World Days(新版) 作:完結の陽炎
第1話「体調の波と漢方薬」
受験ストレスで体調を崩す志願者は、統計上、数パーセントに上るという。
だが、その冷徹な数字に、女の子特有の残酷なバイオリズムまでは含まれていない。
月の満ち欠けに翻弄され、鉄分を奪われ、ホルモンの嵐に思考をかき乱される。
西園寺世界にとって、受験勉強とは教科書との戦いだけではない。
自分という、呪いにも似た肉体との果てなき調停作業でもあった。
「世界、気分はどう……?」
刹那の声が、湿って重い空気の向こう側から遠く響く。
そこはカーテンを閉め切った薄暗い部屋。
毛布の海に沈み、呼吸の維持に全力を注ぐ世界の姿があった。
「……うーん。……ふらふら、するよぉ」
季節の変わり目、急激な気温の変動。
虚弱な世界の血管は、気まぐれな外気に追いつけない。
脳に送るべき酸素と鉄分を、どこか途中で見失ってしまう。
起き上がろうとすれば視界には火花が散り、足元は底が抜けたように頼りなくなる。
「水分、摂れる?」
刹那が枕元に置いたのは、常温のスポーツドリンクと鉄分のサプリメント。
世界はそれを、命を繋ぐ点滴のように、少しずつ喉へ流し込んだ。
「……あーあ、なんでこうなっちゃうんだろうね」
口からこぼれるのは、泥のような自嘲。
勉強が遅れる焦りがないといえば嘘になる。
だが、机に向かおうとする意志を、肉体が嘲笑うように拒絶する。
死ぬ気でやれ、という精神論は、彼女にとって生命の危機を生む。
「世界……」
冷え切った世界の指先を、刹那が包み込む。
体温を分け与えるように強く、静かに。
相変わらず刹那の表情は硬い。
だが、その瞳の奥に隠しきれない痛切な心配で揺れた。
「まだマシだよ。貧血と風邪のダブルパンチじゃないだけ、マシ」
笑おうとした世界の頬は、鉛のように重い。
健康とは、彼女にとって努力で勝ち取るものではなく、単なる運だ。
一つだけの不調で済んでいるうちは、運が良い部類。
その基準の低さこそが、生まれつき体が弱い少女が背負う、あまりに過酷な現実だった。
「……世界。運の良し悪しで、一生を決めたりしちゃ、ダメだよ」
「ううん、私の体質はサイコロを転がすようなものだよ、刹那」
「世界は、いつもそう。相手のことばかり気にして、顔色を伺って……。自分をもっと大事にして」
刹那は知っている。
母の踊子という夢のために世界が気遣っていることを。
普段は我儘なくせに肝心なところで引っ込んでしまうことを。
「あー、刹那が羨ましいな。健康で愛らしくて。不愛想なんて言われるけど、私にはわかるんだよ、刹那の愛らしさが」
「……不愛想でもいい。世界にさえ、伝わっていればいい」
刹那は短く応じると、空いた手で世界の額に触れた。
熱はない。
だが、皮膚の奥に澱のように溜まった疲労までは隠せていなかった。
どうすれば、この体調の波を乗りこなせるのか?
好きこのんで倒れているわけではない。
女の子の周期は、逃げ場のなさを突きつけてくる。
その閉塞感。
虚弱体質を美徳に変えて生きる桂言葉なら、何か知っているかもしれない。
だが、彼女も今や一分一秒を惜しむ受験生だ。
妹の面倒に、習い事。その忙しさを思うと、世界は声をかけることさえ躊躇われた。
しかし、刹那は悔しかった。
代われるものなら代わってやりたい。
世界を守るということは、その健康という根幹を守ることではないのか。
だから……。
「相談、ことぴーにしてみる」
「ことちゃん忙しいでしょ、今の時期は――」
「それを決めるのは、ことぴー。送るよ」
言い出したら聞かないのは、世界だけではない。
刹那もまた、静かに燃える情熱の持ち主だ。
強行で送信した刹那のメールに、しばらくして、凛とした返信が届く。
Re: せっちゃんへ(世界ちゃんのこと)
連絡ありがとうございます。世界ちゃんの具合、とても心配です。
私の家で母が愛用している、気血を補う処方について調べてみました。
『十全大補湯』や、胃腸が弱い方には『人参養栄湯』が、今の世界さんのような「ふらふら」症状に良いかもしれません。
桂家の専属の先生に確認したところ、明日、いくつか試供品をお持ちできるとのことです。
受験は、心だけでなく「血」の戦いでもあります。
世界さんのご快復を祈るだけでなく、私の薬理でお支えさせてください。
その具体的な文面を、刹那はじっくりと読み解く。
だからこそ、彼女は確信を持って頼ったのだ。
翌日。
届いた試供品が、琥珀色の透き通った熱へと形を変える。
世界はカップを両手で包み込み、立ち上がる湯気を深く吸い込んだ。
「……なんか、お菓子屋さんみたいな匂い」
微かな笑みがこぼれる。
だが、ひと口含めば、それは単なる甘味ではない生きた植物の力が舌を刺激した。
シナモンの快い不意打ち。
ピリリと跳ねる辛みの後に、大地を噛み締めたような重厚な甘みが追いかけてくる。
「んー、ピリッとした舌ざわりに、ほのかな甘み。意外と……美味しいかも」
喉を下る熱は、食道を通って胃の腑へと落ち、そこからじわりと波紋のように四肢へ広がっていく。
その熱量に触れて初めて、世界は自分の指先が、どれほど氷のように冷え切っていたかを思い知らされた。
受験、体質、そして拭いきれない将来への不安。
お財布の懐具合だけではない。
彼女の気も血も、知らないうちに枯れ果て、心身の芯まで隙間風が吹き抜けていた。
「……ことちゃんに、感謝だね」
世界は空になったカップを見つめ、ぽつりと呟いた。
次に『人参養栄湯』の袋にも手を伸ばす。
こちらは十全大補湯よりもさらに地味深く、滋養の塊のような香りがした。
胃腸を労わるその優しさは、今の世界にとって、どんな甘い言葉よりも誠実な救いに感じられた。
「受験で立ち向かうためには、まず自分を温めなきゃいけないんだね」
傍らで見守っていた刹那が、静かに、深く頷く。
その小袋は、言葉からの『戦術指令書』そのものだった。
美味しいと感じられるうちは、まだ戦える。
熱を感じられるうちは、まだ自分を見失わずに済む。
世界は、温まった掌で自分の頬を包み込み、ゆっくりと深呼吸をした。
その呼吸には、先ほどまでのふらふらとした危うさは、もう混じっていない。
刹那はそれを見届けてから、言葉へ確信に満ちた返信を送る。
ことぴーへ(世界に代わって御礼)
ありがとう、ことぴー。
世界が漢方を「美味しい」と言って、ホカホカしている。
肌も唇も、血行が良くなったのを確認。
お値段は高そうだけど、ことぴーのことだから、お金の心配はいいって言うんだろうね。
世界が元気になったら、直接御礼を言いに行かせる。
とりあえず、私から。
勉強の方は、私がしっかり面倒をみるから。ことぴーは七海と一緒に頑張って。
場所は変わって桂家の大きな住宅のリビング。
言葉が端末の画面を見届けてからそっと閉じた。
窓の外の柔らかな光に目を細め、小さく、けれど確かな充足感を湛えた笑みを浮かべる。
難解な古典の記述を読み解いた時よりも、
ピアノの旋律が完璧に重なった時よりも、
ずっと深いところから湧き上がる喜びに満ちていた。
「……お姉ちゃん、何ニコニコしてるの? さっきからずっと」
怪訝そうに顔を覗き込んできたのは、妹の心だった。
言葉は、慌てて口元を引き締める。
けれど、一度内側から温まった表情は、そう簡単には元に戻らない。
「別になんでもない。ほら、習い事の時間よ、心」
「えー、絶対なんかいいことあったでしょ」
「……さあ、どうかしら」
世界を救ったのは漢方の成分だけではない。
言葉が込めた血の戦いへの連帯意識。
それを受け取った世界の信頼。
そして、二人を繋いだ刹那の献身。
たとえ今は離れた場所で、それぞれの机に向かっていたとしても。
同じ熱を共有している。
言葉は妹を見送りながら、もう一度だけ、自分を頼ってくれた喜びの余韻に浸った。