World Days(新版) 作:完結の陽炎
榊野学園の入試会場。
冷たい空気と、鉛筆が紙を走る乾燥した音だけが響く密室。
そこは、音のない戦場だ。
西園寺世界にとって、目の前の解答用紙は単なる試験紙ではない。
合格すれば、携帯電話と、友人たちと同じ居場所が手に入る。
世界は、逸る鼓動を指先に逃がすようにして、問題冊子の表紙を指でなぞった。
試験開始の合図。
普通なら、第1問から順に解き進めるのがセオリーだろう。
だが、世界はそれをしない。
彼女の手は、獲物の喉元を探す獣のように、冊子全体を素早く、かつ冷静にめくる。
先に敵の全貌を一瞥すること。
読むためではない。
解答の『仕分け』をするためだ。
刹那に教わった通り、問題を三つの札に分類していく。
◎(即答できる問題)
○(時間をかければ取れる問題)
×(記述の重い問題)
理解しようとしなくていい。
ここでは判断だけ。
思考のガソリンを、仕分けで浪費してはならない。
世界が最優先にするのは、『◎の全回収』である。
即答できる◎だけを一気に刈り取っていく。
すべて先に潰す。
迷いはあっても、止まらない。
選択肢問題なら消去法が使える。
可能な限り二択まで追い込み、とりあえずマークする。
後で「戻る」という余白を自分に許しながら、前へ。
「ふぅー」
◎をすべて埋めた。
ここで一度、あえてペンを置く。
脳内で刹那の声が、冷たく、けれど確かな支えとなって響いた。
『世界、◎が終わったら必ず一呼吸おいて。無理にペースを上げようとしない』
刹那との特訓で学んだのは、知識だけではない。
自分という欠陥だらけのエンジンを御する技術だ。
世界は数秒間、目を閉じて、肺の空気をすべて吐き出す。
視界の端で、難解な記述に齧り付き、顔を赤くして震えている受験生の姿が入る。
だが、そんなことは気にしない。
今の世界の手の中には、『七割作戦』という名の精密な地図がある。
(……次、いくよ)
次に着手するのは、〇(時間をかければ取れる問題)だ。
ここが一番の踏ん張りどころ。
粘れば答えに辿り着ける領域がここにある。
世界は気を引き締めて再びペンを握った。
解ける。
けれど、果実のようにすぐには落ちてこない。
問題文を追う。
論理の道筋が見える。
だが、最後の一手が霞む。
そこで、止まったりしない。
解答の一行目だけを書く。
使える式、断片的な短文だけを刻み込む。
論理の入口だけを示し、そこで潔くペンを離した。
――はい、次。
未練は捨てる。完答を目指さない。
ここは稼ぐ場所ではなく『削る』場所だ。
○の札すべてに、何かしらの傷跡を残して通過させる。
『部分点ハイエナ』の仕掛けを終えた視線が、最後に×の札に触れた。
配点の高い、巨大な記述。
見た瞬間にわかる。
重く、深く、そして甘く時間を喰う。
世界の指が、わずかに震えた。
――これ、もしかしたら。
頭の奥で、無謀な誘惑が囁く。
解けるかもしれない。
ここを取れたら、一発逆転となる。
だが、その瞬間。
刹那の声が、思考の回路を物理的に切断した。
『一問と心中しない。世界は、勝てるところだけで勝ち越せばいい』
浮いたペン先が……そっと、離れる。
――捨てる。
その判断に、痛みはあった。
けれど、かつてのような恐怖はない。
空白は、敗北の痕じゃない。
ここは、自分が生き残るために『あえて開けた穴』だ。
その積み上げた「◎」と「○」を、城壁のように守り抜く。
世界は視線を戻す。
すでに埋めた選択肢。さっき通り過ぎた○の問題。
計算や誤字脱字がないか。
マークのずれがないか。
巧妙な引っかけに、自分の心が揺らいでいないか。
一つずつ、丁寧に、確実に潰していく。
――ここで落としたら、私たちの冬が終わってしまうから。
会場の空気は相変わらず冷たい。
誰かの鉛筆の音が、乾いたリズムを刻む。
けれど、もうその音に飲まれることはない。
時計を見るのは、約束の三回だけ。
仕分けの終わりに一回。
◎の回収後に一回。
そして今、三回目の確認を終えた。
訓練で培った体内時計が、残り時間がわずかであることを告げている。
体が弱い自分にできる、最高のパフォーマンス。
リソースを使い切った充足感が、静かに胸を満たす。
――これで、いい。
終了の合図が、静寂を破る。
世界はペンを置いた。
解答用紙を見下ろすと、そこには幾つもの空白があった。
完璧ではない。美しくもない。
けれど、それは西園寺世界が、己の弱さを引き連れたまま戦い抜いた、生存の記録。
教室の空気は一気に弛緩し、そして濁り始める。
「あー、終わった! 数学、あの最後の方程式何だったの?」
「三番の答え、ルート二になった?」
周囲で沸き起こる答え合わせの喧騒。
それは世界にとって、耳から入り込み、心拍を狂わせる猛毒だ。
(……聞かない)
世界は刹那の指示通り、即座に耳栓を装着した。
物理的な遮断。
前の時間の解答が合っていようが間違っていようが、今の世界には関係がない。
解答用紙を提出した瞬間、その科目は「死んだ」のだ。
未練を抱くことは、次の戦場へ血を流しながら向かうに等しい。
世界はカバンから、言葉が持たせてくれた保温ボトルを取り出した。
中身は、漢方を含んだぬるめのほうじ茶。
一口含めば、極度の緊張で収縮していた胃の腑が、じんわりと解けていくのがわかる。
(ブレーキ。……今はブレーキ)
休み時間の二十分。
世界は決して次の科目の参考書を広げない。
脳を作動させ続けることは、バッテリーの無駄遣いだ。
彼女はただ、目を閉じて、椅子の脚から床へと伝わる冷たさを感じながら、脳内の作業メモリを一度空にする。
こうして午前の科目を乗り切り、昼休みがやってきた。
五十分という長丁場。
ここが八時間労働の分水嶺だと刹那は言っていた。
世界は一人、中庭の隅にあるベンチへと向かう。
刹那の家で作った、消化に良い特製のおにぎりと、一切れの卵焼き。
「いただきます」
小さく呟き、咀嚼する。
会話は脳の酸素を奪う。
誰かと連れ立って食べる楽しさよりも、今は生存が優先される。
(刹那も、こうやって戦っているのかな)
一〇割の力を出せる言葉。
一〇割の力を配分できる刹那。
その間に立つために、自分はあえて三割を捨て、冷徹な機械を演じている。
食事を終えた世界は、ベンチで十数分、強制的に意識を落とした。
深い眠りではない。
視覚情報を遮断して脳の温度を下げる空冷の時間。
これこそが、午後の科目、そして最後の小論文まで心臓を動かし続けるためのハックだ。
午後の試験が始まる。
疲労が澱のように体に溜まり、集中力の糸が細くなっていく。
だが、世界は焦らない。
三割は捨てていい免罪符が、彼女の肩を軽くしている。
複雑な計算。
重箱の隅をつつくような知識問題。
世界はそれらを、事務的に『仕分け』ていく。
無理をしない。
脳の出力を保ち、最後の一滴を小論文のために残しておく。
そして、夕闇が迫る頃。
本日最後の労働である、小論文が始まった。
「はじめ」
その一言で、世界は視線を落とした。
問題用紙。
黒い文字が、静かに浮かんでいる。
――『努力とは何か。あなたの考えを述べなさい。(六百字以内)』
(……来た)
胸の奥で、何かが動きかける。
“努力”という言葉は、世界にとって軽くない。
倒れた日。
何もできなかった時間。
追いつけない焦り。
いくらでも書ける。
――だから、書くな。
刹那の声が、そこで刃を入れた。
世界の頭の中で浸透している。
(考えない)
世界は、一度だけ目を閉じた。
吸って、吐く。
そして、決める。
(書きやすい方)
鉛筆を動かす。
下書き欄に、骨組みだけを刻む。
結論。
理由一。
理由二。
結論。
それ以上は、何も置かない。
(内側に入らない)
“努力は美しい”と書きたくなる衝動。
“報われない努力”という言葉の重さ。
全部、外に押し出す。
(外側で組むだけ)
手が動く。
私は、努力とは目標に向かって継続的に行動することだと考える。
まず、努力は結果を出すための基盤となるからである。日々の積み重ねによって力は少しずつ伸びていく。私は居合道の稽古を通じて、一つの動作を繰り返すことで集中力が養われることを学んだ。このような継続が、最終的な成果につながると感じている。
次に、努力は自分を成長させる機会になるからである。結果だけでなく、過程において多くのことを学ぶことができる。例えば、社会においても日々の積み重ねが重要であり、継続して取り組む姿勢が求められているとニュースなどで見聞きする。
以上の理由から、努力とは目標に向かって継続的に行動し、自分を成長させるものであると考える。
止まらない。
一度も。
(良いか悪いか、考えない)
書き終えたあとに来る空白。
本当はここで、人は足す。
言い足りない。
もっと伝えたい。
“自分の言葉”を置きたくなる。
(おしまい)
鉛筆を置く。
呼吸だけが残る。
周りでは、まだ紙の音が続いている。
誰かが消しゴムを使う。
誰かが立ち止まる。
世界は動かない。
(ここは戦う場所じゃない)
もう指示を出さない。
出す必要がないところまで、来ている。
“自分らしさ”は、一行も書いていない。
でも、崩れてもいない。
それでいい。
やがて、
「そこまで」
試験官の声が、静寂を切る。
世界は答案を裏返した。
何も足さなかった。
何も削らなかった。
ただ、通るための形だけを残して。
机の上に置かれた六百字は、軽い。
けれどその軽さは、
何かを捨てて得た重さでもあった。