更新に期間が大きく空いてしまい申し訳ありません。
本日から少しずつ更新できればと思います。
それではセツナ視点です。
——特別教室で例の騒動があってから数日経った。あれから宣言通り、エースはあの日の翌日には特別教室に参加した。
ただエースはボクと同じく、トレーナーがついているウマ娘だ。ボクのときみたいに一悶着起こるんじゃないかと不安だったんだけど……エースと特別教室のウマ娘たちとで何か影でコソコソ話し合いをしてると思ったら、戻ってきたときにはもう肩を組んで笑い合っていた。
「ちょ、ちょっとエース、一体どんなやり方をしたらこんなに打ち解けられるの……!? ボクはみんなから信頼してもらうの大変だったのに……!」
「……? そうだったのか? あたしはただ、セツナの魅力についてあいつらと語ってただけなんだけどな」
「ええ……?」
こっそりエースに友だちづくりの技を伝授して貰おうと後から聞いてみたんだけど、ボクには意味が分からなかった。なんでボクの話題でそこまで仲良くなれるの……?
「——どうやらセツナさんは気がついていないようですが、あなたは彼女たちから相当に好感を持たれているようですよ。それこそ、彼女たちにとってはセツナさんとの繋がりを持つだけの私たちがすぐに受け入れられてしまうくらいには」
(……で、なんでトレーナーさんもいるのぉ!)
そう。ボクの後ろから話しかけてきたのは、紛れもないボクのトレーナーさんだった。
「そ、そうなの……!?」
「そうですよ。——以前から感じていたのですが、セツナさんは時折自己評価が低くなりますね。いいですか? あなたは特別教室のウマ娘たちにとっては、最後の希望と言えるような存在……それだけのことを今為しているのですよ」
「で、でも、彼女たちが強くなれているのは、ほとんど三女神様たちのおかげだから……」
「トレーニングに関してはそうかもしれません。ですが、彼女たちと三女神様を繋げるきっかけを作ったのは、セツナさん自身です。学業と生徒会業務という激務を両立させ、他の時間もリハビリやこの特別教室に費やしているあなたは、私を含めた大人にもできていないことを行っているのです。——あなたは本当に立派なウマ娘ですよ」
「うぅ…………」
トレーナーさんに今までにないくらい褒められて、多分今のボクは恥ずかしさのあまり顔が真っ赤になってしまっていると思う。
『うんうん。そもそも子羊くんがいなかったら、俺たちは力を貸そうにも貸せなかったワケだからね』
『そうね。その上、わたしたちはセツナちゃんやエースちゃんのことで頭がいっぱいだったのだから、あの子たちの力になるという発想すら浮かんでいなかったわ』
『フッ、レースに懸ける強い想いに、他者に手を差し伸べられる懐の広さ——謎に女神と呼ばれている我々よりも、セツナの方が女神として相応しいのではないか?』
な、な、な、何を言ってるんですか、三女神様! ボクなんかが、三女神様たちのようにはなれませんよ!
「——そういうことですから、その激務を少しでも和らげるために、私とエースさんはこうしてあなたのサポートに来たのですよ」
「トレ——「……『トレーナーさんたちも忙しいのに』と言おうとしていますね? そういうことではないのです。誰かが苦労しなければならないのなら、みんなで協力して分かち合おうという話です」
「!」
「エースさんにも言われたことでしょう。私たちの手は遠慮なく使ってください。私はセツナさんのトレーナーであり、エースさんと同じくセツナさんの力になれることがとても嬉しいのですから」
「トレーナーさん……」
……そうだ。トレセン学園の現状を変えるためにも、ボクの手だけじゃ足りないときは、エースやトレーナーさんの力をどんどん借りていくって決めたんだった。
——そして、そこまでみんなで力を合わせるなら、ふたりのことだけじゃなくて三女神様のことも特別教室のみんなに伝えておいた方がいいのかもしれない。
「……ねぇ、トレーナーさん。そういうことなら、特別教室のみんなにボクの中にいる三女神様たちのこと、打ち明けちゃってもいいかな? その方が、ボクというか三女神様たちの指導にも納得性が増すだろうし、みんながボクを信頼してくれているなら、ボクもできるだけ隠し事は無くしたいんだ」
「そうですね。多少の戸惑いはあるかもしれませんが、彼女たちならそれも含めて受け入れてくれるでしょう。私も伝えておいた方が今後の意思疎通も取りやすくなると思います。もちろん、三女神様たちがよろしければ、ですが」
『むしろ俺たちからお願いしたいくらいだよ。俺たちが曖昧な存在のせいで、子羊くんにはいろいろと苦労をかけてごめんな』
『その分、役目はきっちりと果たすわ。存在を明かすことで、これまで以上に一人ひとりに寄り添ったトレーニングができるといいわね』
『であれば、説明は私に任せてくれ。我々の中では、私が最もセツナと印象が違う自覚があるからな。別人格という説得力も増すだろう』
ありがとうございます、三女神様。では、善は急げですし、ボクはみんなを呼んできますね!
そうして、ボクたちは特別教室のみんなに自分の中にいる三女神様の存在を伝えた。三女神様がいるから、みんなの適性が分かったり、適切な指導が行えていることを。
とはいえ、やっぱりあまりにも非現実的な突拍子もない話だから、すぐには受け入れられないかなと思っていたけど——
「やっば! 三女神様いんの!? ホンモノ!? とりまおしゃべりしたい!」
「ウチらの救世主はガチ女神だったじゃんね」
「なるほど、それがセツナさんの強さの秘密だったのですか……!」
「神宿り系ウマ娘……ふふ、捗る……」
——みんなすぐにこのことを受け入れてくれた。シービーもそうだったけど、みんなの器が大きすぎて、ボクは本当に出会いに恵まれていると思った。
「さて、説明も終わったことですし、彼女たちとエースさんのトレーニングを始めましょうか。特別教室では、基本三女神様たちが主体となり、私はサポートに回りたいと思います」
「ありがとう、トレーナーさん……! ——それでは三女神様、今日もよろしくお願いします……!」
『任せてくれ、子羊くん!』
―――
——それからトレーニングは順調に進んでいった。
どうやら特別教室のウマ娘たちにとって、エースというクラシック級の最前線で戦っているウマ娘の存在は大きな刺激になるようで、みんな目標が明確になり、エースに追いつき追い越そうと、やる気に満ち溢れた走りをしていた。
「——あの〜旦那……ちょっと話があるんスけど」
そんな中、指導していた三女神様——ボクの身体とトレーナーがいる方に近づいてきたのは、ダーレーさんに光るものがあると言われているピロウイナーさんだった。
——ってんん? 旦那なんて呼び方初めて聞いたけど、ということはトレーナーさんに用があるのかな? いつの間にそんな関係になってたんだ。
「……な……? ……んな……! ……セツナの旦那!」
! いや違う! ピロウイナーさん、ボクのことを呼んでる……!? とりあえず、急いで三女神様と身体を交代してもらい、対応する。
「あ、ご、ごめんなさい! ボクを呼んでいたんですね!」
「そうスよ! 全く……」
本当にボクのことだったみたいだ。けど、ピロウイナーさんは、どうして急にボクのことを旦那なんて呼んだんだろう?
「……ごめん、急に変な呼び方したのは悪かったよ。けど、先日の一件で旦那があっしらのことを真剣に考えてくれてるんだってわかったから……あっしも、旦那のことちゃんと信じようって決めたんスよ」
そんなボクの思っていたことを察したかのように、ピロウイナーさんは話し始める。
「この呼び方は、あっしの決意の証。もう旦那のことを疑ったりしない。旦那ならあっしを変えてくれるって信じてる。あっしの夢を旦那に預けるから——だから、これからあっしのこと、どうか全力で鍛えてください!」
ピロウイナーさんはそこまで言うと、ボクに向かって深く頭を下げた。……正直、ボクは呆気に取られていた。ピロウイナーがボクのことをそこまで思ってくれるなんて。
先日の一件ってやっぱりアレのことだよね……。でも、ようやくピロウイナーさんにボクの想いが仮初めなんかじゃない、ってことが伝わったみたいで嬉しい。
「ピロウイナーさん……ボクを信じてくれてありがとうございます。ピロウイナーさんは絶対に強くなれるウマ娘なんですから——あのトレーナーたちに示してやりましょう、ピロウイナーさんの強さを!」
「! うん! あっし、あっしを信じてくれた旦那のためにも頑張るから……!」
ピロウイナーさんの瞳は、まっすぐな闘志を燃やしていた。三女神様やトレーナーさんという無比なる指導者を得たピロウイナーさんは、きっとすぐにでも実力を開花させるだろう。……ただ、ボクのため、っていうのはどういうことなんだろう……?
「……あと、その敬語もやめてほしいスよ。なんか距離感じちゃうんで……あっしと旦那は同級生だから——友だち……とは言わずとも、仲間くらいには扱って……ほしいな」
! ピロウイナーさんは、ボクから視線を逸らしながら、やや小声ではあったものの、少し前の彼女からは想像もできないようなことを口にした。
そんなピロウイナーがなんだか可愛らしくて、ボクはそれに応えないわけにはいかなかった。でも……
「——それは違うよ、ピロウイナー!」
「えっ……」
「えへへ、勝手だけど、ボクはもう特別教室のウマ娘たちのことはみんな友だちだと思ってるから! ピロウイナーとボクは、とっくに友だち!」
ボクはピロウイナーの手を取って、握る。
「——! 旦那ッ……!」
ピロウイナーは感極まったのか、そのままボクの手を抜けて抱きついてきた。ピロウイナーはボクよりもほんの少しだけ背が低いから、ボクの身体に収まる形になる。
少しびっくりしたけど、ピロウイナーの好きにさせていよう。
——しかしながら、友だちとは言ったのものの、最初の頃から考えると、彼女のボクに対する信頼度の上がり方は普通じゃない気がする。
「……旦那は、ずっと……あっしの、そばにいて……」
その時、ピロウイナーから悲痛な呟きを聞いた。声量からして、無意識なものだったように思った。ピロウイナーはなにか寂しがっている……?
「……そういえば、ピロウイナー。よかったらキミの夢について聞かせてくれない? どうしてピロウイナーはトレセン学園に入ろうと思ったの? ……教えたくなかったら、全然話さなくてもいいからね」
ボクからはピロウイナーの耳しか見えなかったけど、その耳の動きでなんとなく感情は分かった。ピロウイナーは少し逡巡したかと思うと、気恥ずかしさからかボクの胸により深く顔を密着させ、口を開き始めた。
「……いや、むしろ……旦那には聞いてほしい……。旦那には言うべきだと思うから……。あっしがなんでトレセン学園に来たのか、そしてあっしが今ここにいるワケを——」
―――
——ニホンピロウイナー、それがあっしの名前。
旦那やエースほどじゃないスけど、中央で華やかな暮らしをしてるウマ娘たちとはとても比べられないほどの田舎から出てきたんだ。
あっしは昔から走って風を感じるのが大好きだった。走りたい、ってのは大抵のウマ娘が抱いてる本能のような気持ちなのかもしれない。
ま、そういうことで幼い頃からいろんな場所を走り回ったり、他のウマ娘と競走したりして、気づいたんだ——あっしって周りのウマ娘と比べてけっこー速いんじゃないかって。
実際問題、それは勘違いじゃなくて、後から思い返してみてもあっしは速かったと思う。地元のレース大会では1着ばかり獲ってたし、タイムも小学生にしては好記録をいつも出していた。
だから、そんな小さい頃のあっしが、中央に夢を見てしまうのは時間の問題だった。
地元ではもはや敵無し。これなら中央でもあっしは活躍できるんじゃないかって。
……けど、中央へ向かうには実力以前に大きな問題があったんスよね。
そう。中央のレースに出るには、中央のトレセン学園に入学しないといけない。あの莫大な学費が必要な場所だ。
——もちろん、あっしの家庭にそんなお金はなかった。
とまあそーゆーワケで、トレセン学園入学の件は両親にはとても反対されたんスよ。
少し前のあっしは、まだいろいろ現実を知らなかったってこともあって、それはもう両親とはめちゃくちゃにケンカした。今でも、あっしと両親とのわだかまりは消えていない……それくらいには。
じゃあ、なんであっしが今このトレセン学園にいるのかって話になると思うんスけど、それは協力者——あっしにとっての恩人がいたからで。
その人は、あっしのおじいちゃん。昔っから、いつもあっしのことを見守ってくれてて、あっしの走りを褒めてくれた人だ。
……あっしは両親とケンカ別れして、夢を見ることすらできない現状に絶望した。ひとりで家の縁側に蹲ってずっと泣いてたっけな。
そんなとき、いつのまにかおじいちゃんが隣に座っていた。おじいちゃんはあっしを安心させるようにして頭を撫でてくれた。
あったかい手だった。あっしはそのとき泣くことしかできなかったスけど……。
しばらくして、おじいちゃんはあっしが落ち着いてきたのを確認すると、唐突ながらも慎重にあっしに問いかけてきたんだ。
「……ピロウイナー。おまえさえ良ければ、おまえが中央の大舞台でまだ見ぬ強敵と戦い、そして先頭でゴールを駆け抜ける姿を俺に見せてはくれないか?」
「……えっ……?」
あっしは最初、おじいちゃんが何を言ってるか分からなかった。けど、その言葉を咀嚼していくと次第におじいちゃんはあっしの夢を応援しているんだって気がついた。
「俺はおまえの走りなら絶対に中央でも通用すると信じている。何、学費のことは心配せんでいい。これでも、俺は若い頃鉱山で働いていたからな——その時の“貯蓄”を崩せば問題ない!」
「え……? そ、そうなの……? お、おじいちゃん……あっし……中央に行ってもいいの……?」
「なーんにも問題ないぞ。そういうことならむしろ、おまえというウマ娘を全国に知らしめられないのが勿体ないくらいだからな。ピロウイナーよ、中央に向かうからには、その時はおまえの走りを存分に見せつけてくるんだ」
「おじいちゃん……! うん、分かった……! あっし、絶対G1とか獲ってみせるから……!」
「そうかそうか。ではおまえの父さんには俺から話をつけておこう。だから、来たるその日まで、お前は存分にその走りを磨いておくんだぞ」
「うん! ありがとう、おじいちゃん……!」
——とまあ、トレセン学園に入学できた経緯はこんな感じ。おじいちゃんが昔から密かに集めていた自身の思い出の品でもある、金貨や延べ棒など、あっしには詳しくは分からないけど、他にもいろいろな石を売って学費に換えてくれたんだ。
……そしてあっしは反対する両親から逃げるように中央トレセン学園へ入学した。
もしかしたらトレセン学園に入れるだけ、あっしは恵まれている方なのかも。でも、いつまでもおじいちゃんの支援に頼っているわけにはいかない。
——はやくレースで勝って賞金を獲得して、おじいちゃんの負担を無くせるようにしないと。
そういうワケで、あっしはまず選抜レースでトレーナーに確実にスカウトしてもらうことに全力を注いだ。
……あっしのデビューチャンスは今年っきり。もちろん中央の舞台で不甲斐ない走りをする気はさらさらない。——たとえ万が一結果が振るわなかったとしても、あたしの挑戦は最初の1年間で白黒はっきりつける。
幸いにも、あっしの走りは中央のウマ娘相手でも通用していた。楽勝とは決して言えないんスけど、様々なウマ娘との模擬レースではかなり勝ち越していた。
それで自信がついて、教官に言われた重めのトレーニングにも前向きな気持ちで取り組むことができて捗った。
——そうして、選抜レースではマイルレースに出走して、なんとか1着で走り切ることができたんスよね。
すると、ひとりのトレーナーがあっしの走りを褒めてきた。君のスピードなら必ずG1を獲れる、と。そして、あっしをスカウトしたい、とも。
あっしはもちろん、その誘いを受けた。晴れて選抜レースを勝利で飾ったあっしは、トレーナーを得て、その勢いのままデビュー戦に臨むことになった。
——トレセン学園のトレーナーというのは、総じてとても優秀な人たちだと感じる。ウマ娘のあっしたちよりもウマ娘に詳しくて、どれほど勉強したらそれだけの知識を持てるのか、あっしには想像もできなかった。
トレーナーのトレーニングで、よりいっそう力がついてきたのを実感する。その実感通り、デビュー戦も勝利することができた。
その頃にはあっしにも余裕が出てきて視野も広がり、あっしの同期で話題になっているふたりのウマ娘がいることを知った。
——ミスターシービーとカツラギエース。
片や世代最強との声もあるほど圧倒的な素質を持つウマ娘。片や逃げ戦法でデビュー戦を8バ身差で勝利したウマ娘。
いずれそのウマ娘たちとは戦うことになるとは思っている。だから、あっしもその日まで精一杯トレーニングして、自分の走りを高めていった。
そこからしばらくあっしの挑戦は順調に進んでいた。なるべく賞金を獲得したかったあっしは、できるだけ多くの重賞レースに出走し、自分でも驚いたんスけど、短距離重賞レースを3連勝したんだ。
その次に走ったあっしのジュニア級最後のレースは2着だったものの、全体として見たらかなりの好成績。これならクラシック級も充分に戦えると、手応えを残したままあっしの1年は終了した。
——ただあっしのジュニア級は終わっても、今年のジュニア級自体はまだ終わっていなかった。
そう、ジュニア級最後のG1、年末のホープフルステークスが残っていた。
自分のレースはないものの、両親とのいざこざもあって実家に帰れないあっしは、その日トレセン学園に残っていた。
今まで中央のレースをあまり生観戦してこなかったことに気がついたあっしは、せっかくならこの機会に同期——特にこのレースに出走予定のカツラギエースの走りをじっくり観てみるのも悪くないと思って、ホープフルステークスの舞台である中山レース場へと向かった。
そこであっしは“とんでもない”レースを目撃することになった。
——ゴール板を超えた先で佇むのはあっしが注目していたカツラギエース。そのカツラギエースに満面の笑みで抱きついたのは、14番人気という当時無名だったフューチャーセツナ——旦那っスね。
……勝利したカツラギエースを旦那が祝福している——というワケじゃなかった。旦那が件のカツラギエース相手に見たこともないような走法で差し切り、感極まった末に抱きついたんだ。
つまり、どういうことかというと、このレースの勝者は旦那だった。それは、あっしの知らない強者がまだ同期に存在していたことを意味する。ここで初めて旦那の強さを目の当たりにしたんスよ。
中山レース場2000mのコースレコードを大きく塗り替えた旦那の走り。そんなレースを見てあっしの身体は震えていた。
それが畏怖からきたものなのか、期待からきたものなのかはあっしには分からなかった。
ただどちらにせよあっしは昂っていた。大きな賞金を得るためにはこれほどのウマ娘を倒さないといけない——中央とはなんて恐ろしくて、なんて素晴らしい舞台なんだ! ……って。
それから、あっしはトレーナーの意向で初のG1での目標レースをクラシック三冠の一つ目、皐月賞に定めた。
皐月賞なら賞金額も充分だし、ミスターシービーやカツラギエース、そして旦那とも戦えるかもしれない。今のあっしに異存はなかった。
そして、その後も2月にはG3のマイル戦で勝利を収め、あっしの仕上がりは順調だった。
——正直、この時点ではあっしはかなり強い、と自分ではそう思っていたんスよ。
そのまま皐月賞への調整を行うために、トレーナーの指示で2000mの中距離に慣れるためのトレーニングを始めた。
実のところ2000mを走るのは初めてだったんスけど、1800mは何度も走ったことがあるし、200mくらい距離が延びても特に問題はないだろうとあっしは思っていた。
実際、あっしは2000mは普通に走り切ることができた。——しかし、そこであっしは何か違和感を覚えた。
普通に走ったはずなのに、どこかもやっとする変な感覚。あっしはそれを確かめるために何度か2000mを走った。
そして、4回目を走り終えてあっしはついにその違和感の正体に気がついた。
——そう、いつも走っていたときに浴びていた、心地よい風の感触が全く無かったんだ。それはつまり、2000mの距離ではあっしの普段の速度が出せていないということに気づいてしまった。
それを理解したあっしは、それはもうかなり焦ったんスよ……。何度走ってもあっしの本領が発揮できない。こんな走りじゃあの3人に勝てるわけがないって。
そこからはあっしは自分でもオーバーワークと言えるほど我武者羅にトレーニングを重ねていった。——けど結局、皐月賞当日を迎えるまであの風を感じる走りはできなかった。
——そして皐月賞当日。どういうワケか出走すると思っていたあの3人のうち、旦那だけはいなかったんスけど、その時のミスターシービーとカツラギエースの仕上がりを見て、あっしは……絶望しか感じなかった。
今のあっしにあのふたりに勝てるビジョンが一切見えなくて、でもレースには絶対に勝たないといけなくて……理想と現実のギャップに苛まれて、頭が真っ白になっちゃって——。
……気がついたときには、あっしは20着という最下位で息も絶え絶えにゴールしていた。味わったことのない大敗に——なまじ自分は強いと思っていただけに、あっしの心は圧し潰されそうだった。
そして、あっしの転落はそれだけじゃ終わらなかったんスよ。皐月賞の翌日、それでもあっしはトレーニングを疎かにしている時間はないと思って、なんとか気力を振り絞ってトレーナー室に向かった。
けど、いざトレーナー室に入ってすぐ、そこでトレーナーに言われたことはあまりにも衝撃的すぎて、今でも一言一句違わず覚えている。
「——お前はいい金蔓になると思っていたが、20着とはな……どうやら見込み違いだったようだ。昨日付けでお前とのトレーナー契約は解消したから、もうここには来なくていい」
一瞬、何を言っているのかあっしには理解できなかった。そうやって呆けているうちに、気づいたらあっしは部屋の外に追い出されていた。
なんで……!? どうして自分は見捨てられた……!? トレーナーはあっしのスピードを見込んでくれたんじゃなかったの……!? G1も獲れるって言ってくれたのに……!
——トレーナーの最後の台詞から察するに、きっとあっしとトレーナーの関係はただのビジネスでしかなかったんだ……!
まずいまずいまずい……! トレーナーがいないと重賞レースに出られない……! 今からでも新しいトレーナーを探す……? 幸いにも選抜レースは近く開催される予定のはず……。
けど、今のこんなあっしを誰がスカウトする? このまま選抜レースに出ても、良い結果が得られるかは怪しい。
仮にスカウトされても、また自分の力を示せなければ契約を解消されてしまう……!
まずは力を……そうだ、シービーやエースを倒すための力をつけなければいけない。あの風を感じる心地いい走りを取り戻さないと……。
……ただ、状況を飲み込んだ頃には、もうあっしの振り絞った気力すらも尽きかけていた——。
―――
「——とまあ旦那、あっしの夢とか過去とかはそんな感じ。そういう経緯で、あっしと同じような境遇を持ったウマ娘たちが、夜間に集まってトレーニングをしているっていう話をフレジュスから聞いて、今ここにいるよ」
——やはりというか、ここにいる時点でなんとなく察してはいたけど、ピロウイナーは聞くに耐えない仕打ちを受けたみたいだった。
ただ一度の大敗でトレーナー契約を解消するなんて、そのトレーナーは自分勝手にも程がある……! そして、あの初めて会ったとき、話を聞くためとはいえ、それを無理に掘り返したボクも惨いことをしていたんだと後悔する。
「——話してくれてありがとう、ピロウイナー。……初めて話したあの時は本当にごめん。あまりにも不躾な発言だった……」
「いいんスよ。旦那はあっしを助けてくれてるし、あっしもああ言われなきゃムキになれずに関わろうともしなかっただろうし」
ピロウイナーはそう言いながら、ボクを抱きしめる力を強くした。
「ピロウイナー……。よし、絶対にそのトレーナーを見返してやろう! こんなにも強いウマ娘を手放したことを後悔させてやるんだ!」
「うん、旦那が言うなら、ホントにあっしは強いんだって思えてくるよ! 旦那のためにもあっしはやってやる!」
「その意気だよ、ピロウイナー! ——あ、そういえばピロウイナーもおじいちゃんに応援されて中央に来たんだっけ?」
「そうスけど——“も”ってことはまさか——」
「そう、ボクもおじいちゃんっ子だったんだよ! そういった意味では、ボクもピロウイナーと同じ、おじいちゃんに自分が中央で活躍する姿を見せたくて中央に来たんだ」
「へえ……! だ、旦那のおじいちゃんはどんな人なんすか!」
「ふふっ、ボクのおじいちゃんはね——」
——それからしばらく、ボクとピロウイナーは自分たちのおじいちゃんトークで盛り上がった。ボクのおじいちゃんがすでに亡くなっていることは伝えたけど、同時におじいちゃんがボクたちに見てくれた夢は胸の中に残っていることも伝えた。
ピロウイナーのおじいちゃんも本当に温かい人なんだと、ピロウイナーの語り口からひしひしと伝わってきた。——その時初めて、ピロウイナーは心から楽しそうに笑顔を浮かべていた。