか?」
思わず何の事だと問い掛けようとして、思い止まる。同じ曙だから、最上を失うとどうなるのかが解るのかと、長門はそう瞳で語っていた。
しかし、はっきりとした答えは返せない。同じ艦の記憶を持つからと言っても、艦娘『曙』と提督とは別人なのだ。個人としての記憶も、経験も、自我も、何もかもが違う。だからこそ、他人としての彼女の目に曙は危うく映っていた。
「そんなところ。私達に出来るのはあの子から目を離さないことと、神に祈ることくらいよ」
神頼みとは随分とどうしようもない状況だと笑う。神様などいなかった世界のフネがすることじゃない、そう続けて。
「……で、曙は今は眠っているが、どうする?」
「……そうね、寝顔くらいは拝んでおこうかしら」
長門に先導されて扉を潜り、曙が眠るドックの傍へと歩み寄る。カプセルを思い出させる円柱を横たえたドック、その蓋は固く閉ざされている。
肩から上が見える程度に開かれた窓から覗き込めば、仄かに蒼白い光を放つ液体の中を、灰味がかった長髪の少女が瞳を閉じて漂っていた。
「潮。曙の様子は?」
「……あ、提督。今は落ち着いています。天龍さんのパンチが、かなり効いたみたいで」
呟き、黒髪の少女はすっと視線を落とす。赤く泣き腫らした瞳に、頬に薄く残る板状の物を押し付けたような跡。此処で曙を待つように眠っていたのだろうか。姉妹揃って目元を腫らしている様を見て、不謹慎ながら、つい笑みを浮かべてしまう。そして。
「ずっとこういう顔してれば可愛いのに、口を開けばクソ提督クソ提督と……」
死んだように眠る少女に視線を移し、思わず呟いた言葉に、傍に居た二人が小さく吹き出した。
「なんだ、結構気にしていたんだな」
「悪い?」
慌てて普段の仏頂面を長門へ向けるが、時既に遅く。彼女の態度が変わることもない。
「いいや。私達の場合、事務的な話くらいしか出来ない程度には他人行儀だったからな、羨ましいよ」
一頻り笑った後、長門はそう言って寂しげな笑みを浮かべ、切れ長の瞳を曙の方へと戻した。俯いていた潮は何かを思い出したか、はっとしたような表情を見せその小さな口を開く。
「でも、曙ちゃんは長門さん達の事を尊敬してました……憧れてた、のかも。」
「そうなのか?」
少し、意外だった。幾度か同じ艦隊に配され、演習や実戦を共にしたが、言葉を掛ければ不機嫌そうな表情と返事をされ、指示や命令こそ聞くもののコミュニケーションを取ろうとは決してしない。
彼女が知る曙は、ずっと他人を避け続けていた。
「その、演習や戦闘で戦艦や空母の方の戦い振りを見ると、帰ってきたら楽しそうにその事を話してくれてたんです。長門さんの勇姿がどうとか、加賀さんの遠的の精度がどうとかって」
いつもそうやって前線に出る艦隊の活躍を話してくれた、そう語る少女を見て、口元が綻びる。仕草や表情から喜びが窺えるのは、それが紛れもない事実だからなのだろう。
「……だから、長門さんや皆さんを嫌っていた訳じゃなくて、その」
「分かっているよ。ほら、潮も部屋に戻ると良い。……どうせしばらく暇な身だ、曙の様子は私が見ていよう」
ぽん、と、優しく髪に触れる。皆が無事に回復すれば、この子も同じように目を細めてくれるだろうか。ふと、そんな事を考える。隣に立つ提督も、同じ事を考えているのだろうか、と。
「そうそう。この子が回復した時に貴方が寝不足で倒れてたりなんかしちゃしまらないでしょ? ここは大人しくビッグセブンに甘えておきなさい」
態とらしく付け加えた上官命令という言葉を受け、潮は申し訳なさそうにぺこりと頭を下げてドックを立ち去る。扉の向こうに消える少女を見送り、提督は小さく息を吐いた。
「……ゴメンね、長門。まだ完治してないのに」
「貴方が謝ることじゃないさ。私は好きで此処に居るんだ」
答える口調こそ穏やかであったが、いつの間にか、傍らの少女に向ける視線は冷やかなものに変わっていた。その視線に提督は応えようとはせず、ドックを離れようと踵を返す。
「懺悔をして回るのは、私個人としては構わないんだが。今回の作戦について決して『しなければ良かった』という類いの科白は吐くな。無駄死にするために戦う者などないし、身内が無駄死にだと言われて平気な者も居ないんだ」
「……私のせいで死にかけてる艦娘への侮辱だって言うんでしょ。分かってる。ちょっと二人の様子見てくるから、曙の事はお願い」
疲れたように小さく手を振り、第二ドックと書かれた扉の向こうへと、提督は姿を消した。
「……恨みを自分一人だけで買い占める真似をするな、という意味でもあるんだがな」
呆れたように呟く言葉を聞くものは、誰も居ない。
第二ドック区画。人間と比較して頑丈にできている艦娘の中でも、特に酷い傷を負った者を収容し、治療を行う場所である。第一ドックのベッドのようなものとは違い、此方では全面硝子張りの円柱にナノマシンと培養液を充満させる。
瀕死の重症を負った最上、電の二人はそのカプセルの中を漂うのみであった。酸素や栄養を体内に送り込む為の管が身体から伸び、クローニングされたやや肌の白い四肢は既に縫合されている。曙達と同様にナノマシンによって修復が進められているが、その速度は明らかに他と比べて遅い。
「……死ぬんじゃないわよ」
「提督も見舞いですか?」
柔らかな光に照らされ、歩み寄る影がひとつ。桜色の髪を揺らし傍に立った少女を提督は横目に声を掛ける。
「明石も? それで、二人の状態は……」
「電さんは、なんとか峠を越えました。時間は掛かるでしょうが、来月までにはひとまず意識を取り戻せるかと。それで、最上さんなんですが」
ごくり、と思わず喉を鳴らす。収容時の状況を聞いてからこの数日、治療に当たっている明石らとの接触を意図的に避けていたことも手伝い、彼女の心中には恐怖が芽生えていたのだ。
「一命は取り留めました。電さんに比べて身体が成長していたことも助かったのでしょう、回復もいくらか早いとは思います。ですが」
続けて発せられたのは、死の宣告にほど近い言葉。艤装の全損による意識への影響が分からないため、怪我が治った後目を覚ます事が無いかもしれないと少女は語る。しかし、そうではないのだ。
「目は、覚ますと思う。……ごめん明石、この子、もう『最上』じゃないかもしれない」
「……なんですそれ、何か知ってるんですか?」
「艤装の稼働中に記憶領域が重大な損傷を負うと、多量の記憶のフラッシュバックに襲われるの、船酔いと同じか、それ以上にね」
「それでは……深雪さんや伊勢さんのように、深海棲艦になってしまう、と?」
明石の問いに、提督はゆっくりと首を横に振った。
「深海棲艦を艦娘に戻す為に破壊しなきゃいけないコアは艤装の方にあるから、別に向こう側になる訳じゃないわ」
「なるとしても部分的に、という事ですね。意識の方はどうなんです? 艦娘として意識を保てるならそれでも生活する分にはなんとかなると思うんですが」
「平気は平気だと思うけど、明石はどこまで聞いてるの?」
顎に手をやり小さく考え込む。その姿を見る限りでは、少なからず知識があると考えても良さそうである。
「艤装に対しての拒否反応、伊勢さんは克服してますが、船酔いが原因であるなら最上さんも同様に『人であること』を強要されることになり得ますかね」
「他は?」
「いえ、特には……他に何か?」
「ねえ、人間ってさ。どうしようもなく辛い目に遭ったり、悲しいことがあったらどうなるか知ってる?」
提督の言葉に眉をひそめながらも考え込む。特定個人ではなく、一般的にどういった防衛行動をとるか、を聞いているのだろう。であれば答えは単純だった。
「……記憶傷害や幼児退行など、辛い記憶そのものを『なかったこと』にしてしまうのが一般的、とされてますね。最上さんもそうなる、と?」
返ってくる沈黙を肯定と受け取る。
「……そもそも、艤装を戦場で失うイコール死ですよね? 生きたまま回収に成功した例なんて聞いたこともないのに、提督はどうして」
「そんな事を知ってるか、って?」
小さく明石は頷く。少し考えこむように視線を彷徨わせ、黒髪の少女は答えた。
「実を言うと、生存者の回収例は幾つか存在する。今のところ大半の『元』艦娘は人間として、それまでを忘れて保護監察下で生活してるわ」
「……何故そんな事を知っているんですか」
「一応海軍省高官の娘だからね」
それだけで? その問には答えようとせず、提督は視線を逸らす。
そもそも彼女の言葉には始めから違和感があった。単に『知っている事を話す』口振りではなく、実感を伴う語調、例えるなら『自分の身に起こった出来事を振り返る』様な違和感が。
故に明石は問う。明らかにしてはならない事もあると知っている、恐らくこの問いはそれなのだろうとも思う。しかし、一人の技術者として、直ぐ側で生死を彷徨う少女の仲間として、聞いておかなければならないと腹を括った。
「提督、つかぬ事をお聞きします。船酔いについて教えてくれた時、貴方は自身を『成り損ない』と表しましたね。……貴方も、その『元』艦娘と同じ存在なのですか?」
「……」
「答えて下さい」
数刻を思わせる沈黙。最上らを護るカプセルから放たれる光が、暗闇に二人の姿を浮かび上がらせている。
余りに長く感じた静寂に痺れを切らし、トントンと指先で組んだ腕を叩き始めた頃、小さな声が聞こえた。
「……正解。『私も』保護観察対象の一人。ただ、他の子達と違うのは、私は『半分深海棲艦化』してる、ってトコかしら」
「……は?」
耳を疑う。稼働中の艤装を失い、記憶に溺れ、そして艤装への適応を失い人間になったのではないのか。話の通りであれば、船酔いに近い症状を現したとしても深海棲艦に近づくなどということはあり得ないはずだ。なのに、目の前の少女は自分を『深海棲艦化している』という。何故だ?
一つの疑問が解けたと思えば新たな疑問が増え、明石は戸惑いを覚える。しかし、此処まで来た以上引き下がることなど出来はしなかった。
「貴方は、本当に深海棲艦となった、と言うんですか。そもそも本当にあちら側に堕ちて尚自我を保てるとは……」
「ほら」
背筋が凍りつく。声に反応して向けた視線は、ある一点を捉えたまま動かなくなっていた。
喉を絞ったところで声は出ず、乾いた呼吸音が闇に消える。
疑う余地など既に無い。少女が差し出した右腕は黒い塊を纏い、その肉塊は、青白く光る双眸で此方を睨め上げていたのだから。
「あ……」
「私は『三笠』が持ち込んだ資料と、初めて深海棲艦から手に入れたコアを元に建造された最初のシグなの。そして、失敗作」
続けて少女は語る。初めて艤装を装着した際、記憶の流入に耐えられず意識を閉ざしたこと、後に『船酔い』と呼ばれる症状を示し、深海棲艦化した艤装に取り込まれる寸前で艤装を破壊したこと、次に目覚めた時には、それまでの記憶を全て失い、記録を頼りに人間であろうとしたこと。
そして。
「船酔いの後遺症で、私は化物でも人間でもなくなった」