World Days(新版)   作:完結の陽炎

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榊野学園2学期、第4話「田中の骨折で委員代理を決める」にある物語より、誠の流されやすさをカンストさせ、ご都合主義な展開で刹那たちを翻弄するIFストーリーです。


迷走する誠の喜劇

 学園祭の喧騒が、遠雷のように校舎を震わせていた。

 廊下の向こうでは笑い声と足音が混ざり合い、非日常の熱気が確かに存在している。

 

 しかし――1年3組の教卓周辺だけは、まるで別の気圧に閉じ込められていた。

 静かすぎる。

 空気が張りつめ、誰もが不用意に口を開くことを躊躇している。

 

 原因は明白だった。

 田中の骨折。

 そして、その穴を埋める者がいないという現実。

 

「伊藤、あんた暇でしょ? あんたが委員やりなさいよ」

 

 黒田光の声は、静寂に石を投げ込むように鋭かった。

 その瞬間、誠の視線は反射的に泳ぐ。

 黒田でも澤永でもなく――西園寺世界へ。

 助けを求めるような、責任を転嫁したいような、曖昧で弱い目線。

 

(なんで西園寺、何も言わないんだよ……)

 

 世界はその視線を受け止め、ほんの一瞬だけ困ったように眉尻を下げた。

 だがすぐに、いつもの柔らかな笑みへと戻る。

 逃げ道は、そこにはなかった。

 

「……あはは。何かな、伊藤?」

 

 軽い。

 だが、その軽さは受け流しではなく、封鎖だった。

 

 ――俺より西園寺のほうが向いてるだろ。

 

 喉まで出かかった言葉を、誠は飲み込む。

 踏み込めば何かを壊す。

 そんな予感だけがあった。

 

「いや別に……それより黒田がやればいいだろ」

 

 声がわずかに上ずる。

 それでも、言い返したつもりだった。

 だが――

 

「あんたバカ?」

 

 間髪入れずに叩き落とされる。

 光は腕を組み、体重を片足に預けたまま、冷ややかな視線を誠へ向けた。

 

「私には店があるの。あんたみたいにフラフラしてる暇人と一緒にしないで」

 

 容赦なく“役割”で人を切り分ける。

 誠は口をつぐむ。

 次の逃げ道を探すように、視線がまた揺れた。

 

「じゃあ泰介――」

 

「無理」

 

 被せるように澤永が笑う。

 

「クラスの取りまとめを頼まれてさ。ここ外れるわけにいかないんだ」

 

 軽い調子。

 だが、その裏にある責任の重さは、誠にも理解できた。

 逃げ道が、音を立てて塞がれていく。

 

「……くじ引きで決めればいいだろ」

 

 最後の手段。

 “公平”という名の責任放棄。

 その言葉が落ちた瞬間――

 

「伊藤」

 

 刹那の声。

 低い。

 あまりに短い。

 だが、空気そのものを凍らせる圧があった。

 誠の背筋に冷たいものが走っていく。

 

(なんだよ、その目……)

 

 口にされていない。

 だが、はっきりと突きつけられている。

 

 ――もし世界に当たったらどうする。

 

 誠は知らない。

 世界が生まれつき体が弱いことを。

 だから引き受けられないという事情を。

 

 ひたすら息苦しさを感じていく。

 これは耐えられない。

 視線、空気、沈黙。

 すべてから逃げるように、誠は立ち上がった。

 

「……トイレ」

 

 誰も止めない。

 これは生理現象だから止められない。

 そして逃走を確定させた。

 

 男子トイレ。

 個室の扉を閉めた。

 狭くて暗いが安全である。

 誠は便座に腰を下ろして、深く息を吐く。

 

(落ち着け……落ち着け……)

 

 だが――

 次の瞬間、現実が牙を剥く。

 

(紙、ねえじゃん……)

 

 完全な詰み。

 誠は天井を仰ぎ、数秒間、何も考えなかった。

 やがて、震える指で携帯を取り出す。

 

『紙が切れてる。助けてくれ、泰介』

 

 人としての威厳を捨てた救援要請。

 数分後、ノック音。

 カラカラと、無機質な音を立てて差し込まれる紙ロール。

 

「お前なあ……」

 

 扉越しの呆れ声。

 誠は無言でそれを掴む。

 助かった。

 だが同時に、何かが終わった気もした。

 

 トイレからの解放。

 廊下を出た誠の足取り。

 まだ定まっていない。

 その視界に、ふと光るものが入る。

 床に転がる、百円玉だ。

 

(……これ、届けた方がいいよな)

 

 それは善行であり、正しさ。

 逃避を正当化するにも十分な理由だった。

 誠はそれを拾い上げる。

 小さな硬貨が、妙に重みがある。

 

(よし、職員室だ)

 

 だが、辿り着いた先は――無人である。

 静まり返った空間。

 誰もいない机。

 渡す相手が……いない。

 

「……は?」

 

 誠の中で、何かが崩れていく。

 これはどうしたものかと判断に困る。

 頼れるのは泰介だと電話をかけた。

 

 

 その頃、1年3組の教室では。

 光の苛立ちが、すでに沸点を超えていた。

 

「逃げたわね、あいつ」

 

 吐き捨てるような声。

 

「きっとパニックになってるだけだよ」

 

 世界が静かに言う。

 声は柔らかい。

 だが、その響きには現実的な冷たさも含まれていた。

 

 ――期待できない。

 

 その判断が、すでに下されている。

 刹那は無言のまま、机の上に並べた書類を一枚ずつ揃える。

 寸分のズレもなく。

 正確に。

 無駄なく。

 そして。

 

「……伊藤は、無駄な動きが多すぎる」

 

 低い声。

 感情を削ぎ落とした、評価だけの言葉。

 その言葉に、光が鼻で笑う。

 

「無駄どころじゃないでしょ。あれ全部逃げよ」

 

 容赦がない。

 だが、否定する者もいなかった。

 そこで、泰介が誠の着信を受けて応じた。

 

「誠、お前いま何やってるんだよ」

「大変だ泰介、落とし物届けようとしたのに、職員室に誰もいないんだ」

「今は準備で先生いねえんだろ。事務局に行けよ」

「どこだよそれ? 行ったことねえからわかんねえって」

 

 泰介が刹那へ問う。

 するとたった一言。

 

「別棟一階」

 

 それを誠に伝える。

 この時の誠は別棟を知らない。

 でも行けば何とかなるだろうと思った。

 

「届けたら戻る」

 

 そう言い残して通話は終了。

 戻ってくるだろうかと待つ。

 しかし、それから一向に戻ってくる様子がない。

 

「誠のやつ、迷子になってるんじゃないか」

 

 泰介の言葉を聞いた刹那。

 さすがに見かねたのか。

 連れ戻すとこの場で宣言する。

 ここで泰介は携帯を取り出した。

 

「委員長、探すなら誠の番号いるか?」

 

「見せて」

 

 即答だった。

 迷いがない。

 澤永が画面を差し出す。

 刹那はそれを一瞥し、番号を記憶する。

 

「誠には俺から電話しとく。知らない番号だと、あいつ無視するかもしれないから」

 

「お願い」

 

 短い返答で視線は教室の出口へ。

 

「行ってくる」

 

 それだけ言って歩き出す。

 小さな背中は、必ず連れ戻すという意志を秘めていた。

 

 一方その頃、誠は旧校舎で迷っていた。

 泰介から刹那に番号を渡したからとメールが入る。

 だから無視しないようにと。

 そのメールを開いてみた。

 

【件名:清浦刹那 / 本文:今、どこ。動かないで】

 

 誠はメールで返す。

 

【件名:伊藤誠 / 本文:グラウンドが見えるボロい棟の一階】

 

 その返信直後である。

 これまでの緊張もあってだろうか。

 誠を襲ったのは猛烈な喉の渇きであった。

 

(水飲み場に行こう。水分は大事だよな)

 

 こうして旧校舎から離れる誠。

 水飲み場で一息ついた。

 

「ぷはー、生き返った」

 

 水分補給をすませて元の場所へ戻ろうとした。

 すると通りがかった体育教師の声が降る。

 

「おお伊藤! ちょうどいい、紅白幕張りを手伝え!」

「わ、わかりました」

 

 さすがに先生に逆らうわけにはいかない。

 誠は流されるまま大人しく手伝った。

 作業をしている間は、携帯を触ることができない。

 どれだけ連絡が来ても応対不可である。

 

 一方その頃、刹那はメールの文脈から旧校舎を特定。

 その場へ向かったが、もぬけの殻であった。

 

「動くなって、言ったのに」

 

 瞳が鋭く細まる。

 手掛かりを求めて電話かけても出ない。

 それから何分か過ぎた頃であろうか。

 誠からのメールがあった。

 

【件名:伊藤誠 / 本文:ごめん清浦。先生に捕まって、紅白幕の設営手伝わされた。落とし物の百円玉渡し忘れた。事務局を探してるけど、どこかわからず迷ってる】

 

 刹那は「おい」と言いたくもなる。

 でも怒るに怒れない。

 そして一言。

 

「……学習能力、ゼロ」

 

 刹那は再び指を滑らせて応答する。

 

【件名:清浦刹那 / 本文:その百円玉は私が預かる。今すぐそこから動くな。現在地を報告。――次、動いたら、容赦しない】

 

 送信してから数分後。

 誠から素直な返信があった。

 

【件名:伊藤誠 / 本文:三階の視聴覚室、窓から校庭と自販機が見える位置】

 

 旧校舎1階で事務局がなかった。

 だから別の棟で別の階にあるはずだ。

 そんな混濁した思考で的外れな場所にいる

 とにかく視聴覚室へ向かえばいい。

 刹那は気を取り直してそこへ向かったのだが。

 

「……また、いない」

 

 なぜこうなってしまったのか。

 それは誠が待機していたのに。

 べつの不運が襲ってきたからだ。

 

「おーい伊藤! 視聴覚機材の搬入を手伝え!」

 

 今度は放送部の顧問である。

 大人の権威に未成年の誠が抵抗できない。

 彼は流されるまま、おとなしく従うだけだ。

 そして刹那が三階に到着した時、すでに標的は消失している。

 

「……」

 

 刹那が心なしか震えた。

 いい加減にしろと怒りたくもなるだろう。

 無言で携帯を叩く。

 だが作業中の誠は出るに出られない。

 すると世界のほうから電話がかかってきた。

 

「もしもし刹那、伊藤は見つかった?」

 

「いない」

 

「今、どこ?」

 

「三階の視聴覚室」

 

「あー、私と七海、光と澤永で手分けして探すから、刹那は今いる辺り探して」

 

「わかった」

 

 ここから総力戦が始まった。

 泰介が叫び、光が拳を握りしめ、世界と七海がローラー作戦を展開する。

 

 そんな中、当の誠は資材運びの手伝い中。

 校内を出前のように駆け回っていた。

 歩きスマホは事故の元。

 その生真面目さが災いし、連絡は一切途絶である。

 そして、ついに刹那へ届いたメールの一報。

 

【件名:伊藤誠 / 本文:連絡遅れてごめん。体育倉庫の資材運びでようやく終わった。百円玉を届ける場所、どこの何階か忘れた。なんかコレ、もう清浦に渡したほうがいい気がしてきた】

 

 優先順位も、階層の記憶もバラバラ。

 もはや思考停止した誠の降伏宣言である。

 刹那はメールを握りしめ、復唱した。

 

「……体育倉庫。……忘れた。……気がしてきた」

 

 その声に宿る温度は、もはや絶対零度を越える。

 刹那たちが探しているのに誠が捕まらない。

 その手間と時間のコストで苛立ちが募っていく。

 

「……逃がさない。二度と」

 

 一斉送信で仲間に包囲を命じる。

 しかし、この喜劇は予想だにしない結末を迎えた。

 一旦仕切り直そうと、刹那たちが1年3組へと戻った時。

 そこで泰介が報告をしたのだ。

 

 

「……誠、身内の緊急連絡があって帰ったぜ」

 

 泰介の報告にその場がシーンと静まる。

 そして光が絶叫した。

 

「はああぁぁ!? 何よそれ! 私たちがどれだけ振り回されたと思ってんのよ! トイレから始まって、百円玉、紅白幕、機材搬入、体育倉庫……挙句の果てに身内の事情で強制終了? それってギャグなの!? ギャグにしてはタチが悪すぎるわよ!」

 

 光の怒声はもっともである。

 緻密な包囲網を敷き、誠をようやく捕まえようとした矢先。

 突拍子もない家族事情で消えてしまったのだ。

 

「あはは……。伊藤ってある意味すごいというか、なんというか……」

 

 世界は頬をかきながら何とも言えない顔を浮かべる。

 

「……百円玉は」

 

 刹那が、ポツリと零す。

 すると泰介が反応して差し出した。

 

「それなら伝言付きで俺に預けてきたぜ」

「伝言?」

「『清浦に渡しといてくれ。あと、学祭委員の件は明日話すから』ってさ」

 

 誠の体温が残る百円玉。

 それを刹那は、一切の感情を排した無表情で受け取る。

 手のひらに乗る小さな硬貨。

 誠が責任の義務から逃走し続けるために振りかざした。

 善意の免罪符そのものである。

 

 刹那の演算は、常に論理的で完璧。

 動線を読み、メールで誘導し、最短距離で捕捉する。

 しかし、彼女の計算式に「誠の主体性のなさ」という変数はなかった。

 他人に言われれば、紅白幕を張り、命じられれば機材を運び、身内に呼ばれればすべてを放り出して駆け出す。

 

 自分の意志を持たず、周囲の状況という激流にただ流されるだけの流動体。

 それを固定することなど、いかなる天才にも不可能ではないか。

 

「……明日」

 

 刹那は百円玉をポケットにねじ込む。

 夕闇に沈む校門の方角をじっと見つめた。

 

「……明日、登校した瞬間、確保する」

 

 その瞳に宿る静かな、しかし確かな執着の炎。

 世界はそれを黙って見つめていた。

 誠本人がいない場所で、彼を巡る管理権の火花が散った。

 

 当の誠は今頃どうしているのだろうか。

 今日は大変だったけど、良いことをした。

 そんな気楽な確信を抱いているかもしれない。

 

 自分が拾った百円玉。

 それが明日、自分の自由を買い取る代価としては、あまりに不足している。

 

 迷走する誠の喜劇。

 その一幕は、主役の不在。

 あまりにも締まらない、そしてあまりに誠らしい逃避。

 そうして、唐突な終幕を迎えたのであった。

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