World Days(新版) 作:完結の陽炎
清浦刹那は、ペンを置いた。
机上に、西園寺世界の過去三回分にわたる定期試験の結果と、彼女のバイオリズムを分単位で記録したノートが広がる。
分析の結果は、冷酷なまでに明快。
――世界は、正攻法で受験に挑んではならない。
同じ中学、同じクラス。
一番近くで彼女を観測し続けてきた刹那。
世界の点数で明暗を分けるのは、知識の多寡ではない。
彼女の最大の美点であるはずの好奇心そのものだ。
問題文の行間に潜む物語に無意識に共感。
出題者の意図を過剰に深読み。
ひっかけ問題で失敗しやすい。
正解とは無関係な思考へ飛んでしまいがち。
それが『外交』ならば、人と人を繋ぎ、場を照らす太陽になれるだろう。
だが、哀しきかな。
受験という紙の上では、ただの注意散漫。
豊かな人間性は、一点の価値も持たない不純物へと落ちる。
余計な思考が、乏しい脳の酸素を奪い、集中力を霧散させてしまう。
生まれつき脆弱な世界の心身がもたない。
だからこそ、刹那は伝えるのだ。
――三割を、捨てろ。
世界の美徳を無惨に切り捨てる『剪定』。
持ち味の好奇心を無理やり封じ込める。
西園寺世界の個性を、結果を吐き出すだけの精密機械へ貶めてしまう。
刹那にとって、それがどれほど非情で、暴力的な戦略であるか。
他ならぬ本人が一番よく理解している。
親友の翼を、自らの手で縛り上げるのだ。
それは吐き気を催すほどの罪悪感である。
それでも。
不合格という絶望の淵に立たされることがあってはならない。
己の存在価値をシステムに全否定される世界。
それを見ることだけは、万に一つも許されない。
もし世界が壊れれば、彼女を守る刹那のアイデンティティも壊れる。
この受験、単なる進学の問題ではない。
二人の人生を賭けた、後戻りのできない『共生を賭けた戦い』だ。
傍らで見れば、大げさだと笑うだろう。
「たかが高校受験じゃないか」と。
だが、その言葉、部外者の身勝手な放言に過ぎない。
普通という名の安易な一般論。
個々の事情を削ぎ落とし、画一的な物差しで他人の人生を測ろうとする。
そんな無責任な暴言だ。
刹那はその不条理から世界を隔離する。
そのために、あえて戦略という鎧を、世界に着せた。
たとえそれが、世界を苦しめる窮屈な拘束衣であっても。
◎〇×の仕分け。時計を見る回数の制限。一呼吸を置くためのペン休め。
あらゆる肯定の手順をマニュアル化。
世界を徹底した『受験マシン』へと造り替えていく。
ただ点数を稼ぐため。
それだけに、システム内で不快な演技を強いられる。
刹那は閉じた瞳の裏で、本番の受験会場をシミュレートした。
(……足りない。これだけでは、まだ世界は揺らぐ)
環境の変化に極めて敏感な世界。
その性質を思えば、本番の空気に飲まれるリスクが拭えない。
ならば、その環境すらもハックすべきではないか。
刹那は端末を手に取り、桂言葉へ連絡をした。
彼女の家ならば、本番に近い「舞台」を用意できるはず。
「お父さんのコネで用意できます。任せてください」
「よろしくことぴー」
数日後。
指定の場所へ向かって異常な光景が広がった。
「わあー、なんか本当に受験会場って感じ。ことちゃんすごいね」
「お役に立てて光栄です。せっちゃん、これでどうですか?」
「上出来。あとは光、七海、そして乙女。手筈通り、よろしく」
「ま、みんなで受かるためだし」
「他ならぬ刹那の頼みなら聞かないわけにいかないよね。乙女もバシッとやるよ」
「わ、わかった」
それぞれの席に着く。
この特訓の真髄は、世界一人を孤立させることではない。
自分以外の全員が、猛烈な勢いでペンを走らせる。
焦燥の音の中に、世界を放り込んでいく。
「せ、刹那。なんか周りがスラスラ解いてるように聞こえるんだけど?」
「世界。これは、ノイズを拒絶するための訓練。周りでどれだけ音を響かせようと、それはすべて野良猫が鳴いていると思って」
「そんなカワイイ声に聞こえないってば」
「気にしたらダメ。世界の敵は、目の前の紙だけ。いい? 時計を見るのは三回だけだよ。まずは仕分けから始めて」
冷徹な試験官となる刹那。
世界は震える手でペンを握った。
カリカリ、という乾いた音が部屋を満たす。
光の苛立ち混じりの筆音。
言葉の淀みないリズム。
七海の力強い筆走り。
乙女の慎重な響き。
他者の気配に呑まれそうになる。
そのたびに、世界は教わった手順を呪文のように繰り返す。
仕分け、◎の回収、そして意図的な空白。
何度も、何度も、時間を計り、手順を体に染み込ませていく。
刹那の戦略と言葉の薬理によって編み上げられた。
防衛心理の中で、世界の心拍は次第に安定していった。
窓の外、冬の陽光が差し込む静寂の中。
世界はシステムの中で生き残るための演技を。
我が物としようと模擬訓練に時間をかけていく。
こうしてその日を終えて解散。
世界と刹那が二人でその場に残ったときのこと。
「刹那、受験って何かアレだよね」
「アレって?」
「紙の上で答えを書くだけなのに、これで評価される……なんだか、変な感じ」
「……うん。世界の言いたいこと、わかる。その違和感は正しい」
踏み台の上に立つ刹那。
迷いなく黒板にチョークを走らせる。
カリカリ、という乾いた音。
それが静まり返った室内で鋭く弾けていく。
黒板に大きな『ザル』の絵を描き入れた。
「世界。学校は、点数という誰にでも公平で、偽造できない物差しだよ。限られた時間と予算、そして教師の数で、数千人の志願者をふるいにかけなきゃいけない」
刹那はザルの絵の中に、いくつもの円を描く。
「こうしてザルに石を放り込んで、サラサラと振るの。網目を通り抜けられずに残ったものが『合格者』、落ちたものは『不合格者』。榊野の網目は、七割から八割というサイズに設定。それ以下の石は、この場所では『ゴミ』で処理」
「刹那、そのサイズを決めるのが、なんでテストだけなの?」
世界は食い下がる。
どうにも納得がいかない。
自分たちの個性が、なぜこんな薄っぺらな紙一枚に決めつけられるのか。
「内申点とか、面接とか、もっとこう……人を見る方法ってあるじゃない。ほら、AO入試とか、指定校推薦とか。そういう無試験で合格とか、ないの?」
「ない」
「本当に……?」
「本当」
刹那は再び、黒板にチョークを叩きつけるように書き込みを始めた。
今度は『AO入試』『自己推薦』という文字。
既存のザルよりもさらに複雑で、禍々しいトゲのある網として描き出す。
「世界が言うAOや推薦は、人間性を見てくれる救済措置に聞こえる。でも現実は違う。それは、一般入試よりも遥かに過酷な『スペックの削り合い』」
「えー、そうなの?」
「AO入試は、数値化できない人間性じゃなく、数値化できる『実績』と、それをプレゼンできる『強靭な精神』。そして何より、長時間に耐えうる圧倒的な『健康』だから」
刹那は黒板の『AO』の文字を、力強く囲った。
特に健康という項目を強調する。
そこが最も世界にとっての弱点となるからだ。
「たとえばボランティアの実績、生徒会役員、大会入賞……。学校側が欲しいのは良い人じゃなくて、学校の宣伝材料になる『駒』。世界、その実績を並べるだけの体力ある?」
「それって身近なものじゃない。ハードル高すぎ」
刹那はキッパリと言い切る。
日常の善行は実績として認められない。
準備の継続そのものに圧倒的な体力と精神力が要求されてしまう。
刹那は指示棒を片手に黒板に書いた小論文と面接の項目を示す。
「何万字もの志望理由書を書き直し。大人たちからの質問攻め。自己アピールという名のバーゲンセール」
「スーパーの安売りセールなら嬉しいのに。質問ってどんな内容なの?」
「たとえば、こんな質問。『あなたは本校に入学して、どのような形で貢献できますか?』。あるいは、『あなたの考える現代社会の課題と、それに対する具体的な解決策を述べてください』」
「……う。なにそれ、お堅い。っていうか、貢献って……私はただ、刹那んたちと一緒に楽しく学校に通いたいだけなんだけど?」
「そう。その『ただ一緒にいたい』という純粋な願いは、AOという戦場では武器にならない。むしろ、そんな曖昧な動機は、面接官員たちに、一瞬でアウトと判定されてしまう」
刹那は黒板に、さらに鋭利なトゲを描き足した。
「面接官は、世界の笑顔や優しさなんて見ていない。彼らが求めるのは、学校のブランド価値を上げるための『根拠』だけ。世界に、見ず知らずの大人を納得させるだけの嘘……ううん、自分を飾る嘘が吐ける?」
「難しいこと言われても全然わかんなーい」
「そんな難しいものを、大人たちは要求する。ただでさえ、世界はストレスに弱いのに、試験当日の数時間よりも、遥かに苦しむ毒で苦しんでしまう」
ここまで言われたらAOは無理である。
キッパリと諦めるに限るだろう。
だから世界は縋るように推薦ならどうだと言うのだが。
「推薦も同じ。それは三年間、一度の遅刻も、一度の体調不良も、一度の自分勝手もない。『完璧な優等生』でなければならない。心身の弱い世界は、推薦の条件が満たされていないから不可」
逃げ場のない現実が図解されている。
世界という人間性が、いかに脆く、いかにシステムに適合しにくいか。
それをまざまざと突きつけられて、肩を落とす。
「……じゃあ、私ってゴミとして落ちてしまうんだ」
「違う」
刹那は踏み台から飛び降り、世界の目の前に立つ。
その掌は、チョークの粉で白く汚れていていた。
「だからこそ、この紙の上だけの勝負に持ち込む。点数だけが、差別のない唯一の希望。面接官の主観も、三年間の欠席日数も、全部『点数』で黙らせる。そのために、私が今ここで、責任をもって剪定している」
「刹那……」
「世界の良さは、榊野に入ってから、私の隣で証明して。今は……この『ザル』をすり抜
けるためだけに集中して」
世界の瞳に、再び光が宿る。
それは、システムへの屈服ではない。
自分という聖域を守るための、共犯者としての決意である。
「……合格できるかな?」
「できる」
刹那の回答に、一片の迷いもない。
それは単なる励ましではない。
幾百、幾千のシミュレーションを重ね、世界の脆弱性を論理で埋め尽くした。
冷徹なまでの確定事項である。
「わかった。刹那を信じる」
「うん」
「受かったら光のお祝いケーキだね」
「食べ過ぎ注意」
「わ、わかってるよ」
世界はそう言って、刹那の手を包み込むように握りしめた。
指先はチョークの粉で白く汚れ、黒板の冷たさが移っている。
けれど、世界はそれを払おうとはしない。
その白さは、自分のために刹那に苦労をかけている証だから。
窓の外、陽光はどこまでも透き通る。
報いるための結果。
勝利のための演技。
二人の共生を賭けた戦いは、いま、静かに火蓋を切った。