劇場版のネタバレを含みます。
劇場版ジャパンカップ直後のタキオンが、ポッケと向き合うまでのお話です。
冒頭の2400mは東京競馬場からあのシーンの橋までの距離です。

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音速の追走者

 2400メートルが、こんなに苦しいとは思わなかった。

 東京競バ場からの帰り道に、亡霊のように白衣が揺れる。

 

「クッ、ククッ──ッ、ハッ、ハァ──」

 

 笑っているのか、息を切らしているのか、ため息をついているのか、自分でもわからないものが体の奥から漏れ出る。

 既に思考は曇りきっているが、今は[[rb:もしものこと > プランB]]など頭の片隅にも無い。ただがむしゃらに走った悦びが口角を弱々しく吊り上がらせ、かろうじて脚を動かしている。

 

 ジャパンカップを観に行くつもりはなかった。別に資料は録画でも事足りるし、諸々の所要時間も研究にまわせたはずだ。だが、私にしつこく走らせようとする彼女はなぜあの日出走を宣言できたのかは、この目で確かめなければならなかった。

 私のいない日本ダービーを制した後の2レース、彼女は着順こそ悪くなかったものの本領は発揮できず、誰もが認める『最強』からは遠のいていた。その上ですぐ1ヶ月ほど後にシニア級のレースへ、しかも『世紀末覇王』に挑む。勝算は高くなかっただろう。

 それでも彼女は私とは違い、求めるものへと突き進むことを選んだ。その覚悟が私に何かを見せてくれるかもしれない……何の理論もないが、そんな運命が変わるような予感に体を支配されて、あの熱狂の中に立っていた。

 そして彼女と眼が合った──気がした瞬間、私はみっともなく飛び出していた。眼光の金色とプリズムの虹色に眼を灼かれて、仕舞い込んでいた感情がフラッシュバックした。

 悔しい。追い越される。羨ましい。走りたい。情けない。効率や消去法なんて言い訳だ。代わりなど居てたまるか。この身で可能性を証明しなければ。

 彼女はきっと覇王の玉座を奪い取る。あの場の誰よりも、可能性に近づいている。それを傍観してしまったらきっと──私の負けだ。

 街路をひた走り、ぐちゃぐちゃになった心から溢れた叫びと乱暴な足音がコンクリートに溶け切った頃、力尽きた私は一人、校門をくぐった。

 

 

「あ、タキオンさんお帰りなさ──どっ、どうしたんですか!?」

 

 ジャパンカップを観に行ったはずの同居人は、青ざめ疲弊しきった顔で寮室の扉を開けていた。駆け寄ると昏い眼を鈍く動かして、私を捉える。

 

「あぁデジタル君……少し急いで帰ってきてね……今から併走を……頼めないかな」

 

 今にも倒れてしまいそうなのに、口元だけで不自然に笑っている。実験のときとも違う不気味な表情に、後ずさりしそうになった。

 無期限のレース活動休止を宣言してから、彼女は負荷の大きな運動を避けていたはず。こんな風になって帰ってきて、その上併走なんて無茶苦茶だ。

 

「何言ってるんですか!どう考えてもお体が無事じゃありませんよね!?」

 

「そういえば最近……忙しそうにしていたねぇ。確か冬コミとか言っていたか……他を当たることにしよう。誰でもいい……校舎の方ならば誰か──何だい?」

 

 呟きながら外へ向かおうとする彼女の腕を、咄嗟に掴む。普段なら突然お体に触れるなどもってのほかだが、誰がどう見ても緊急事態だ。

 

「──ダメですよ。安静にしててください。走って帰って来たんでしたら、ストレッチとかマッサージとかも必要です」

 

「今は時間が惜しいんだ。早く、実験を……追いつかなければ……」

 

 実験と口にするその顔は、怒っているようにも、泣き出しそうにも見えた。今の彼女にはいつものように笑ってみせる気力も、手を振りほどく体力も残っていない。

 いつ倒れてもおかしくなさそうなのに、どこまでも突き進もうとする意志だけが気迫に宿っている。私は今、自由落下するガラス細工に手を伸ばしているのかもしれない。

 

「ごめんなさいタキオンさん──あたしにも意地があります」

 

 ベッドまで腕を引っ張っていき、そのまま体重をかけて押し倒す。少しほこりが舞って、倒れた後に残った彼女の香りが鼻腔を通る。たった数秒で一人の自由を奪えてしまった。

 

「ぐッ──デジタル君?どいてくれないか。もう遅れるわけにはいかない、今度こそこの眼で可能性を──!」

 

「どけません。ウマ娘ちゃんの走る姿は好きですけど……こんなのは自傷行為です」

 

 初めて聞いた荒い声に緊張を感じながら、手首を掴んだ手にいっそう力を込める。ベッドの軋む音が止むと、息遣いだけが部屋に残った。一口静寂を飲み込んで声を発する。

 

「今から、ひどいことを言いますね」

 

 タキオンさんは一瞬戸惑ったようだったが、困惑がおさまるのも待たずに話し続ける。

 

「あの会見の前から……タキオンさんのお怪我のことは、何となくわかってました。休止してからも走りたそうにされていたのも、見ていました。勇気が無くて何も言えずにいたんですけど、でもずっと──またタキオンさんのレースを見たかったんです。鮮烈な走りも、不敵な笑みも……もっと見たいと思わずにはいられないんです」

 

「っ、それならこの手を──」

 

「でも無理をしたら、もう復帰できないかもしれないんですよ!?あんなに脚を使わないようにしていたじゃないですか!推しだからとかじゃなくて、同じウマ娘として──そんな破滅見たくないんです。だから……走るのは明日にしませんか……?このままじゃタキオンさん、また遠くに行っちゃいますから……」

 

 もっと先まで走っていくのを見ていたいのに、手の届かないところへ行ってしまうのが怖くてたまらない。こんな矛盾した我儘を吐き出すことしかできない自分に嫌気が差す。

 それでもこの行為は、空虚になりかけていた彼女に何もしてあげられなかったことへの償いだと自分に言い聞かせる。決意と罪悪感の間で表情が歪み、小さな嗚咽とともに白衣に淡い水玉を一つ作った。

 

「わ、わかったよ降参だ。今日のところはクールダウンに専念しよう。はぁ……デジタル君にこうも止められるとはねぇ」

 

「ひぅっ、すみません……あっ、すぐにどきますから──」

 

「──何をしているんですか。二人して」

 

「デジタルちゃん、そんな大胆な……」

 

 拘束を解こうとした瞬間に入り口から二つの声がして、私たちは慌てて振り向いた。

 冷え切った眼のカフェさんと、まずいものを見てしまったかのように紅潮した顔を覆うダンツさんが並んでいる。

 

「や、やぁお二人とも……今回ばかりはちゃんと説明するから、場所を変えないかい……?」

 

 

「学校近くだと、ここのが一番おいしいんだよ~。あ、にんじんオッチャホイ4つお願いします!」

 

 凝り固まった空気を変えようとして、4人は駅前の飲食店に移っていた。ばつの悪そうな少女が二人、いたって平静の少女が二人。きれいに分かれてテーブルを挟んでいる。

 

「それで……お二人は一大レースの裏で、お楽しみだったと」

 

「カフェ、話を聞いていたかい?デジタル君は私を足止めしていただけでねぇ」

 

「冗談ですよ。そもそも部屋まで行ったのも、あなたの様子がおかしいと軽く騒ぎになっていたからです」

 

「カフェさんもお人が悪い……でも多分あのままだと気まずかったので、たいっへん助かりました……」

 

「それもそうだねぇ……そういえば、結局ポッケ君は勝ったのかい?」

 

「タキオンちゃんまだ見てなかったの!?オペラオーさんも差して一着だよ!」

 

 タキオンは答えを聞いてそうかと呟くと、さして驚くこともなく少し遠い目をする。3人も、その知っていたかのような反応を見て静かに微笑んだ。

 

「しかし走って帰ったとは──ふふっ、狂人に磨きがかかっていますね」

 

「あまり蒸し返すのはよしてくれないか。あの時はどうかしていたんだ……長年の宿命から解放されたような気分とでも言うのかな」

 

「帰ってきたときのお顔、本当に怖かったんですから……もう絶対にしちゃダメですよ」

 

「デジタルちゃんがこんなに怒るなんて──あれ、むしろ落ち着いてるのかな?」

 

「どちらなんでしょう……?まあお二人とも深刻な事態ではないようで、杞憂でしたね」

 

「カフェちゃんも、タキオンちゃん探してるときすごい剣幕だったもんねぇ。今日は4人で来ちゃったけど、ポッケちゃんの祝勝会もやりたいね」

 

 不意に自分に言及されて、カフェは不機嫌そうに目をそらす。タキオンは見慣れたにやけ顔で、白衣をゆらゆらとその眼前で振ってみせる。

 

「おやぁそうだったのかいカフェ、私はなんとも幸せ者みたいだねぇ」

 

「……そんなに幸せなら少しは部屋の片付けをしたらどうです?ここ半年で倍ぐらいに物が増えていますよ。それとあなたは特別、ポッケさんに言うことがあると思いますが。久しぶりの全力疾走は──さぞ楽しかったでしょう」

 

「……後者にはまあ賛成しておこう。だか私から彼女にコンタクトをとるというのは、何とも……柄じゃなくないかい?」

 

「でもポッケちゃん喜ぶと思うよ?しばらくは忙しいかもしれないけど、考えてること、ちゃんと伝えてあげてね」

 

「ポッケさんって、パフェがお好きでしたよね?好みに合いそうなお店のリサーチならお任せを!一汗かいた後に甘い物デート……青春ですねぇ〜」

 

「ふむ、調子が戻ってきたようで大変結構だが──まさか君たち、私とポッケ君だけで話させるつもりかい?祝勝会をしたいなら君たちも集まればいいじゃあないか。その方が効率的だろう?」

 

「全員だといつ都合がつくか不明ですからね。それに積もる話は先に済ませていただいた方が、心置きなくお祝いできます。効率的なのお好きでしょう、タキオンさん?」

 

 反論を受けて、白衣の袖を引っ込める。嫌がるような、迷っているような、曖昧な顔をしていた。

 

「あっオッチャホイ来たよ!続きは食べながら考えよっか。えへへ、それじゃあひとまず、タキオンちゃんが元気になった記念として──!」

 

『いただきます』

 

 

 激動のジャパンカップから一週間ほど。年末が近づき世間も学園も慌ただしくなってようやく、再び時の人となった『新時代のウマ娘』は寸暇を手にしていた。

 私はというと、そんな彼女に併走ののちパフェを食べに行くという奇妙な時間を過ごさせていた。いつもは人と出掛ける計画なんて立てることはないし、研究以外で心身のケアなど考えないのだから仕方がないだろう。

 

「私がわざわざ人を誘うなんて、そんな面倒なこと考えつくと思うかい?周りがうるさいから言われた通りにしたまでだよ」

 

「タキオンから言い出すなんておかしいと思ってたけどよ、もうちょっと流れとかあんだろ。しかもお前はパフェ食わねぇし」

 

「食べにくい上にカロリーオーバーだ。そんな細いスプーンで必死に掻き出して楽しいのかい?」

 

「角砂糖食ってるやつに言われたくねぇ……まあ最近は色々忙しかったから、気晴らしにはなったぜ。あいつらにも感謝しとかねぇとな」

 

「あれはれっきとした紅茶なんだが。カフェやダンツ君から近いうち祝勝会の話があると思うから、礼を言ったりはしゃいだりはそっちでまとめてできるさ、安心したまえ。今日のところは、なんというか……個人的な……伝達事項があってだね?」

 

「や、別にそんな心配してねぇし──てかタキオン、やっぱ変だぜ?エスプレッソでも飲んだんじゃねぇの」

 

「……ああ、そうかもしれないねぇ。根本的な原因は君にあるんだが……どうせ説明しないと納得してくれないんだろう?」

 

 脳裏に浮かぶ、あの日の烈光とざわつき。ここではっきりと言葉にすれば、心の揺らぎは収まってくれるだろうか。君たちと心置きなく走れるだろうか。

 

「まずは……ジャパンカップでの勝利、おめでとう。まあ当日は途中までしか見ていなかったがね。それでも札幌や京都のときよりもずいぶんのびのびとしていたよ」

 

「うはぁ──嬉しいけど、なんか普通に褒められんの気持ち悪ぃ。しかも途中までって、お前何してたんだよ?」

 

「ちょっと用事を思い出したというだけさ。本当に、すっかり忘れていてね。私からのお祝いは以上だ、もう期待しないでくれたまえよ?次に伝達事項だが──レースへの復帰を検討しているよ」

 

 ポッケは飛び上がり、身を乗り出してくる。予想通りの食いつきだ。

 

「マジか!〜ッ!いつ!?どのレースだ!?ぜってぇ観に行く!てか俺も出てぇ〜」

 

「気が早すぎるよ。それとローテーションは崩さないようにしたまえ、疲労の蓄積はウマ娘の大敵だよ。君は期待されているんだろう?」

 

「んなもんお前の復帰宣言で吹っ飛ぶだろ。ま、本気の勝負は楽しみにとっとくぜ。そんで復帰の……てか休止の理由はなんだったんだよ。俺結局なんも聞いてねぇぞ?」

 

「あれは代替案だったのさ。本懐を果たすには、私の脆い脚が障害になるという懸念があった。ならば研究に専念し、他のウマ娘を私の求める領域に押し上げようという計画だったが……進捗が芳しくなかったのでね。元のプランに戻したというわけだ」

 

「ほー、そんなに進まなかったのか?走りた過ぎて全ッ然手ぇつかなかったとかか?」

 

「私の探求心を見くびらないでもらおうか。君たちの成長が期待通りとはいかなかったものだから、自分で走るしかなくなっただけさ」

 

「んだよその言い方!お前に見限られるほどヤワじゃねぇぞ!」

 

「安心したまえ、なにも可能性がないと言っているんじゃあないよ。君はジャパンカップの前にも併走を頼みに来ただろう?君にとって強者と競うことや、君に走りたいと思わせる相手がいることが重要な要素なんじゃないのかい?それを私自身で補えば、代替案もある程度同時進行できる。一石二鳥さ」

 

「あー……そうかもしんねぇけどよぉ。クソッ何ニヤニヤしてんだ、今度こそぶっちぎってやる……」

 

「せいぜい闘争心を燃やしておくことだねぇ。復帰による副作用のデータ収集とさせてもらおう」

 

 いつも通り言い負かしたところでふと窓を見ると、すでにオレンジ色が深くなりつつあった。今日の私はいつになく多弁だった気がするが、その間に日が暮れてしまうとはいやな季節だ。

 

「私はもう話し疲れたよ。日が落ちきる前に帰ろうじゃないか」

 

 師走の街はまだ無色の電飾や資材があちらこちらに散らばっていて、どこか不細工な印象だ。

 外に出れば頭も冴えて気分が切り替わると思っていたが、冷たく澄んだ空気はむしろ、いまだ燻る心の熱を暴くばかりだった。これまでに祝福と宣戦布告は済ませたが……まだ、感謝を伝えていない。その迷いが燃え残っている。

 

「……ああ、言い忘れていたことがあった。もう一度走ろうと思ったきっかけは、ポッケ君だ。ジャパンカップで……君に先を越されたくないと、思ったんだ」

 

 ちらりと隣を見ると、少し驚いているようだが、あの日と同じ金色の眼がある。『最強』を目指し続ける獣の眼。

 

「最強などという不安定な評価に拘るのは愚かだとも思っていたが、その貪欲さが、あの日は眩しく思えたんだ。私が君たちの輪の中に今もいるのは──まあ君のおかげだ。」

 

「へへっ、なんか照れるな。覇王相手にちゃんとカッコついて良かったぜ。……俺さ、中央で初めて見たレースがフジさんのだったんだよ。超カッコよくて、超楽しそうでさぁ!俺もあんなレースしてぇって思ってトレセンに来たんだ」

 

 そう話す眼に鋭さはなく、ただ輝きに溢れていた。いつものギラつきのない表情に一瞬どきりとさせられる。

 

「だからお前のきっかけになれて、マジでよかった!フジさんみてぇになれたんだ!すっげぇ嬉しい!」

 

「そうかい、余計な体力を使った甲斐があったよ。この数日、借りを返すためにずいぶんと遠回りしてしまったが……これで完了かな」

 

 立ち止まり、彼女の方へ向き直る。ただの帰り道で風情のない場所だったが、その方が言葉が浮かずに済んで好都合だ。

 

「目の覚めるような走りを見せてくれて、ありがとう」

 

 こんな言葉が言えるとは、自分でも驚いた。自分のことは普段から笑う方だと思っていたが……今の笑顔はとびきり下手だった気がする。

 

「ハッ、そんなもんいくらでも見せてやるよ。そんで何度だって連れ戻してやる」

 

「おやおや、いいのかい?君のチームは去る者追わずの姿勢だと聞いたが」

 

「お前は舎弟じゃねぇし、こんな魅力のある奴手放すほどお利口でもねぇんだよ」

 

「自分勝手なことを言うねぇ。君も、皆も」

 

「ッたりめーだろ。みんなお前が大好きなんだよ」

 

「──この人たらしめ」

 

 顔が熱を持つ感覚が不快になって小声で悪態をつくと、ちらほらと街灯が点きはじめた。まぶしかった西日は、いつの間にか遠くにいる。

 

「ちょっと急ごうぜ!フジさんに心配かけさせちまう」

 

 明暗が混在する街を急ぐ。ウマ娘の速さであれば初冬の寒さもひとしおだが、そんなものでこの脚は止まらない。次にターフに立つときは、きっと加減なんてできないだろうから、今はゆっくりでもいい。互いの足音でリズムを刻み、踊るようにコートを揺らす。

 刹那の輝きしか求められない私たちに少しだけ与えられた、その続きを今走り出した。この先には烈光の後の残像しか無いとしても、別に構わない。

 わずかな熱と高揚が寒空に溶け切らない内に、私たちは並んで校門をくぐる。

 


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