「デートのお誘い」
誰も気づかなかった。
いつも通りだった二人が、ある日ふらりと姿を消したことに。
誰にも何も言わず、何の前触れもなく、まるで潮が引くように。
最後に見かけたのは夏の終わりの彼岸だったと、誰かが言った。
主任の白いシャツは風になびき、フジは裸足で波打ち際を歩いていた。
「波の下の都、行ってみない?」
「デートのお誘いか?」
「うん。どうかな」
「素敵な誘い方だ。連れてってくれ」
軽口を交わして、互いに笑って、そして──
潮が満ちる頃には、二人の姿はもうなかった。
携帯も、荷物も、痕跡すら、波にさらわれていた。
翌日も、その次の日も、彼らは戻ってこなかった。
探しても無駄だった。もともと、捕まえられるような二人じゃなかった。
どこへ行ったのか。
なぜだったのか。
───それは誰にもわからない。
でも、二人のことをよく知る者は、こう呟いた。
「きっと、それはそれは、とても素敵なデートだったのだろう」
2025/6/2
「波の下には」
靴を脱いでズボンの裾を捲ってから、素足のまま海に入る。
引いては返す波で遊びながら、私は言う。
「ねえ、波の下の都に行ってみない?」
浜辺でこちらを見ていた主任に手を差し出す。
笑いながら、手を取ってもらえることがさも当然かのように。
ゆっくりと立ち上がった主任の顔は、逆光で何も見えなかった。
「……それもいいかもな」
伸ばした手を掴み、靴も脱がずに海に入る。
どっちも冗談だってことぐらい、目を見ればわかる。
生温い風が頬を撫で、夕陽を映した波が足を濡らした。
今日は二度と来ないけど、明日はいつだって迎えに来るから。
波は暗くなっていき、きらきらと輝き始めた。
「帰ろう」
帰ればまた来れるからさ。
びしょびしょになった足に張り付く砂が、酷く冷たく感じた。
2025/6/2
「心地の良い」
二人分の靴、一人分の冷めたコーヒー。
しわくちゃなシーツと、無造作に投げ出された二人分の服。
昨日の記憶はある。甘ったるい空気も、冷えた指先も。
「もうすこし寝たらどうだ」
頬を撫でる手は冷たかったけれど、頭の中でこだまする言葉には心地良い耳触りがした。
何も語らず目を閉じる。今は、今だけは、心地の良い地獄で微睡みたかった。
2025/6/2
「_____」
蕩けた瞳に自分が映っている。やけに官能的なその瞳に目を背けたくなって、口の端から零れ落ちる唾液を舌で舐め取ってやった。反応が面白くて、無心で舐め続ける。荒い息が収まるころには首がべとべとになっていた。
蕩けた瞳には光が灯っていて、つまらなかった。その奥にある闇にしか興味がない。
そのことを伝えると、目の前の光は姿を消した。それと一緒に目が伏せられる。それをされると目が見えなくなって困る。顎を持って無理やり顔を上げさせると、そこには闇すら無かった。何も映さない瞳だけがあった。
笑い声が喉から漏れ。愉悦の笑いだけが部屋に響く。ぐったりと力を失くした体を支えてすべてを貪り尽くす。
生理的な涙を舐め、自分よりも一回りは小さい体を暴く。笑っている間、生理的な涙に交じって嗚咽が聞こえた。たしかに聞こえた小さな嗚咽に喰らいつく。
貪り尽くしてすべてが終わったころ、何も映さなくなった瞳は閉じられていた。胸は緩やかに上下運動を繰り返し、それ以外の生命活動はほとんどなかった。
柔らかな髪を撫でてから後始末をする。その間、一度も目を覚まさなかった。柔らかな髪も体も、暴いた体すべてに泡を広げてお湯をかける。ころころと変わる顔の表情は変わらず、寝言の一つも言わなかった。優しく体を拭き。水分をタオルに染み込ませる。
ぐっすりと眠っているのか、それとも体力を消耗して気絶しているのか。どちらでもいいが、今は眠らせてやる。
こんなにも素晴らしいものを、離してやるものか。
2025/6/2