貧乏くじの引き方【本編完結、外伝連載中】   作:秋月紘

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追編之拾玖-エピローグ-

 冷たい夜風が涙に濡れた少女の頬を刺す。いつの間にか降り始めた粉雪が、膝を着きへたり込む少女に向けていた視界に紛れ込む。明石の右手に握りこまれていたのは一振りのバタフライナイフ、その刃は明かりに照らされ銀と紅の斑を描いている。

 ふと、涙を拭った少女はその瞳を空に向けた。蒼黒の空に疎らに映る白い雪と、時折雲間から覗く月の光。未だに頭にこびりついて離れない不快感の理由を問うても、空は答えを寄越すことはなく、無表情な光と冷たい雪を降らせるだけで、それに少女の眉間はさらに皺を深くする。

 

 降り始めていた雪は、やがて風を伴い強く大地を打ち始めた。

 

 

 

『貧乏くじの引き方-追編之拾玖-』

 

 

 

 京香は、胸元を押さえてその場に力なく膝を付いた。その指の隙間からは衣服が赤に染まるのが見え、彼女の息は痛みからか非常にか細い。声を上げることも無く、彼女はただ痛む傷口に意識を向けると、冷え込んだはずの手先が、焼けるような熱さに苛まれる一点に触れてほんの少しの体温を取り戻すのを感じる。だがその熱もすぐに失われ、痛みとは異なる理由から、間もなく意識がぼんやりと薄れ始めた。

 

「明、石……?」

「……こうするしか、なかったんです」

 

 そういう事を聞きたいんじゃないんだ、そう伝えようとした喉は血を吐き、意識を繋ぐため、ただ身体に酸素を補給しようと息を吸い込む。そもそも、あの時倒れた時点で自身の命については理解していた。そして、明石の身の上と彼女に課せられた任務を思えば、もう『時間切れ』となってしまっていたのだという事も同様に。

 それでも、猶予が欲しかった。自分のミスが原因で命を喪い、奇跡と言ってもいい偶然に救われて還って来た少女が、此処で再出発するまでを見届ける時間が。自身のエゴにより記憶を失った少女が、その巻き添えでヒトに武器を向けた少女が、今一度やり直す所を見届ける時間が。

 同じ死を迎えるなら、せめて、自分が犯した行いを清算するための時間だけでもと、京香は願った。

 二十を少し過ぎたばかりの女性であったとしても、京香は正面で立ち尽くす少女の上官であり、明石よりも幼い者もいる少女達の上に立ち指揮を執る司令官なのだ。

 

「ごめんね。手間……かけちゃって」

 

 無理矢理に笑顔を作り、強引に声を絞り出す。途切れ途切れで、自身でもきちんと発音できた自信は無いが、ちゃんと聞こえただろうか。ひく、と喉を鳴らす明石の姿を見る限り、聞こえはしたが笑えてはいなかったんだろうな、と目を伏せる。上体を起こしているだけの力もいつしか失い、気付けば冷たい雪が頬に触れていた。

 一番の願いは、最期のその時まで、きっと誰にも言うことは出来ないだろう。いつ叶うともしれない願いを待つように、やがて彼女の意識は暗闇へと沈んでゆく。

 

「てい、とく……?」

「……天龍、さん」

 

 積もり始めた雪を踏む音にも、京香は振り向くことが出来ない。だが、その声と明石の言葉で、誰がそこにいるのか、だけは分かった。京香と同じ、支給品のコートにタータンチェックのマフラーを身につけた天龍が、京香を挟む位置で呆然と立ち尽くしている。

赤く染まった京香の胸部周辺に積る雪と、明石の手から零れ落ちたそれとを交互に見、少女はざく、と雪を踏み鳴らす。理由も、言い訳も、問い質す必要は無かった。

 一瞬の内に間合いを詰め、天龍はその上体ごと右の拳を振り抜く。鈍い音が一つ寒空に響き、遅れて取り戻した視界に自分が殴られて転倒した事を知り、遅れて頬を刺す痛みで顔をしかめる。だが、身を起こす時間は与えられること無く、顎、続けて後頭部を激痛が襲う。

 腹部に掛かる体重と、振り上げられた拳に付着した血に、明石は自分の置かれている状況をようやく理解した。

 

「……なんでそんなモン握ってる、なんで提督が倒れてる、なんで、なんで……!!」

「……」

 

 それまで以上に大きく振りかぶった拳。髪に隠れていた天龍の瞳が微かに見えたその時、朧げだった意識が不意に鮮明さを取り戻す。少女が続けて吐いた言葉と合わせて、涙に揺れる瞳に映る自分の顔が、どれほどまでに酷い物なのかを思い知らされた。

 

「なんでテメエはそんな涼しい顔してられんだよ!!!」

 

 頭蓋が割れるかと思うほどの殴打に、引き千切られそうな意識をすんでの所で繋ぎ止め、再度振り上げようとした拳を、天龍の襟首をそれぞれ両手で掴む。力なくその二点を引き寄せる少女の頬や目尻などには血が滲み、その口内は何度噛んだか分からない程の切り傷が出来上がっている。明石の手を振り解こうとしたところでようやく、天龍は彼女の傷と、握り込むことさえまともに出来なくなった自分の拳に気付いた。

 

「貴方に分かるもんですか……私は、彼女が此処に着任した日から、ずっと一緒にいたんです、貴方よりも長く、貴方より、近くで……!」

「じゃあなんでこんな!!」

「見逃せっていうんですか! いつか人類の敵になることが分かっていて、その時まで彼女を、自分が深海棲艦と化してゆく恐怖に晒し続けろと!!」

 

 明石の震える声に、喉まで出かけていた言葉が止まり、脳がその言葉を理解する事を拒む。提督は言っていたじゃないか、鎮静化自体は出来ていると。なのに何故、目の前の少女はまるで『深海棲艦化するのは間違いない』ような言い方をする?

 天龍の疑問に、続けて吐き出された明石の言葉が解答を示した。

 

「仕方がなかった……もう、手遅れだったんです」

「……は?」

「深海棲艦化した艤装の基部は、既に身体の芯の方まで侵食していました。その部位だけを摘出することは出来ませんし、仮に出来たとしても、彼女の命を失うことには、変わりありません……遅かれ早かれ、私が彼女の命を断つことは決まっていたんです」

「もう一遍言ってみろ……テメエ今なんつった!?」

「何度でも言ってやりますよ、彼女は手遅れだった! あのまま放っておけばいずれ敵になるんです! だからそうなる前に、私は彼女を殺さなきゃならなかった!!」

 

 口内に溜まった血を吐き、時折咳き込みながらも、少女はありったけの声を張り上げる。その為に彼女の元に配属されたのだから、当然の結果でしかないのだと、震える声はそう続けた。言わんとする事は分かる、仕方ないことだ、というのも理屈としては否定は出来ない。だが、それ故に、天龍は彼女の態度にその神経を逆撫でされ、力の入らない右腕を再び振り下ろし始めた。

 

「っざけんじゃねえぞこのクソアマがぁ!! 何が仕方なかっただ、何がっ、手遅れだっただ!? 時間なら一年以上あったんだ、なんで、今になっていきなりこんな事しやがった!!」

「だったら!!」

 

 襟首を不意に強い力で引かれ、そのまま額を下にいる明石の額とぶつけられる。頭蓋を揺らす不快感と、じんじんと疼く痛みに意識を向ける間もなくか細い声が耳に入り、天龍の意識は一気に平静を取り戻した。

 

「私は、どうすればよかったんですか? 時間だって本来ならもっとあったはずなんです、なのに、伊豆での作戦から数ヶ月の内だけで、侵蝕速度が異常な程早くなって、提督が倒れた時にはもう……!」

 

 なんだよそれ。天龍が呟いたのは、たった一言。人の事を悪し様に言った割には、自分だって重要な事を見落としていたのだと、罪悪感が頭をもたげる。

 提督が自分で言っていたじゃないか、『最上に止めを刺すかどうかまで行ったのか』と。川内は目の当たりにしたと言ったじゃないか、『提督が最上の姿をした何かを殺した』と。そして、それを『最後の選択』だと言ったのは、他ならない自分だったじゃないか。

 水面へ浮かぶ事ではなく、深淵へと沈む事を選択してしまっていた事に、あの時気付かなくてはならなかったのは天龍自身だったのだ。明石は、その事を知らず『本来であれば間に合うであろう』ペースで対策を考えていたに過ぎない。

 

「……天龍、さん?」

「……悪かった。俺も、人の事言えねえわ」

 

 今更、たらればの話をしたところで、何も変えることなど出来ないし、今目の前に在る現実が好転することなどあり得ない。だが、もしあの時気付けていたら、と。際限のない後悔を覆い隠すように、雪はただ振り続ける。赤く染まった傷口や少女の掌、口角を汚す血、その全てを白く染めあげるように。

 

 

 

「なんだ、随分と遅かったな」

 

 正面玄関を入って直ぐの廊下を二人歩いていた長門と金剛は、扉の軋む音とそこから吹き込む風の音に、明石と彼女を迎えに出ていた京香の二人か、若しくはそれより前に買い出しに出て行った天龍のどちらかが帰ってきたのだろうと考え、冷たい風に羽織っていた半纏の襟元を手できつく巻き込む。

 久し振りに二人で酒でも、という金剛の誘いに乗って、食堂へとつまみなどを取りに行こうと連れ立って歩く最中だったのだ。しかし、その予定はあっけなく潰えてしまうことになる。

 

「……テート、ク?」

「天龍……何だ『それ』は」

 

 震える声で投げ掛けられた疑問に答える者は居ない。動かなくなった少女を背負い、脚にきたのか、自分で歩くことすらままならない明石に肩を貸し、その瞳を泣き腫らした少女は、何も答えずその目を伏せる。京香を支える背中や腕を鮮血が伝い、各所に赤黒い染みが出来ているのが見えた。そして、明石の胸ポケットから覗く、血に濡れたナイフが。

 

「テートク、何処か、怪我を?」

 

 誰もそれに答えようとはしない。

 

「どうして、テートクは……返事を、してくれないんデスか」

「質問の答えを聞かせろ」

「……」

「『それ』は何だ? 彼女に、何をした」

 

 襟首を掴み、何処を見ているとも知れない顔を引き寄せる。声を張らなかったのは、彼女なりに理性が幾許か働いた故の偶然だった。此処で大声を上げてしまえば、天龍は重い罰を受けることになり、そのまま真実を知る機会すらも失ってしまうのではないかと何処かで感じたからに他ならず、この状況で『自分個人の都合』を気にすることが出来てしまったことを、内心自己嫌悪した。

 震える指で引かれた裾が、その一線を超えまいとする一助となった事はせめてもの救いだろう。

 

「答えろっ……!」

「……長門、Try to move。此処で話すのは良くない、デス」

 

 金剛の言葉に小さく首を振り、医務室へ連れていく、と二人を促す。僅かに頷いた所を確認し、長門は明石を抱えて歩き始め、天龍らはそれを追って歩を進めた。既に日付も変わってしまっており、艦娘らの寮を通らずに移動したため誰かと鉢合わせるということもなく医務室へと到着し、助けはいらないと頑なに手を借りることを拒んだ天龍は、言葉通り、誰かの手を借りること無く京香をベッドに寝かせた。

 明石も既に意識を失ってしまっており、起こすことを諦めた長門は京香と別のベッドに少女を横たえる。

 

「鍵は」

「もう掛けてマス……誰かが入ってくるという事はありませン」

「有難う。……天龍」

 

 長門の問いに対して、天龍は幾つかの回答を選ぶことができた。一つ目は、包み隠さず、京香の身体を含めた全てを知る限りで伝えること。二つ目は、全ての罪を明石か天龍のどちらかが背負うこと。そしてもう一つは、居もしない第三者をでっち上げ、それに全ての罪を被せること。

 長い時間の末、少女は、京香の秘密を守るという名目で、自分達の保身を選んだ。結論から言えば、それ自体は過ちと言える選択ではなかった。明石か、天龍かがこれを為したとすれば、必ず理由が必要になり、そして二人のどちらか、あるいは、どちらもが事を起こすだけの動機を、京香が生み出したという形になってしまう。

 真実を明かすにしろ、仮初めの理由を作るにしろ、そのどちらを選んでも艦娘や、他の者が京香を見る目の質が変わってしまう。それを思えば、罪悪感一つで三人共の立場を守れるなら安いものだと、天龍はそう考えた自分に呆れてしまった。

 

「……それで、私が納得するように見えるか」

「……思わないっす。でも、そういう事にしといてくれなきゃ、提督に合わせる顔がねえんすよ」

「私達は、そんなに信用できないのか?」

 

 哀しげに目を伏せる長門と金剛の姿を見て、雪や涙に濡れた顔が、更にくしゃりと歪む。言ってはいけない、そう自分に言い聞かせ抑えこむのも、もはや限界だった。 

 

「アンタ等だって夜戦バカが提督避けてた事は知ってんだろうが……最上と曙の船酔いを教える程信用してたのに、ああなるのが分かってて言えるわけねえじゃねえかよ……!!」

 

 聞かなければ良かったのだろうか。それとも、出来るならば本人の口から聞きたかったのだろうか。そのどちらであったとしても、二人は間違いなく、天龍を問い詰めた己の愚を呪ったという事実に変わりはなかった。


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