World Days(新版)   作:完結の陽炎

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第10話「それぞれの志望校と事情」

 学校の勉強が何の役に立つのか?

 その問いを抱かずにいられる学生が、果たしてどれほどいるだろうか。

 西園寺世界とて例外ではない。

 義務教育の出口。

 そこで、成績という物差しにより、将来の居場所が振り分けられる。

 まして思春期という多感な年ごろ。

 押し付けられる教育が退屈であれば、そこから抜け出したい。

 そんな世界の反抗期が顔を出すのは、必然である。

 

 

「なんで自分でやりたいことをやらせてくれないのぉ――って、私は思うわけ。刹那そう思わない?」

「世界、そうやって屁理屈を並べない。文句いっても、受験からは逃げられない」

「そうは言ってもさ。ほらアレよ。噂話とかって楽しいじゃん。学校の七不思議とかさ、そういう刺激があるほうがいいと思わない?」

「肝試しがしたいなら、合格してからやればいい」

「もう、刹那ってば真面目すぎるよぉ。そんなんだと、受験が終わる前に頭が爆発するよ」

「爆発しない。世界が勉強しなくて、後で私に泣きつくほうが困る」

「……うっ。それは否定できないけどさ」

 

 夕暮れに染まる帰り道。

 街灯が灯り始める時間帯は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。

 その静寂が、かえって受験という逃げ場のない現実を鋭く突きつけていた。

 だからこそ、世界はわざと騒がしく振る舞い、心の隙間を埋めていく。

 

「ねえ、刹那」

「ん?」

「私が榊野に受かると思う? ほら、綿女と比べてレベル高いでしょ?」

「世界は落ちない」

「ほんとに?」

「私が教えた。世界はそれをやっている。だから、絶対に同じ所に行く」

 

 これについては世界は不安が拭えない。

 なぜなら先日の模擬試験の判定表があるからだ。

 これを鞄から取りだして刹那に見せつける。

 

「これ見てよ。十月の段階で『C判定』だよC判定。五分五分なんて、賭け事なら面白いけど、人生かけるにはヤバくない?」

「前回の『D』から一つ上がった。順調。基礎問題の正答率も上がってる」

「まったく、刹那はポジティブなんだから」

 

 刹那の判定表を見せてもらうまでもない。

 彼女はいつだって『A判定』の常連。

 合格可能性八十パーセント以上という鉄壁の数字を維持している。

 それでもなお、脇を固めるように参考書を読み耽るほどの徹底ぶりだ。

 

「七海はバスケの中学エースで活躍してるから推薦で楽勝だね」

「世界、それ違う。推薦でも学力は必要。ことぴーが七海の勉強を見ている」

「マジで?」

「マジ」

「本当に?」

「本当」

 

 たとえ七海のスポーツの才能が突出していても、学園側は入学後に授業についていけるかを厳しくチェックする。

 あまりに学力が低い場合、どれだけバスケが優れていようと、不合格になるリスクがある。

 推薦入試の内容として、一般入試より科目が少ない、あるいは適性検査という形をとることもある。

 それでも勉強を全くしなくていいという免罪符にはならない。

 

「七海が言ってた。ことぴーのおかげで命拾いしてる、って。……足切りライン、ギリギリだから」

「へぇ~、あんなに強気の七海が意外だね」

 

 七海が同じ中学で言葉を気にかけ、変な輩がちょっかいを出さないように守っている。

 それは言葉の平穏が乱れ、勉強のサポートが滞れば、それは七海自身の不合格――すなわち選手生命の危機に直結するからだ。

 彼女たちの間には、信頼と同時に、抜き差しならない共生関係が成立している。

 

「そういえば刹那、光の家って新築になるって言ってなかった?」

「言ってた。お店の建て替えに合わせて、高校に入る前に新しくするって」

 

 光の実家は、地元でも長く愛される和洋菓子店を営んでいる。

 古き良き下町の店舗兼住宅だ。

 しかし、時代の流れもあり、また光の高校進学という区切りに合わせたいのか。

 冬から春にかけて大掛かりなリニューアルを敢行することになっている。

 

「光といえばお菓子、お菓子といえば光」

「世界、いやしいことしない。光がまた呆れる」

「だって、うちは刹那と違っておこずかい少ないもん。しょーがないじゃん……それで、本格的にケーキメインってこと?」

「うん」

 

 世界は店内のことを思い出す。

 ガラスの引き戸がついた古いショーケース。

 お煎餅やどら焼き、それに昔ながらのカステラが並んでいる。

 そんな懐かしい匂いのする場所。

 世界にとっては、たまに光が「売り物にならないから」と持たせてくれる、その素朴なお菓子が最高の楽しみだった。

 

「お洒落なケーキ屋さんかぁ。そうなると、今までみたいに気安く『端っこちょうだい』なんて言えなくなっちゃうかもね」

「光なら、新しくなっても変わらない。ただ、お店の方はかなりモダンになる」

「いいなぁ、新築。ピカピカの自分の部屋ができるんでしょ」

 

 世界は雲が散らばる夕焼けの空をそっと見上げた。

 刹那は歩きながらも、さりげなく周囲に視線を走らせ、後方から来る自転車をやり過ごすように歩道の内側へ世界を促す。

 安全を確認し、リスクを排除する――護衛のようなその仕草は相変わらずだった。

 

「あ、話変わるけど、刹那って携帯を持ってるよね?」

「うん。世界はまだ持たせてもらえない?」

「榊野に受かったら持ちなさいって、逆に言われているわよ」

 

 それは、西園寺家に染み付いた貧乏のレッテルを世界の母・踊子が嫌がるためだった。

 携帯がなくとも刹那や光、言葉などの友人を頼れば、実務的にはどうにかなる。

 だが、踊子は刹那の母・舞から投げかけられた言葉が、棘のように胸に刺さっていた。

 

『あら、世界ちゃんに携帯を持たせないなんて、何かあったらどうするつもりなの、踊子。そんなに経済事情が苦しいなら、私が負担してあげてもいいわよ』

 

 その時の舞に悪気はない。

 緊急時の連絡が取れない不備を、友人として心配した上での純粋なリスク管理の提案。

 しかし、それこそが踊子のプライドを完膚なきまでに叩き潰した。

 踊子は「今はちょっとタイミングが悪いだけ」と流し、娘には「榊野に受かれば買い与える」と約束した。

 舞からの施しを受けずとも、独力で娘を立派な高校へ入れ、身の回りのものを揃えられる。

 その自尊心を証明するための、合格という名の免状。

 この辺りの親の事情を、世界と刹那は知る由もない。

 

「とりあえず今は携帯持てないからさ。ことちゃんに、刹那のほうから話題を振っておいてよ」

「話題?」

「なんで榊野を第一志望にしているのか、って。ことちゃんなら他にも志望校は選り取り見取りでしょ?同じ学園を狙うってことは競争相手なんだよ。もし定員オーバーだったら、誰かが受かって誰かが落ちる結果だってあるかもしれないじゃん」

 

 進路調査において、世界の第一志望は榊野学園、第二志望は綿女。

 第三志望に関しては最終手段として「通信制」または「夜間学校」という選択肢を据えていた。

 西園寺家の困窮した台所事情を思えば、綿女すら不合格となるようなら、潔く働きながら学ぶしかない。

 そこまで結果が落ち込むのであれば、もはや贅沢な選択の余地など残されていないから。

 無論、体の弱い世界にそんな茨の道を歩ませるわけにはいかない。

 だからこそ刹那は、第一志望にねじ込むべく、執念に近い指導を世界に叩き込んでいる。

 

「ことぴーは競争なんて思ってない。世界と一緒に通いたいだけ」

「でも、倍率とか定員とか、現実的な問題ってあるでしょ? もし私だけ落ちて、二人が榊野の制服を着て楽しそうに登校してるのを、私がパンの耳をかじりながら見送るなんて……想像しただけで、悪魔が耳元で囁いちゃうよ」

「そんなことにはならない」

 

 世界が落ちて綿女なら同じく刹那も綿女へ。

 夜間なら同じく夜間へ。

 刹那だったら本気でそれをやり遂げて決して世界を一人にさせない。

 身体が弱い世界が無茶をして、自分の知らない所で倒れるなんてあってはならないからだ。

 

「刹那の成績で落ちるとしたら、それは学園の選考眼が腐ってるだけだから。絶対に落ちないのは、刹那の実力を思えば当然の結果だもん」

「油断は禁物。当日、何が起きるかわからない」

 

 後日、刹那の連絡によれば、言葉の真意は「皆と同じ榊野へ行って、仲良くやっていきたいから」というシンプルなものだった。

 第一志望については親も言葉の要望を尊重してくれたが、その代わり、第二志望はお嬢様学校という親の意向が反映されている。

 もし第一志望を逃すのなら、それは己の至らなさと不徳の致すところ。

 そうなれば、親の勧める環境で身も心も「桂家のお嬢様」として磨き直せということで、言葉は同意した。

 自らの意志で結果を勝ち取る生存競争の厳しさ。

 それを知る両親の、不器用な愛情を、言葉はよく理解している。

 これらを刹那の部屋で遊びに来た世界が聞く。

 

「そっか。第一志望落ちたら、ことちゃんはお嬢様学校に――ん? じゃあ第三志望はどうなの?」

「第三志望……ことぴーの家では、白紙のまま出したって」

「はあ!? 白紙って、そんなの先生が許してくれないでしょ? ことちゃんの通っている中学って、それありなの?」

「桂家の両親が学校に直接言ったみたい。うちの娘が第二志望まで落ちるようなら、それは教育そのものの敗北。そうなったら進学なんてさせずに、家で最高の家庭教師をつけて修業をさせるだけだ、って」

「……うわぁ。格が違いすぎて笑うしかないね」

 

 世界は思わず天井を仰ぐ。

 自分が働きながら通信か夜間かと血の滲むような崖っぷちの選択肢を検討しているのに。

 言葉の方は、落ちるなら家庭と中学双方の落ち度、即座に箱入り娘への強制帰還。

 これまた極端な二択を突きつけている。

 親バカを通り越し、娘の実力に対する絶対的な信仰だ。

 

「……先生、顔を真っ青にして受け取ったって、ことぴーが言ってた」

「そりゃそうでしょ。学校のメンツ潰れまくりじゃん。たしかに、ことちゃんが第二志望まで落ちるなんて、中学の教育がどれだけポンコツだったかって証明になっちゃうもんね」

 

 いずれにしても、よほどのことがない限りはどこかの学舎に学生の身分として入れるはずである。

 それらが入れないということになれば、未成年の学びを阻害する社会としてのスキャンダルになりかねない。

 いくら義務教育ではなくなるとはいえ、暗黙的に中学卒業だけでは不十分であることは誰もが認識している。

 中学卒業で社会に出て働くという選択肢は明らかに狭き門だ。少なくとも、今の彼女たちが望むような形ではない。

 

「ことちゃんの両親にしてみれば、第二志望に落ちるような事態って、もはやことちゃんのせいじゃないってことなんだろうね。投資した教育が実らなかった、親と学校の責任ってことかなって……厳しいなぁ」

 

 世界は自嘲気味に笑った。

 自分の家では、落ちることは自己責任であり生活苦に直結する。

 言葉の家では、落ちることは一族の敗北であり自由の剥奪に直結する。

 抱えている事情は異なるが、足元に広がる奈落の深さは、実はそう変わらないのかもしれない。

 

 ここで世界が光に電話したいからと刹那の携帯を貸してもらう。

 そして電話をかけてみると。

 

「もしもし世界、どうしたの?」

「あれー、まだ何も言ってないのに、なんで私だとわかったの?」

「だって刹那から電話してくるなんてまずないじゃない。世界、携帯持ってないから刹那の携帯でかけてくるしかないんでしょ?」

「まあね。あ、判定どうだった。私はCの五分五分で内心ヒヤヒヤの冷やし中華だよ」

「なになに世界ってば前回はDだったのに、Cに上がってるなんてやるじゃん。あ、こっちはBだよ」

「うらぎりものぉーーー!!」

「いやー、前回Cでヤバいって思って気合入れたんだよ」

「それにしたってB判定はズルいよー! 勉強なんて適当でいいじゃん、お菓子食べようよって誘ってきたのはどこの誰よ!」

「あはは、それはそれ、これはこれ。うち、新築にするのに私が落ちたら縁起悪いってお父さんに釘刺されてるし。世界だって、Cならまだチャンスあるじゃん。冬休みで追い込めばいけるって」

「簡単に言ってくれないでよね。こっちは刹那のスパルタ教育で、もう脳みそがショートケーキのスポンジみたいにふわふわなんだよぉ……」

 

 世界の恨み節に、受話器の向こうで光が楽しそうに笑う。

 判定の文字一つで天国と地獄をさまよう、このヒリついた季節。

 それでも、こうして下らない軽口を叩き合える相手がいるだけで、足元をすくわれそうな不安はわずかに遠のく。

 

「……ま、いいわ。B判定様、おめでとう。光が受かったら、新築のお披露目パーティーで最高級のおやつ、期待してるからね」

「もちろん! 試作中のお菓子とか、全部世界に毒見させてあげる。だから、世界も意地でも榊野に滑り込みなさいよ?」

「言われなくても! じゃあね!」

 

 通話終了のボタンを押し、世界は刹那に携帯を返した。

 画面が消え、暗くなった液晶に自分の顔が映る。

 さっきまでの騒がしさが消えた部屋に、再び現実の静寂が戻ってきた。

 

「……Bかぁ。みんな、一歩ずつ先に行っちゃうんだね。しくしく」

「世界も、止まってない。次はB、その次はA」

 

 刹那は無表情のまま、けれど迷いのない手つきで新しい問題集を開いた。

 

「……そうだね。やるしかないか。冷やし中華とか言ってる場合じゃない」

 

 ここからが正念場といってもいいだろう。

 刹那は世界のことを誰よりも一番よく理解している。

 そのため体が弱いことも含め、大前提としてひとつ。

 

「世界、全部やろうとしないで」

「え?」

「7割作戦」

 

 突拍子もない刹那の言葉。

 世界は持っていたシャープペンシルを机に置く。

 全部やらなくていい。

 それは、真面目に受験に向き合おうとしている今の世界にとって恐怖である。

 

「どういうこと? 私、そんなに絶望的?」

「逆。合格を、確実に拾いに行くための算段」

 

 刹那は迷いのない手つきで、世界が解いていた過去問の後半。

 ――特に配点の高い記述問題の数カ所に、容赦なく大きな×印を書き込んだ。

 これは明らかに捨てろの意思表示である。

 

「榊野の合格最低点は、例年6割から7割。……つまり、3割は間違えてもいい」

「でも、そこって配点が高いんでしょ? 空白で出すなんて、怖くて手が震えるってば」

「いい。その空欄は、世界が合格するために『あえて開けた穴』。その10分を、基礎の見直しに使いなさい」

「そ、それで大丈夫なの?」

「……難問の一つと心中して落ちるか、賢く逃げて榊野の門を潜るか。どっちがいい?」

 

 感情を排した刹那の声。

 迷いの中にある世界にとって、何よりも確かな生存の道標である。

 

「記述は『部分点ハイエナ』に徹して。方針が見えなければ1分でペンを置く。その代わり、選択問題は執念で確実に全て埋める。二択に絞れば、確率は半分になるから」

「部分点ハイエナって……選択肢問題の理屈はわかるけど」

 

 部分点ハイエナというのは、完答して満点をもらうことを最初から諦めること。

 採点基準に引っかかりそうな要素だけを並べて「1点、2点」を泥臭く掠め取る戦法だ。

 具体的には、数学の証明問題で結論まで辿り着けなくても、分かっている公式や最初の一行だけを記述すること。あるいは国語の記述で、的外れな回答を書くリスクを冒すより、本文中のキーワードだけを抜き出して繋げ、配点の数割を確実に確保することである。

 

「満点は要らない。でも、ゼロ点も許さない。そうやって削り出した数点が、ボーダーラインでは合否を分ける。一問の難問に固執して時間を溶かすより、記述の端切れをいくつか集めるほうが、世界にとってはよっぽど効率的」

 

 刹那の戦略は、世界の弱さを否定するものではない。

 限られたリソースを自覚し、負け方を選びながら勝ち越す。

 空白で捨てることは、他の正解率を高めるための必要な投資だ。

 

 世界は再び、×印のついた問題集に向き直った。

 けっして敗北の痕じゃない。

 自分が生き残るために、あえて戦略的に空ける勇気を持つこと。

 

「……わかった。私、7割作戦で受かってみせるよ」

「うん。世界なら、できる」

 

 春、榊野の校門で。

 ギリギリの点数で、ボロボロになりながらでも、その門を必ず潜り抜ける。

 西園寺世界の、本当の戦いがここから始まる。

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