World Days(新版) 作:完結の陽炎
西園寺世界の精神は、音を立てて崩れ落ちる。
思考の歯車は噛み合うことを拒み、虚空を空転していく。
母・踊子の宣告。
それは転勤という皮肉を借りた、娘への死刑判決だ。
理不尽で暴力的な自己愛。
異国の地、見知らぬ言語、そして致命的な渡航ストレス。
脆弱な自律神経を抱える世界にとって、それは致死量の毒を盛られるに等しい。
断頭台に立つ者に微笑を強いるような、あまりにも傲慢な夢の押し付けである。
誰かに助けを求めようにも、声は喉の奥で泥のように溶け、潰れる。
だが、このまま沈黙に安住すれば、濁流に呑み込まれ、命の灯火が消える。
震える指先で、世界は命綱を握りしめるように携帯を掴んだ。
視界は涙に滲み、過呼吸の眩暈で世界がぐにゃぐにゃに歪む。
文体を整える余裕などない。
魂の最期を託すように、信頼の置ける二人。
――刹那と言葉へ。
断片的な悲鳴を撃ち込んだ。
件名:助けて
お母さんがパリに行くって決めた。
私も無理やり連れて行くって。
私の命が、ここでおわっちゃう。
こわい。助けて。
送信直後、携帯電話が床に滑り落ちた。
乾いた硬質な音が、絶望の余韻となって響く。
世界は糸の切れた人形のように、ベッドの端から静かにブラックアウトする。
清浦家のマンション。
翌日の準備をしていた刹那。
その指が、通知音と共に凍り付く。
画面に浮かぶ四文字。
刹那の瞳から、瞬時にして光彩が消失した。
彼女は何も言わず、即座に階下へ降りる。
リビングには、資料に目を通す母・舞。
「お母さん」
全身から放たれる異様な殺気。
舞が顔を上げると、そこには感情を排し、絶対零度に凍てついた娘が立っていた。
「世界が殺される。おばさんに、パリに連れて行かれて、殺される」
声は震えていない。
むしろ、研ぎ澄まされた刃物のような冷徹さが宿っていた。
舞は差し出されたメールを一読し、すべてを悟った。
踊子の夢が他者の犠牲を顧みない性質であることを。
これは内輪揉めではない。
明白な生存権の侵害である。
「刹那、すぐに世界ちゃんのところへ。おばさんには私から電話する。それと――」
舞は受話器を手に取り、ラディッシュ本社の役員専用ラインをダイヤルした。
踊子を社会的・実務的に完全に制圧するための権力ネットワークが冷酷に起動する。
「……ええ、清浦です。フランス支店の立ち上げメンバーから、至急外していただきたい名前があります。人事上の『重大なリスク』が発覚しました」
舞の冷ややかな声が、踊子の野望を根底から切り崩していく。
世界の命を守るための、大人の実務による包囲網。
一方、桂家のリビング。言葉の端末が静寂を切り裂いた。
画面に躍る魂の断片。
その瞬間、言葉の背筋が伸びた。
かつて道場で見せた闇の居合のような氷の感覚が駆け抜ける。
言葉は迷わず書斎のドアをノックした。
「お父さん、至急、お話ししたいことがあります」
娘のただならぬ顔色。
その携帯の内容に、父の眉間には深い皺が刻まれた。
「……パリへの強制的連れ出し。踊子さんの暴挙か」
地を這うような重低音。
世界は、かつて肩を揉んで笑い合った家族も同然の少女だ。
その脆弱な健康状態を知りながら、己の夢のために死地へ追いやる母親の傲慢。
それは、彼が最も忌み嫌う弱者への蹂躙に他ならなかった。
「真奈美、来なさい。緊急事態だ」
父は母・真奈美を呼び出す。
一切の妥協を許さない口調で命じた。
「すぐに西園寺さんのアパートへ。言葉も一緒に行きなさい。精神的ケアと、物理的な保護が最優先だ。私はこれから踊子さんと話す。一人の親として、そして一人の大人としてだ」
父は既に顧問弁護士への連絡を済ませていた。
監護権の濫用に対する法的な対抗措置。
だがそれ以上に、踊子の盲目を精神の刃で叩き斬る覚悟を決めていた。
「言葉、世界ちゃんに伝えなさい。『桂家がきみの盾になる。何も恐れるな』と」
真奈美が運転する車の中で、言葉は震える指で返信を打つ。
『大丈夫です、世界ちゃん。お父様がすべてを止めてくれます。あなたは、私たちの家で守ります。だから、死なないで』
アパートの廊下に激しい足音が響く。
ドアを叩き切るように開けたのは、瞳に暗黒を宿した刹那だった。
「ど、どうしたのせっちゃーー」
「ふざけないで」
刹那からすれば、踊子にあだ名を二度と呼ばれたくない。
問答無用で遮り、本題の一撃を放つ。
「世界は殺されかけて泣いてる。おばさんのその身勝手な野望のせいで!」
続いて飛び込んできた言葉は、迷わず世界の部屋へ。
床に崩れ落ち、過呼吸に喘ぐ親友を、折れない芯のような強さで抱きしめた。
「大丈夫ですよ、世界ちゃん。私たちが来ました」
リビングでは真奈美が踊子の前に立ちはだかる。
「踊子さん、お電話はもうお済み? 清浦の舞さんからも、主人からも、話は行っているはずですけれど」
確かに連絡が入っていた。
そのためか踊子は激しく動揺を隠せない。
「どうして皆して邪魔を……! 私はただ、世界と一緒に新しい生活を……!」
「それは生活ではなく、『収容』です」
冷然と言い放ったのは、部屋から出てきた言葉だった。
あえて格式の高い振る舞いと口調で一刀両断する。
「お父様から伝言です。『娘の命を担保にしたキャリアアップなど、大人のすることではない。世界さんは本日より、桂家が責任を持ってお預かりする』。お母様、世界ちゃんを連れて行きます」
踊子が親権を盾に叫ぶが、刹那がその前に立ちふさがる。
「これを見て。世界が命懸けで送った悲鳴。これが証拠になる。お母さんが言ってたよ。『舞を敵に回して、この業界で生きていけると思うな』って」
舞による実務的な包囲網、桂家による倫理的な盾。
踊子は、自分が手にしていた支配権がいかに卑劣かを思い知らされる。
端末には本社からの『渡仏中止、国内待機命令』が虚しく届く。
せめてとばかりに娘に手を伸ばそうとするもーー。
「今は、世界ちゃんに触れないでください」
言葉の静かな一言が、踊子の足を止める。
世界は言葉に支えられ、初めて母を一人の自立した人間の目で見据えた。
「お母さん……さようなら。……私、おじちゃんの家に行くね」
それは、世界から最小限にして最大の決別だった。
車は夜の街を走り、聖域――桂家へと向かう。
世界が断片的に御礼を述べると。
「世界が死んだら、私が困る」
助手席で前を向いたままの刹那の声が、少しだけ震えた。
大人の権力と、少女たちの絆。
その両輪が、一人の少女を奈落から引き上げた。
もし踊子が、親としてやるべき相談を一歩でも踏んでいれば。
その怠慢と盲目は、主治医のドクターストップという客観的事実によって断罪された。
こうして西園寺世界の苦難は、家族の定義を塗り替えた。
劇的な一夜を経て、ようやく本当の終わりを告げていく。