World Days(新版)   作:完結の陽炎

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 榊野学園2学期、第14話「パリ行きの選択肢」にある分岐ルートで、もしも世界が電話ではなくメールで刹那と言葉に送った場合のお話となります。


恩赦の地獄(前編)

 西園寺世界の精神は、音を立てて崩れ落ちる。

 思考の歯車は噛み合うことを拒み、虚空を空転していく。

 母・踊子の宣告。

 それは転勤という皮肉を借りた、娘への死刑判決だ。

 

 理不尽で暴力的な自己愛。

 異国の地、見知らぬ言語、そして致命的な渡航ストレス。

 脆弱な自律神経を抱える世界にとって、それは致死量の毒を盛られるに等しい。

 断頭台に立つ者に微笑を強いるような、あまりにも傲慢な夢の押し付けである。

 

 誰かに助けを求めようにも、声は喉の奥で泥のように溶け、潰れる。

 だが、このまま沈黙に安住すれば、濁流に呑み込まれ、命の灯火が消える。

 震える指先で、世界は命綱を握りしめるように携帯を掴んだ。

 

 視界は涙に滲み、過呼吸の眩暈で世界がぐにゃぐにゃに歪む。

 文体を整える余裕などない。

 魂の最期を託すように、信頼の置ける二人。

 

 ――刹那と言葉へ。

 

 断片的な悲鳴を撃ち込んだ。

 

 

件名:助けて

 

お母さんがパリに行くって決めた。

私も無理やり連れて行くって。

私の命が、ここでおわっちゃう。

こわい。助けて。

 

 

 送信直後、携帯電話が床に滑り落ちた。

 乾いた硬質な音が、絶望の余韻となって響く。

 世界は糸の切れた人形のように、ベッドの端から静かにブラックアウトする。

 

 

 清浦家のマンション。

 翌日の準備をしていた刹那。

 その指が、通知音と共に凍り付く。

 画面に浮かぶ四文字。

 刹那の瞳から、瞬時にして光彩が消失した。

 

 彼女は何も言わず、即座に階下へ降りる。

 リビングには、資料に目を通す母・舞。

 

「お母さん」

 

 全身から放たれる異様な殺気。

 舞が顔を上げると、そこには感情を排し、絶対零度に凍てついた娘が立っていた。

 

「世界が殺される。おばさんに、パリに連れて行かれて、殺される」

 

 声は震えていない。

 むしろ、研ぎ澄まされた刃物のような冷徹さが宿っていた。

 舞は差し出されたメールを一読し、すべてを悟った。

 踊子の夢が他者の犠牲を顧みない性質であることを。

 これは内輪揉めではない。

 明白な生存権の侵害である。

 

「刹那、すぐに世界ちゃんのところへ。おばさんには私から電話する。それと――」

 

 舞は受話器を手に取り、ラディッシュ本社の役員専用ラインをダイヤルした。

 踊子を社会的・実務的に完全に制圧するための権力ネットワークが冷酷に起動する。

 

「……ええ、清浦です。フランス支店の立ち上げメンバーから、至急外していただきたい名前があります。人事上の『重大なリスク』が発覚しました」

 

 舞の冷ややかな声が、踊子の野望を根底から切り崩していく。

 世界の命を守るための、大人の実務による包囲網。

 

 

 一方、桂家のリビング。言葉の端末が静寂を切り裂いた。

 画面に躍る魂の断片。

 その瞬間、言葉の背筋が伸びた。

 かつて道場で見せた闇の居合のような氷の感覚が駆け抜ける。

 言葉は迷わず書斎のドアをノックした。

 

「お父さん、至急、お話ししたいことがあります」

 

 娘のただならぬ顔色。

 その携帯の内容に、父の眉間には深い皺が刻まれた。

 

「……パリへの強制的連れ出し。踊子さんの暴挙か」

 

 地を這うような重低音。

 世界は、かつて肩を揉んで笑い合った家族も同然の少女だ。

 その脆弱な健康状態を知りながら、己の夢のために死地へ追いやる母親の傲慢。

 それは、彼が最も忌み嫌う弱者への蹂躙に他ならなかった。

 

「真奈美、来なさい。緊急事態だ」

 

 父は母・真奈美を呼び出す。

 一切の妥協を許さない口調で命じた。

 

「すぐに西園寺さんのアパートへ。言葉も一緒に行きなさい。精神的ケアと、物理的な保護が最優先だ。私はこれから踊子さんと話す。一人の親として、そして一人の大人としてだ」

 

 父は既に顧問弁護士への連絡を済ませていた。

 監護権の濫用に対する法的な対抗措置。

 だがそれ以上に、踊子の盲目を精神の刃で叩き斬る覚悟を決めていた。

 

「言葉、世界ちゃんに伝えなさい。『桂家がきみの盾になる。何も恐れるな』と」

 

 真奈美が運転する車の中で、言葉は震える指で返信を打つ。

 

『大丈夫です、世界ちゃん。お父様がすべてを止めてくれます。あなたは、私たちの家で守ります。だから、死なないで』

 

 

 アパートの廊下に激しい足音が響く。

 ドアを叩き切るように開けたのは、瞳に暗黒を宿した刹那だった。

 

「ど、どうしたのせっちゃーー」

「ふざけないで」

 

 刹那からすれば、踊子にあだ名を二度と呼ばれたくない。

 問答無用で遮り、本題の一撃を放つ。

 

「世界は殺されかけて泣いてる。おばさんのその身勝手な野望のせいで!」

 

 続いて飛び込んできた言葉は、迷わず世界の部屋へ。

 床に崩れ落ち、過呼吸に喘ぐ親友を、折れない芯のような強さで抱きしめた。

 

「大丈夫ですよ、世界ちゃん。私たちが来ました」

 

 リビングでは真奈美が踊子の前に立ちはだかる。

 

「踊子さん、お電話はもうお済み? 清浦の舞さんからも、主人からも、話は行っているはずですけれど」

 

 確かに連絡が入っていた。

 そのためか踊子は激しく動揺を隠せない。

 

「どうして皆して邪魔を……! 私はただ、世界と一緒に新しい生活を……!」

「それは生活ではなく、『収容』です」

 

冷然と言い放ったのは、部屋から出てきた言葉だった。

あえて格式の高い振る舞いと口調で一刀両断する。

 

「お父様から伝言です。『娘の命を担保にしたキャリアアップなど、大人のすることではない。世界さんは本日より、桂家が責任を持ってお預かりする』。お母様、世界ちゃんを連れて行きます」

 

 踊子が親権を盾に叫ぶが、刹那がその前に立ちふさがる。

 

「これを見て。世界が命懸けで送った悲鳴。これが証拠になる。お母さんが言ってたよ。『舞を敵に回して、この業界で生きていけると思うな』って」

 

 舞による実務的な包囲網、桂家による倫理的な盾。

 踊子は、自分が手にしていた支配権がいかに卑劣かを思い知らされる。

 端末には本社からの『渡仏中止、国内待機命令』が虚しく届く。

 せめてとばかりに娘に手を伸ばそうとするもーー。

 

「今は、世界ちゃんに触れないでください」

 

 言葉の静かな一言が、踊子の足を止める。

 世界は言葉に支えられ、初めて母を一人の自立した人間の目で見据えた。

 

「お母さん……さようなら。……私、おじちゃんの家に行くね」

 

 それは、世界から最小限にして最大の決別だった。

 車は夜の街を走り、聖域――桂家へと向かう。

 世界が断片的に御礼を述べると。

 

「世界が死んだら、私が困る」

 

 助手席で前を向いたままの刹那の声が、少しだけ震えた。

 大人の権力と、少女たちの絆。

 その両輪が、一人の少女を奈落から引き上げた。

 

 もし踊子が、親としてやるべき相談を一歩でも踏んでいれば。

 その怠慢と盲目は、主治医のドクターストップという客観的事実によって断罪された。

 

 こうして西園寺世界の苦難は、家族の定義を塗り替えた。

 劇的な一夜を経て、ようやく本当の終わりを告げていく。

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